小さくて曲がりくねった田のあぜをはずして、大きくて四角い田に変えることを、田の区画整理と言うが、明治時代は「田区改正」または「耕地整理」と言った。 なぜ、必要なのか?

人力による耕起。農作業の中で、最も重労働を強いられた。人間の場合は、湿田であろうが、田の大きさが小さかろうが、曲がっていようが、何とか対応できる。従って、重労働と作業効率を無視すれば、耕地整理をする必要はなかった。(写真提供、峰浜村) 馬耕で最も難しいのは、自在に操る技術。どんなに熟練しても、曲がった田んぼを隅々まで耕起するのは無理。田んぼの大きさも小さければ、作業効率は極端にダウンする。さらに、湿田では、人間は入れるが、馬は無理。
人力から馬への転換は、田んぼの耕地整理が前提条件だった。


 結論から言えば、人の手だけで農作業をすべてやる場合には、区画整理はそれほど重要ではないかも知れない。
 というのは、人間一人が1日にできる作業の量はたかが知れているし、第一、田が小さかろうが曲がっていようが、そんなことには人間は簡単に対応できる。

 しかし、馬の場合はどうか?
 馬に、効率よく、より大きい面積を耕してもらうにはどうすればいいか?
 馬は、人がやるのと同じように、おのおのの田の形と大きさに合わせて農作業を自ら考えて動いてくれるだろうか、いくら人が命令したとしても。

 おまけに、明治に入り新しい農具、「犁(すき)」が使われるようになった。
 これは、木の棒に田を起こすため木の突起を何本かつけたものである。
 これを縄で馬に取り付け、引かせて田起こしをするが、人はその後ろについて田一面を回って歩いたのである。

 田のあぜが曲がっていたら、まず、馬がうまくその曲がりに合わせて曲がって動かなければならない。その馬の動きにつれて、馬に取り付けた縄が左右に揺れ、さらにスキがあっちにいったりこっちに動いたりする。
 そうなれば当然、スキがうまく1枚の田すべてを均等に起こせるかどうかは、馬と縄とスキとの連動がうまくいくかによる。この三位一体の動きを人がうまくコントロールできるだろうか?

 実際には、とても難しかろう。

 そこで、「耕地整理」が登場してくることになる。

 つまり、人の言うことを完全に理解できないが人よりも馬力のある馬に十分働いてもらうには、曲がったあぜよりはまっすぐなもの、小さい田よりもおおきいものの方がいいということになる。
 ついでに言えば、田を大きく四角にするのとあわせて、道もある程度広く丈夫にしたり、かんがいに使う水が川などから来やすいように水の通る溝(用水路)をなるべく同じ大きさと傾きにしたり、さらには、田を乾かすため水がいらなくなったときにすぐに捨てられるように深い溝(排水路)を掘ったりできれば、さらに使いやすい田になる。


 しかし、ここで問題が二つ。

 おのおのの田には、明治時代、それを持っている人と使っている人とがいた。一人の人があちこちに田を持ったり作業を行っていたことになる。こうなると、いくら田を大きくしたり四角くしても、作業を行う田が離れていては、その間を移動するのに時間をとられてしまう。

 そこで、「耕地整理」をするときに、自分の田すべてを1カ所にまとめられえば都合がいい。1カ所にまとめるには、ある程度広い地域で田の整理を行い、関係する人どうしで田を交換できれば、分散した田をおのおのが集めることができる。これが、「交換分合」と呼ばれる手法である。


 もう一つの問題は、整理をして田を大きくするのはいいが、それにともない田に水を引いてくる用水路の位置や水量も変わってこざるをえない。ところが、水はずっと長い間十分なものではなく、ときには水を巡る争いごとが農民の間で起こってきた。
 そういう、長くときには苦い経験を積みながら、農民たちは自分らの地域の水の使い方をみんなで取り決め、それをずっと守ってきた。ときには、その水の分け方や使い方をまもらない者には、いわゆる「村八分」をして懲らしめてきたものと思われる。

 そこで、田の「耕地整理」をするさいには、水の利用が変わってくることに対し納得できない者が出てくることになった。

 たとえば、ある広がりを持った地域の整理を行う場合、そこに関係する者のうち半分以上が納得できないのであれば、田の形が変わった後どうやってその新しい田を配分したらいいのか皆目見当がつかないだろう。
 みんな、自分の家や大きい道路に近くて便利な所や、水を掛けやすいなるべく水源の近くある所がほしいからである。

 したがって、何人かが関係してくる田の「耕地整理」では、後々関係者の間で問題が起きないように、田の形を変える前に関係者の意見や同意を調べて、大多数の者の考え方が一致するかどうかを明らかにしておくことがとても大事になる。

 このため、明治30年代に農商務省は、「土地所有者の3分の2以上の同意」があればその地域の田を整理することができるという規定を設けている。


 田の区画整理自体は、すでに17世紀の記録に見ることができる。
 とくに、現在の千葉や長野、岐阜、福井の各県で盛んだった。
 明治に入ってからは豪農を中心とした整理が進み、明治20年代になると各地で「田地改正」が大流行した。


 秋田県でも、明治21年、由利地方の「農談会」で「田区改正」について諮問が出されている。その内容は、田の区画整理は川で区切られた区域を基本に行うことや、土地の位置や大きさを測り図面に明示すること、どのように田の整理を行うか図面を作成し関係する地主が協議をした上で連名で願い出ること、できた田を交換するため地価の評価する委員をおき現地で立ち会い関係者納得の上交換すること、区画を整理した後で田の面積が増えた場合は整理する前に持っていた面積に応じて増加した分の田を配分すること、整理に必要な費用はおのおのの地主が新たに持つ面積により配分すること、田の区画はなるべく大きな四角とすること、であった。

 その後、政府において「耕地整理法」が明治33年に施行されたことを機に、秋田でも、耕地整理を行うため現地を調査したり工事のやり方を決めるため県に2名の技術者を置くことになった。

 明治34年、県知事は耕地整理の方針を表明し、県内の田10万町歩のうちその3分の2、約6万町歩を20年間で整理するため予算を計上した。

 明治34年、第1着手地区に選ばれたのは、由利郡岩谷村大谷地区の48haの実施であった。大谷地区では、篤農家・深井荘五郎が中心になり、地区住民を指導して、耕地整理の心構えができていた。

深井は明治33年、選ばれて静岡、京都、石川など、先進地視察を行い、翌年、県の指導を得て実施に踏み切ったのである。

この年、仙北郡花館村でも、農商務省陸羽支場の指導のもと24haの耕地整理を行うなど、計画から実施へと踏み出した。

 明治36年から38年には米の輸入量が年間75万トンを越え、日露戦争(明治37年から38年)を境に食糧を増産すべきという世論が高まってきた。これを受け、明治38年には「耕地整理法」が改正され、新たにかんがい用水を手当てするための工事が追加された。

 また、翌39年には、府県がそれまでやってきた、現地を調べることや工事のやり方を決めること、工事がうまくいくように現地で監督することに必要な経費について、政府がはじめて補助することになった。

 さらに、明治42年には、田の区画を整理するだけではなく、田をさらに乾きやすくするため地面の中にある水を抜く工事(暗渠排水)や新たに農地を拡げるため山林や原野などを農地に変える工事(開墾)、そして工事を責任を持って進めていくための「耕地整理組合」を設立することが法律に追加された。


 秋田では、江戸時代から、水を貯めて必要に時に使えるようにする「ため池」や水源から水を引いてくる「用水路」などが多く造られてきた。
 その反面、おのおのの田を十分に乾かしたり、余計な水を早めに川などに流してやったりするための「排水」の工事は、なかなか進んでいなかった。

 理由としては、春先に田を人手により起こすには田が柔らかい方が好都合だったため、わざわざ冬に田に水を張る慣行があったりしたからである。このことが、田がよく整理されていなかったこととあいまって、稲の収量が秋田で低かった原因になった。

 次に示す表は、耕地整理が始められた明治中頃からそれがだいたい終了した昭和20年代初期までの1反歩当たりの収量である。これを見ると、整理前、秋田の米の収量が全国に比べいかに低く、その後整理が進んでいくにつれ、全国平均をついには上回っていった推移が明瞭に見て取れる。

表1 米の1反歩当たりの収量の増え方

区   分

16〜明25

36〜大2

12〜昭7

18〜昭22

23

全国

収量(石)

1,355

1,657

1,856

1,910

2,150

増え方

100

122

137

141

159

秋田

収量(石)

1,130

1,443

1,891

1,774

2,287

増え方

100

128

167

157

202

 すなわち、現在の「米の国、秋田」は、耕地整理が進展していくことによって次第に形作られていった側面を看過することはできない。