「マタギたちは、獲物を発見するや、瞬時にして包囲網を張った。
 この包囲網は゛狩り座゛と呼ばれ、祖先伝来の完成された型であった。
 それゆえ、彼らの張った狩り座からは、逃れられるものはなかった。
 ・・・もし、逃れられるものがあるとすれば・・・それは
 吹き抜ける風のみであった。

 イタズ(熊)出たーッ!!、
 一のブッパ(射場)シロビレ(鉄砲)撃(たた)け」
 (「マタギ」矢口高雄著、双葉社より)
 マタギにとって最大の獲物は、森の王者・クマ。ツキノワグマは、普通7,80kg。まれに200kgを超す大物もいる。鋭い爪の前足は一撃で牛や馬を倒す。本州唯一の猛獣である。毛皮や胆は昔から貴重品扱いされ、商品価値も高い。そのため、マタギの猟法、技術はクマ狩りに集約される。
 狩猟法による猟期中(11月15日から翌年2月15日)は、大半が冬眠で穴ごもりしてしまうが、穴から出てくる4月中旬〜5月中旬は「春クマ狩り」といって最盛期だ。里の雪が解ける頃、山々の深い雪も減って足跡が容易に見つかる。眠りから覚めたばかりのクマは、動きが鈍く、エサも少ないことから、行動範囲も狭い。
 春クマ狩りは、5人以上から、多い時には3,40人が参加する。クマを包囲して沢から追い出すのが巻き狩りだ。
巻き狩り…シカリの指示で配置につく。見張り役で、全体の行動の合図役をムカイマッテという。ムカイマッテの合図によってセコ(獲物の追い出し役、鉄砲は持たない)の行動は始まる。
 ムカイマッテは巻き山や獲物をよく見通せる位置から、「セコなれ-、なれ-」と合図する。セコは「ソーレァー、ソーレァー」と叫びながら獲物の追い出しにかかる。一列に並んで追い込むが、地形は一様でないから大変な仕事だ。
 ムカイマッテは、獲物を発見すると、それぞれのブッパ(銃を持つ射手)に合図する。ブッパは、2時間でも3時間でも、また天候が急変しようとも、獲物が現れるまで、じっと待つ。マタギはこれを「木化け」と呼ぶ。
 火縄銃の時代は、一発しか撃てないので、弾丸が外れた場合は、クマ槍を持って立ち向かった。マタギの槍は、押し刺しといって、突き刺したら押し付けたままにする。
 クマを仕留めたマタギは「ショウブ」と合図する。クマを獲り終えると、ムカイマッテがさらに「ショウブ、ショウブ」と全員に合図。この声がかかると、全員は獲物のところに集まり、かぶりを取って、「お手柄おめでとう」と、あいさつを交わす。銃の残り玉を外し、全ての銃を山に向けて立てる。
クマの穴狩り・「たかす」…木の中が空洞になっていて、入り口が上のほうにあるタカスという穴。あらかじめ根本に直径3cmぐらいの探り穴をうがつ。そこから木の棒を押し入れると、クマは上の穴口から出る。見張り中のシカリは、それを撃つ。 「ねだかす」から出歩く二頭の子グマ。「たかす」と同じ要領で、大木の穴口から出るクマの月の輪を、シカリが槍で突く。
捕獲した子クマ。子グマは、二度目の冬眠を母グマと一緒に過ごすと、6,7月頃親と離れる。これを「イチゴ落とし」とか「イチゴっ放し」と呼ぶ。 クマの頭骨…脳ミソが入っているまま乾燥させ、蒸し焼きにして粉末にし、脳病の薬に。また脳ミソを焼酎に漬けたものも脳病の薬になるという。その他の骨もすり潰して粉末にし、酢か酒でねり合わせて打撲傷の薬に。肝臓の乾燥粉末は強壮剤に。
阿仁町打当マタギ、松橋吉太郎氏(30歳頃、写真右)。左のクマは、約150kgにも及ぶ大物。「阿仁川流域の手しごと」(森吉山ダム建設事務所)に掲載されている松橋氏の「マタギ」物語の話はおもしろい。 ワラダウチ(ウサギ狩り、阿仁町比立内)。右手に持っているのがワラで円盤状に編んだワラダ。これをウサギが潜んでいるところに投げると、空を切る音をタカの羽ばたきと間違え、恐怖で身動きできなくなる性質を利用したオモシロイ猟法。
 昔のマタギの武器は、弓矢と槍だった。槍は、戦前までマタギが必ず持ち歩いたが、弓矢は江戸時代、火縄銃にとって代わられた。当時、農民に鉄砲は禁制品だったが、クマの胆と毛皮の上納を条件に、マタギにだけ特別許可され、江戸時代後期には、使用されていた。
 また、幕末には、東北でも数少ない官軍側についた佐竹藩は、マタギの射撃術に目をつけ、藩の兵力に組み入れて軍備を増強した。新組と名づけられたマタギ集団は、戊辰戦争(1868年)で大活躍。この後、おおっぴらに火縄銃を持つようになった。
 明治の中期、村田銃が出回るにつれ、重くて不便な火縄銃は次第に姿を消していった。