石川郷中@ 石川郷中A 石川郷中B 石川郷中C

 
 村史上最大の悪夢、石川大火・・・昭和38年4月15日、全焼138戸、半焼75戸、廃墟と化した石川郷中。峰浜村石川郷中(郷長 小林芳紀、191戸)の村づくりは、この石川大火によってゼロからの挑戦を余儀なくされた。その惨状は、村人の誰しもが衝撃と悲嘆にくれ、はたして元の生活に戻れるのか、と大きな不安を抱かせるものであった。しかし、全てを失ったことは、逆に村人の団結と勇気を生み出し、見事再建を果たす原動力となった。大火から36年(平成11年)、石川郷中は、農林水産祭むらづくり部門で天皇杯という最高の栄誉に輝いた。

 石川地域では、現在の自治会組織のことを、昔から「郷中(ごうちゅう)」と呼んでいる。かつて律令制時代の地方行政の最小単位を「郷」と呼び、荘園制解体の後の名主を中心とした自治的・合議的結合体であった「郷」が転じて「郷中」と呼ばれてきた。

 石川郷中は、峰浜村の東南部、丘陵の上にある農村地帯。石川、外林、稲子沢、大野の4集落から成り、旧の夏井集落は石川へ集団移住し消滅した。191戸、749人、うち農家戸数118戸、耕地面積355ha、1戸平均3ha。
参考文献
「峰浜村誌」(峰浜村誌編さん委員会)
「山水拓土」(秋田県能代地区土地改良区)
「広報 みねはま」(峰浜村役場総務課)
石川大火写真(撮影:石井鶴造)
日本農業のトップランナーたち(NHK・JA全中)
農林水産祭天皇杯受賞記念「石川郷中のあゆみ」(石川郷中)
ビデオ「若い土 おらほのむらづくり」
各種新聞記事、峰浜村パンフレット
峰浜村のホームページ
 石川郷中は、一本道の県道沿いに全家屋162戸が立ち並び、大半が茅葺き屋根だった。昭和38年4月15日午後2時、村人にとって忘れることのできない悪夢が起こった。気温22度、異常乾燥注意報が継続発令され、10mを超える強風が吹き荒れていた。不運にも、火は風上から上がった。火勢は強風にあおられ、凄まじい勢いで村を襲った。

 出火した時、村人は田仕事に出ており、残っていたのは老人と幼児だけ。とても消火作業を期待できる状況ではなかった。
 家財道具はおろか、保有米、農機具、苗代づくりを控えた種もみまでもが焼き尽くされた。火事の知らせに急きょ駆けつけた男たちも、あまりの火勢に我が家に近づくことすらできなかった。わずかに持ち出した布団のかたわらでは、幼児とともにうずくまった野良着姿の主婦や老婆が、目を真っ赤に泣きはらしていた。煙にまかれて逃げまどう子どもたち、燃える家に入ろうとする夫を引き止める妻・・・

 峰浜村十二全分団の可搬ポンプと能代消防署からポンプ車三台が駆けつけたが、現場に到着した2時過ぎには、すでに村の大半が燃え尽き、風下側は猛火に包まれていた。防火水槽も火勢にさえぎられ蓋を開けることすらできなかった。消火の取水源は、村から300mも離れていた。さらに道路の両側が燃えているために、ポンプは思うように風下に回ることができず、村のはずれから火を追うように放水するだけ。ついには、ポンプのタイヤも焼け落ちた。わずか1時間半余りで、村は廃墟と化した。

 全焼138戸、半焼75戸、焼亡面積2万平方メートル、被害総額2億3655万円の大きな惨禍をもたらした。ただちに「災害救助法」が発動され、毛布やバケツなどの緊急必要品が県から急送された。さらに日本赤十字社から毛布150枚など、救援物資が相次いで送られてきた。被災者たちは、着の身着のまま塙川中学校や寺に収容され、焼け跡の整理も手がつかぬまま、虚脱状態となった。

 悪夢の石川大火から、わずか10年で村は復興され、石川郷中の復興記念式典が行われた。。大火を教訓に、自前で簡易水道を布設、5m幅で整備された道路に消火栓を設置し、火事への備えを整えた。料金は、村の上水道に比べ、はるかに低料金。特産品に育った「みょうが」の出荷前の洗浄に貢献している。復興に向けて培った団結と勇気を忘れず、農業と伝統文化の復活を核とした新たな村づくりがスタートした。

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