狩猟は、マタギたちの生業だが、一歩間違えば死につながる。山神信仰と戒律は、厳しい冬山で生きる男たちの必要から生まれたと言える。マタギが自然と共生してきた文化と言われるゆえんは、「山は山神様が支配するところであり、クマは山神様からの授かり物」というアニミズム(自然崇拝)の思想をもっているからである。

 「意外だったのは、彼らの生活が徹底した自然保護思想で貫かれていたことだ。獲物を山の神の恵みとして感謝し、必要以上に乱獲せず、祈りとタブーで己を律して来たマタギ習俗の中に、奥羽山脈の厳しい自然と闘いながら先祖代々培った生活の知恵の凝集を見ることができた。日本列島で唯一の狩猟民族と言える彼らのおいたちへの興味も尽きなかった」(「最後の狩人たち」長田雅彦著、無明舎出版の序より)

 この巻物は、相当古い時代に原本が書かれ、その後、マタギたちが何世代にもわたって写し、日光権現に参拝したとき印を押してもらった、と推測されている。
 「日光系は天台宗、高野派は真言宗を代表し、ともに密教、高山仏教との関連を物語る。精神的にはマタギの守り本尊で、実用的には峰から峰への藩界越境の許可証となった」(故奈良環之助)。阿仁町に伝わる巻物のほとんどは日光系で、高野派は2,3点しかないという。
 右の写真は「オコゼの干物」(鈴木松治氏所蔵)。山神様は、とても醜い女の神様で、大のやきもちやき。オコゼを見せると「自分より醜いものがある」と、たいそう喜ぶらしい。そこで、昔のシカリは、巻物とオコゼを持って山に入った。 
比立内集落の南のはずれにある山神様のご神体。 手に持っているのはモロビ(オオシラビソ)の枝葉。マタギは、モロビをたくと、立ち上る線香のような香りで、魔物が逃げていくと信じていた。今でも、結婚式に出た後は、こうしてお払いしてから猟に出る。
雪中の追い上げ。マタギの世界で不思議なことは、仲間だけにしか通用しない「マタギ言葉」を使う点だ。まるで暗号としか思えない言葉ばかりである。「マタギは幕府の隠密だったのではないか」と推測する人もいるくらいだ。「山神様は,気がたけだけしい。夏の間は田畑の神様で、里に降りているが、冬になると神聖な山に帰る。そうすると、汚れた里のことは一切嫌いになり、里の言葉は使わなくなる」という。 ケボカイの儀式…「山は山神様が支配するところであり、クマは山神様からの授かり物」であると信じている。マタギたちが行うケボカイの儀式は、射ち獲った獲物のクマに対する大切な神事である。
クマの頭を北に向け、左の足を下にしてあお向けにする。次にシカリが塩をふって唱え言葉を三度繰り返す。
 旅マタギ。左の地図は、鈴木松治氏の先祖が、旅マタギをして書いたという会津黒谷山を描いた図面。新潟県境に接する山岳地帯で、只見川支流黒谷川流域には、朝日岳(1624m)、高倉山(1576m)などがそそり立っている。実際に足で歩いて書いたもので、川や沢、林、岩場、険しい高山などが入念に描かれている。
 江戸末期から明治初期にかけて活躍した人が書いたもの。この地図は、阿仁マタギが江戸時代から、県外各地へ狩りに出掛けていたことを裏付ける貴重な資料だ。
阿仁マタギは、戦前まで東北地方はもちろん、新潟、長野、岐阜、富山、奈良方面まで、クマやカモシカを求めて旅に出ていた。
 旅マタギは、仲間数人で、1ヶ月から3ヶ月ぐらいに及んだ。現地の山に着くと狩り小屋を建て、食糧が乏しくなると、10日ぐらいごとに最寄の村に下山。農家などから獲物の肉や胆と交換に米、味噌を補給した。そうした便宜を図ってくれた民家を「マタギ宿」と呼んだ。
左の写真は、乾燥させて粉末にしたクマの血。強壮剤として用いる。昭和7年、根子集落の記録によると、戸数84戸のうち、男76人が農閑期に鳥獣の毛皮、クマの胆の行商に出ている。行き先は、20都道府県に及び、樺太のサハリンに出掛けた者もいるくらいだ。村中は、マタギによってうるおっていたと言われる。当時を知る古老は「昔は冬になると村中の男がいなくなった。5,60人のマタギがいたが、村に残るのは10人くらいだった」という。旅マタギは、現地に優秀な猟師が少なく獲物が多い場所を選んだ。腕自慢のマタギが集中している地元で全員が狩猟をすれば、乱獲となってたちまち獲物がいなくなる、などが旅に出る大きな理由であった。