400年以上の歴史を持つ横手のかまくらは、雪国秋田を代表する小正月行事である。秋田の民俗学者として高名な奈良環之助は、「子どもにとっては、カマクラが極楽で、ナマハゲが地獄であった」と述べている。彼が師と仰ぐ民俗学の創始者・柳田国男の著書「雪国の民俗」(柳田国男、三木茂著。昭和19年発行)には、「カマクラ」について次のように記している。

 「正月12、3日頃になると、子どもたちは井戸のかたわらか路ばたに、高さ6、7尺、幅6尺くらいのかまど型の雪室をつくり、天上は板をならべ、ムシロなどをのせ、その上を雪で覆い、内部正面に方形の祭壇をつくって水神様をまつる。そして15日の夜は、祭壇に餅、みかん、甘酒などを供える。雪室の中には、ムシロを敷いて、隣近所の子供たちが集まり、甘酒を温め、餅を焼いて食べる。道行く人たちは餅や賽銭(さいせん)をあげ、子供たちは甘酒や神酒を振舞う。・・・」
 「雪が音もなく降る夜、路ばたに並んだカマクラから灯りがもれて子供たちのはずんだ声が聞こえてくる情景は、おとぎの国そのままである。水神様を祭るのは、この地方は水が乏しいからだといわれている。この国では、雪室は高く積まれているが、積雪が少ないからで、普通の年は雪を掘り下げてつくり、屋根だけがまるく出ているとのことである。」
水神様とかまくら
 共同井戸(仙南村「稲源郷」より)・・・簡易水道や上水道のなかった時代は、早朝から大人や子供がバケツを持ったり、担いだり、飲み水の確保から一日の生活が始まった。(昭和35年頃)

 水神様(すいじんさま)のことを、横手では「おしず(清水)の神さん」と呼んでいる。横手地方は、良質の井戸が少なかったために、昔から飲料水で大変苦労したという。明治時代になっても水汲み井戸が少なく、町内はもとより、広く数丁にわたって使われていた井戸も町の所々にあり、水汲み若勢を雇ったほどで、これらの井戸の水神祭りも盛んであったという。

 正月15日には、水汲みを早めに切り上げ、蓋をしめ、お幣を上げ、井戸小屋を幕で飾ったりして、水神祭りが続けられた。これも「おしず(清水)の神さん」といって、お供え物や賽銭が多く、井戸の年間管理費にあてられていたという。
 水神は、飲料水、かんがい用水などをつかさどる神のことである。水は生活に欠くことのできない生命の源であり、特に農村では水田稲作のために水神に対する信仰が深かった。水神は水のある場所によって、川の神、泉の神、滝の神、池の神、井戸神などの名で信仰されてきた。民間伝承では、水神を「蛇体」あるいは竜と伝える例が多い。左の写真は、堀内沢上流マンダノ沢に懸かる滝の写真だが、地元では「蛇体淵」と呼んでいる。この滝と大きな淵を水神の滝として敬う水神信仰から生まれた名称であろう。
 雨乞いと水神社・・・雨乞いは、干ばつになると、農民が雨を期待して天の神に祈願を行う農耕儀礼の一つ。古くから水田稲作に依存してきた農民は、水を敬う心が厚く、日常的に水神を家・屋敷内に祀っていた。横手市下境にある貴船神社は、昔から雨乞い、五穀豊穣の神として知られている。神殿内に奉納されている神輿は、黒漆塗で雨乞いのときに担いで横手川まで歩いたものだという。
「かまくら」と「なまはげ
 県内の小正月行事を代表する「かまくら」と「なまはげ」の行事は、県内至るところにみられる。「かまくら」は、平野部と山間部に発達し、「なまはげ」は海岸部にみられる。奇妙なことに「かまくら」も「なまはげ」も子供が主役である。なぜ子供が正月行事に関係があるのだろうか。

 神に最も近く、神が容易に扱いやすい者が子供だったからだという説がある。なまはげが子供を脅すのは、神の言葉を純粋に受け止めるのは子供だったからである。かまくらでも子供が主体となって祝い、雪室の中に神を祀り、中に入って楽しみ神に仕えるのは子供でなければいけなかったのだという。

 「かまくら」と「なまはげ」の決定的な違いは、「かまくら」行事そのものが一部を除いて遊戯化されているが、「なまはげ」はまだ遊戯化されずに伝承されている。「かまくら」は神が抽象化されているが、「なまはげ」は神の来訪として具体的で、他界の使者として現世に姿を現す。これは、「かまくら」の正月を祝う神事の方が古くからあったからだと推定されている。
 横手の水神祭りは、飲料水、かんがい用水、防火用水などを支配する水神に対する信仰にある。とくに水田稲作地帯は、治水、利水がその豊凶を左右するものであり、水利を良くするために、神を頼りにして水神が生まれた。

 それでは、水神祭りが雪室・雪穴の「かまくら」と、なぜ合体したのだろうか。明治から大正にかけて各家々にポンプ式の井戸が設けられるようになり、共同井戸に付随して守られてきた水神祭りは影が薄くなった。祭場を失った水神祭りは、子供らがよく遊ぶ雪穴の奥にお堂と祭場を移転させた。実際は、明治30年前後に今日の「かまくら」形式となり、明治末期から大正にかけて盛んに行われるようになった。
夢の国、雪と灯りのメルヘン・・・ブルーノ・タウトが絶賛

 昭和11年に来日したドイツの建築家・ブルーノ・タウトが、横手のかまくらを見て、夢の国のできごとであるかのように「素晴らしい」と絶賛したため、ますます盛んになったという。

 「実にすばらしい観物だ!誰でもこの子供達を愛せずにはいられないだろう。いずれにせよ、この情景を思い見るには、読者は、ありたけの想像力をはたらかせねぱならない。私たちが、とあるカマクラを覗き見したら子供たちは世にも真じめな物腰で甘酒を一杯すすめてくれるのである。こんな時には、大人はこの子達に一銭与えることになっている。ここにも美しい日本がある。それは−およそあらゆる美しいものと同じく‐とうてい筆紙に尽すことはできない」 (「日本美の再発見」岩波新書)
雪国秋田の小正月行事
 「雪国という言葉は・・・恐らく外から付けた名であって、冬は到底入って行けぬ土地という意味に、そんな名を与えたのがもとであったかと想像せられる。すなわち雪国の冬は至って淋しく、従って生活はよほど南の方の、雪の積もらぬ海ばたとは違っていたのであった」(「雪国の民俗」)

 一年の5ヶ月が雪に埋もれる雪国秋田。ぶ厚く白い雪に覆われた田畑、野山の動植物は眠る。「雪に埋もれた冬の農閑期といっても、囲炉裏で茶飲み話に花が咲くなどというのんきさはまったくない。ムシロ、縄、カマス、俵、クツ、草鞋など一年の間に使う分を余念なくつくる。」(「雪国の民俗」)
六郷のカマクラ 刈和野の大綱引き
 雪国秋田の小正月行事は、実に多彩である。湯沢の犬っこ、横手のかまくら、六郷の竹うち、角館の火振りかまくら、刈和野の大綱引き、横手・秋田などのぼんでん、男鹿のなまはげ、本荘などの裸まいり・・・その中には「奇習」と言われるものも少なくない。

 屋内にこもる大正月に対し、小正月行事は戸外で、しかも夜間に行う点が大きな特徴だ。電灯のなかった昔は、灯りに対する一種の憧れと雪に一段と映える月明かりに誘われて戸外に飛び出したのではないかと推測されている。「米の国秋田」の小正月行事は、どれもみな豊作を祈る予祝の行事で、農民の「春を待つ心」が込められているように思う。
雪国の民俗を記録した菅江真澄と柳田国男
菅江真澄 柳田国男
 菅江真澄(1754〜1829)は、30歳の時、長野へ旅立ち、以降北へと針路をとり、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道をめぐり、48歳の時に再び秋田にやってきた。その後28年間、この世を去るまで秋田を旅し、多くの著作を残した。真澄は、なぜ北へ旅をしたのだろうか。

 真澄の最初の目的は、歌枕の探訪記を記し、言わば観光パンフ、旅行ガイドのようなものを発行するのが目的だった。ところが、各地を訪ね歩いているうちに真澄の考え方が大きく変わった。秋田の厳冬期、腰まで雪に埋もれながら、ひたすら歩き、ひたすら記録し続ける。歌枕より、雪国の暮らしぶりを記録に残すことが自分の務めだと、考え方を180度変えたと推測されている。数々の挿絵と膨大な著作・・・民俗学の創始者と言われる柳田国男は、日記から真澄の全生涯を思い、以下のように書いている。

 「天明8年といえば江戸でも京都でも、種々の学問と高尚なる風流とが、競い進んでいた新文化の世であった。然るにそれとは没交渉に、遠く奥州北上川の片岸を、こんな寂しい旅人が一人で歩いて居たのである。」・・・中央の新しい文化から隔絶された雪国の世界に、日本人の心の原風景、あるいは厳しい自然と風土から生まれた多様な文化を発見したような感動があったからに違いない。それは、菅江真澄だけでなく、柳田国男の「雪国の民俗」にも随所に伺える。
 「雪国の民俗」は、昭和15年当時の「土に生きる人々」「農村歳時記」「衣食住と民具」「信仰・まじない」など、現場で撮影された貴重な写真を中心に編集されているだけに、昭和初期の雪国の民俗を知る貴重な資料である。昭和19年に発行、昭和52年に復刻版が発行された。

 「数多くの仕来りが東北に残り、それが過ぎ去った懐かしい人々の記念と結びついて、幾分か長く忘却から免れているように思う。・・・しかもそういう事も言っていられぬ時代が到来して、今がますますのお別れとなっている。・・・それにつけても今までの雪国人が、何か以前の世の生活を軽しめんとするような気持ちを、あきたらず感ぜずにはいられないのである。

 ・・・私は偶然の縁があって30余年来、何度と数えられないほど秋田県を歩き、多くの友を見つけ所々の山川と親しんでいる。菅江真澄翁の絵と紀行には、殊に八龍湖の周辺のものが、忘れ難い印象を与えている。・・・もう人間の知るべきことは知ってしまったように、安心しようとしていた文化科学の学徒にとって、小さいながらもこれは一つのトンネルのようなものではないかと思う」(雪国の話:柳田国男、昭和19年2月)
横手のかまくら2003
 「かまくら」の中に入っている子供たちが、「入ってたんせ」「拝んでたんせ」と言いながら、甘酒やお餅をふるまってくれる。訪問者は、中に入って水神様に賽銭を上げて、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣を祈願する。
 市役所前かまくら広場・・・夜が更けると、街灯、かまくらの中の灯りが一面白い雪に映えて美しい。訪れる人々は、かまくらの前に立ち一枚、中に入って一枚と記念撮影に余念がなかった。
 鳥追いとかまくら・・・昔は鳥の害はどこの田舎でも多かった。鳥追いは田畑の害鳥駆除を願う小正月行事。「サセドリ(馬耕の馬を導く仕事)に来たど、コネウチ(苗を投げる)に来たど、ショトメ(早乙女)参ったど、餅コ一つけでけれじゃー」(八郎潟湖東部)という鳥追いの歌詞が残っている。子供たちが「餅コけでけれじゃ」という請求に、大人たちが笑いながら手渡す餅は、田植えの手伝いを約束する儀礼だと言われている。こうして集めた餅は、田んぼの鳥小屋で焼いて食べた。小屋には田の神が祀られていた。餅と一緒に各家々から集めてきたしめ縄や飾り松を焼くドンド焼きの場ともなった。横手のかまくらは、この鳥追い小屋が深い雪の中で水の神様と結びついたものであるとの説もある。
 ミニかまくらセット(1000円)・・・およそ30センチ四方のミニかまくらを簡単に作れるセット。この中に雪を詰め、型をとってスプーンで穴をあけるだけ。ヒット商品だという。
 秋田ふるさと村、干し餅・・・雪国の冷え込みを利用した食文化の一つ。干し餅づくりは、冷え込みの厳しい日に限られる。餅はマッチ箱ほどに切り、ワラで一つ一つ編み上げる。摂氏60度前後の湯に柔らかみが戻るまでつける。次に雪を入れた冷水に1時間以上冷やし、夜8時頃に、風通しのよい戸外につるす。一晩で凍み上げた餅を作業小屋に移し、窓を開けて北風に一ヶ月余さらして自然乾燥させる。横手のかまくらなど小正月行事が開催される頃、ちょうど初出荷の時期だという。
 ミニかまくら・・・市内の小学校の校庭などには、大きさ30センチほどのミニかまくら約1万個が作られた。暗闇と一面の雪原に幻想的な輝きを放つミニかまくらは、訪れる人々を魅了した。これもまた時代とともに小正月行事・かまくらが遊戯化、観光化している一端であろうが、雪国秋田の民俗、その歴史と文化も忘れずに伝承してほしいと思う。

 我々の先祖は、絵や文字によって雪国秋田の民俗を記録する習慣がなかった。それだけに菅江真澄や柳田国男の記録は貴重である。秋田には、重要無形民俗文化財が多いが、その起源や由来は、必ずといっていいほど真澄の記録が参考になっている。「牛乗りとくも舞」「なまはげ」「大綱引き」「竹うち」などが国指定の重要無形民俗文化財に指定されたのは、真澄の記録が決め手になったといわれている。
参 考 文 献
「カマクラとボンデン」(稲 雄次著、民俗選書Vol.20)
「雪国の民俗」(柳田国男、三木茂著、第一法規出版)
「雪の生活学」(恩田重男著、無明舎出版)
「稲源郷」(仙南村合併45周年記念写真集、仙南村)
「菅江真澄」読本(田口昌樹著、無明舎出版)
「稲の民俗誌」(鈴木元彦著、あきた文庫7)
「雄物川流域の集落と住民の生活」(斎藤實則著、秋田県文化財保護協会)
「横手の歴史」(伊沢慶治著、東洋書院)

取材・編集:秋田総合農林事務所土地改良課