上仏社自治会@ 上仏社自治会A



 平成14年2月19日、秋田県主催の「食と農チャンピオンフォーラム」で゛はつらつ活性化部門゛の最優秀賞に輝いた上小阿仁村の上仏社自治会(斎藤勝義代表、33戸)。集落の共有財産(共有林)と集落全員が参加する郷役(ごうやく)制を活かし、農林一体となった村づくりが高く評価された。

 郷役制・・・村の共有林の維持管理や村づくりのための諸活動を集落全員で行うための義務人足制度。江戸時代からの郷役制が今日まで連綿と受け継がれてきたという。その基盤は、祖先が大切に守り続けてきた集落の共有財産・共有林(168ha)の存在が大きい。言わば「村づくりを支えた共有林」と言えよう。
 仏社川上流の高台から上仏社集落を望む。典型的な山間地域の農村である。33戸、127人(うち農家戸数21戸、農業従事者49人)、水田33ha、畑1ha。高齢化率は県平均の24.3%を大きく上回る37%。また、山間地特有の悩みとして、野生鳥獣の被害も多い。カモシカ・ウサギは大豆、熊は栗とトウモロコシ、タヌキ・キツネ・テンは比内地鶏を襲うという。
 元禄6年秋田領六郡絵図(上小阿仁分、ちょうど真ん中が仏社村)(秋田県立博物館蔵)

 享保8年(1723年)の記録によると、かつて仏社村は、上仏社村(36軒)、羽立村(8軒)、上長信田村(6軒)、下長信田村(10軒)、冷水沢村(2軒)の5カ村の支郷で、計62軒と記されている。上仏社村は36軒で、現在の戸数33戸よりも多い。およそ300年も昔に、現在の村の原型はできていた。後に、冷水沢村は天明の飢饉によって廃村、かわって相善森村が加わっている。
 上仏社集落の中を清流・仏社川が流れている。

 この仏社川沿いに山道が延び、国見峠(折渡峠)を越えて阿仁と連結されていた。今でも阿仁町との嫁・婿とりなど、親戚関係が多いという。仏社・長信田地域の山は留山、札山の指定を受けるなど、豊富な山林資源に恵まれていた。

・留山・・・藩が有用樹種を独占的に利用するために特定の山林を指定し、伐採を禁止した山をいう。
・札山・・・山林の保護育成と水源涵養を目的に、伐採や入山を禁止しする制札を藩が交付し、その制札を掲げた山をいう。 
 明治45年の乾田適地調査書によると、仏社村の水田面積は44.7ha、うち乾田は1.9ha(4.3%)に過ぎなかった。村全体の乾田比率36.2%、北秋田郡全体の64%に比べて圧倒的に低い。その原因は、水源欠乏の水田が39.2ha(87.7%)と大部分を占めている。乾田化すれば、用水量が増えることから、その水源の確保が困難なためと記されている。上仏社村は、仏社川の氾濫、山腹水路の崩壊、水不足と冷害・・・先人たちは、こうした度重なる困難を乗り越える糧として、数多くの信仰伝承を守り伝えてきた。
 上小阿仁村は、昭和6、7、9、10年と慢性的な凶作が続いた。当時の記録によれば、凶作の原因は、山間部特有の気象と利水かんがいの不備によると記されている。

 昭和9年「秋田魁新報」の「凶作地帯をゆく」には、次のように記されている。題して「学校を休んで゛草の根゛を掘りに」。

 「凶作地帯の農山村上小阿仁村は・・・人口5千5百人、780戸の一大村落であるが全耕地500町歩が今年の冷害と災害の二重の異変に農家613戸は蒼白き憂鬱に陥ってしまった。
 ・・・総人口の9割5分、5千4百人が農民であるがこの内100戸が既に飯米に窮して馬鈴薯をつめこみ更にトウモロコシ、栗ソバを常食としているが、既に救護を村に申し込んでいる者が13日までには54戸に達している。」
 このほかに子供たちの草の根掘りや粗末な弁当などを伝えている。
 写真は、旧上小阿仁営林署・・・藩政時代から秋田杉の産地として知られ、明治以降、営林署が山林を管理、伐採や運搬、植林に多くの人手を必要とした。

 昭和27年、上小阿仁村山間高冷地農村モデルの調査報告書には、次のように記されている。
 「本村は、耕地僅少に比し、山林が大部分を占めている関係から、村所得の55%が林産収入・・・農業収入は全所得の36%を占め、中でも米作収入がその90%を占めている。」・・・当時は、少ない農地で農業を続けるかたわら、営林署からの仕事で貴重な現金収入を得ていた。

 上小阿仁村の93%、24,098haが森林。このうち78%が国有林であった(昭和35年)。当時高価な天然杉は、ほとんど国有林内に存在していた。上小阿仁営林署は、秋田杉の本拠地と言われた北秋田・山本郡でもトップクラスの生産量を誇っていた。昭和32年、営林署に作業員として雇用された年間延人員は15万2414人に達し、そのほとんどが村人たちであった。国有林の伐採が盛んに行われていた昭和40年の記録によると、村税収入のうち木材取引税が40%(1,446万円)を占めていた。この時期は、国有林事業の盛衰が村の財政を左右していたと言える。
 木馬運材・・・写真は、山なりに丸太を並べて木を滑らせるヒラダシと呼ばれ方法。伐採した木を山から運搬する方法は、人夫が木をソリに乗せ、ソリヒキが降ろしたり、馬に引かせたりした。川まで木を運び、筏で二ツ井を経て能代まで運んだ。筏流しは、3月末から5月頃に行われた。
 左:馬ソリ運材 右:村最後の「馬追い」小林徳美さん(「馬追い」とは馬で荷物を運ぶこと。あるいは運ぶ人をいう)。昭和53年の広報「この人と5分」によると、「昔は、屋布の奥から沖田面まで木材運搬の馬ソリが120〜130頭もそろったもんです。壮観でしたヨ」と往時を偲んでいる。「運材の仕事はきつくつらいものです。若い人たちは真似もできないだろうし、また、やる気もないでしょう。馬と一緒の運材業は私の代で終わりですヨ・・・」。

 馬の飼育は、堆肥の生産、馬耕、馬車、馬ソリなど荷物の運搬には不可欠で、どこの農家でも1〜2頭飼っていた。大正14年の記録によると、上仏社村の馬飼育戸数は14戸、15頭と記されている。
左:オノによる伐採 右:チェーンソーによる伐採

 オノによる伐採からチェーンソーによる伐採や集材機などの機械化・合理化が進み、年間伐採量は飛躍的に増加した。反面、「振動障害(白ろう病)」や動力運転災害を発生させた。昭和47年、豪雨と萩形ダムの放水がこれまでにない大洪水を招き、床上浸水66戸、床下浸水51戸、水田310haが冠水、総被害額は1億数千万円にのぼった。営林署労働組合員は、その原因の一つとして営林署による過伐をあげている。
 
 上小阿仁村生涯学習センターの二階・郷土資料展示ホールには、古い農具と林業で栄えた時代の道具がたくさん展示されている。秋田杉の産地の中でもトップクラスの生産量を誇った往時をしのぶことができる。
 馬を祀る相善神社(上仏社村)・・・明治・大正時代の絵馬46枚が保存されている。かつては、現在より遥かに大きな神社であったが、馬の衰退とともに老朽化が進み、10数年前に崩壊。上仏社村の人たちが、自力で再建したもの。

 人馬物語(文責:北林正一郎)には、「サナブリまで内山でのんびりしていた愛馬も、その日の朝食後相善様に集められ獣医から健康診断を受け無事を祈願のあと奥山に放牧された。」と記されている。この神社の例祭日5月5日には、上小阿仁村はもちろん、合川町や森吉町の人たちも集まり、大賑わいであった。
 左:現在は「畜産奨励 家内繁昌」の神として信仰されている。 右:明治時代に奉納された絵馬。最古のものは、明治34年5月5日と記されていた。

参考文献
上小阿仁村百年誌
広報 かみこあに
人馬物語(文責 文化財保護審議会委員 北林正一郎)
食と農チャンピオンフォーラム資料 秋田県
その他新聞記事、パンフレットを参照

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