明治11年(1878)、イギリス人女性、旅行作家イサベラ・バードは、東北、北海道を旅し、「日本奥地紀行」と題する旅行記を書いている。
 「実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデア(桃源郷)である」とか「どこを見渡しても豊かで美しい農村である」と述べているが、わが秋田はどう記述されているのだろうか。結論から先に述べれば、秋田の農村の貧困と文化的な立ち遅れを指摘する文が多く、いかに秋田が貧しい実態にあったかがよくわかる。

 院内峠を越えてきた彼女の目に、最初に映った秋田人について次のように記している。
 「女性はやはりズボンをはいているが、短い着物ではなく、長い着物をその中にまくり込んでいる。男性は胸あてと前掛けを一緒にした綿布をつけているが、そのほかに何も着ていないか、あるいは着物の上に、それをかけている」

 彼女は、羽州街道沿いを北上し、横手に泊まった。
 「横手は人口1万人の町で、木綿の取引が行われる。この町の最も良い宿屋でも、りっぱなものは一つもない。町は見ばえが悪く、臭いも悪く、わびしく汚く、じめじめしたみじめな所である。町の中を歩いて通ると、人びとは私を見ようと風呂から飛び出てきた。男も女も同じように、着物一枚つけていなかった。宿の亭主はたいそう丁寧であったが、部屋には、怒りたくなるほどたくさんのノミや蚊がいた」
 
 神宮寺から川船に乗って雄物川を下り、久保田(現 秋田市)に着いた。
 「人口3万6千人、非常に魅力的で純日本風の町」
 「美しい独立した住宅が並んでいる街路や横通り、・・・
 住宅は、樹木や庭園に囲まれ、よく手入れされた生垣・・・
 静かに自分の家庭生活を楽しむ中流階級のようなものが存在していることを思わせる。・・・
 公共の建物には立派な庭があり、傍らを走る幅広い道路があり、石で上張りをした土手があって、このように都から遠く離れた県にしては珍しい・・・
 私はたいそう親切な宿屋で、気持ちのよい二階の部屋をあてがわれた。当地における三日間はまったく忙しく、また非常に楽しかった。西洋料理--おいしいビフテキ、すばらしいカレー・きゅうり・外国製の塩・辛子がついていた--は早速手に入れた。それを食べると<目が生き生きと輝く>ような気持ちになった」
 久保田の都市では、西洋料理の習慣が秋田の地にも及び、文明開化の風が吹いていたことがわかる。だが、農村では一転貧しさだけが記されている。

 「阿武川(現 飯田川町虻川)というみすぼらしい村で一泊せざるを得なかった。屋根裏の部屋で、ノミが多かった。米飯は、とても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんはひどい皮膚病にかかっていた。このあたりではもはや壁土の家はなく、村々の家屋はみな木造であったが、阿武川は古ぼけて倒れそうな家ばかりで、家を棒で支え、斜になった梁は道路に突き出て、うっかりすると歩行者は頭を打つほどであった。

 彼女が通った農村は、どこでも貧しかった。
 豊岡(現 山本町)では
 「人たちの着ているものは、特にぼろぼろで汚かった」
 切石(現 二ツ井町)では
 「どの家も泥水の中に立っていて、みじめで汚らしく見えた」
 小繋周辺では
 「村々はみすぼらしく、たいていの家は板張りで、端は粗末に釘で打ち付け、両側は粗末に縄で縛ってあった。家には窓はなく、どの割れ目からも煙が出ていた」

 こうした秋田の貧しい農村を救うべく、農村救済活動に生涯を捧げた老農・石川理紀之助が誕生するのである。