「俺は農民だ。農民が農民を助けないで誰が助けると言うのだ」


 石川理紀之助は、明治時代の農村指導者で、生涯を貧農救済に捧げた人物。「老農」あるいは「農聖」と敬称されている。
 「老農」とは、在来農法を研究し、これに自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた、農業熱心家のことをいう。この頃、県内の各地には、こうした老農層が成長し、秋田県農業を支える大きな原動力となった。その老農の代表的な人物が石川理紀之助である。

江戸時代後半から大正の初めにかけて、農村の救済活動に生涯をかけた郷土の偉人石川理紀之助翁。 山田村(昭和町)へ婿入りした当時の石川家
歴観農話連の人々。明治13年(1880)に結成され、地域の老農・篤農層の間に広がり、明治農法の実践団体として発展した。種苗交換会の時は、会場近くのお寺や農家に泊まり、自炊しながら催しを支えた。夜になれば、時のたつのを忘れて話し込んだ。農業への夢と情熱で結ばれた仲間たちである。 明治16年(1883)、39歳の時、役人の職を辞し、山田村の救済にあたる。上の写真は、毎朝3時に村民の起床を促した掛け板である。夜明け前の闇に、毎朝「コーン、コーン」という掛け板の音が響き渡った。山田村経済会を組織し、借金地獄にあえぐ村を見事に再生させた。
適産調。土壌の種類、田畑面積、人口、戸数、生産物、自作農地と小作農地の収入、農作業、生活習慣に至るまで細かく調べる。県内外49町村を調べた大事業であった。これらをもとに、具体的な方針をたて、農村を担う人材の育成に役立てる目的があった。その成果は731冊の本にまとめられた。 明治31年、救荒巡回。明治30年の県内凶作と日清戦争後の物価高騰のため、餓死者が心配されたので、きゅうきょ、県農会として救荒本部を設置し県内各地を巡回。荷車に自炊道具を積み、寺社・学校を寝泊りしながら、58ヶ所、延べ6,600人に指導・教育を行った。左から5人目が石川翁である。
明治35年、宮崎県谷頭村へ。石川翁の畏友・前田正名の要請により、宮崎県の農村指導を行う。旅費・小遣い一切を自己負担とし、死を覚悟して同志7人とともに滞在、極貧怠惰な村を6ケ月で建て直した。
右のの写真が宮崎県谷頭村、前列左から2人目が石川翁。
左は、「適産調」の一行。 最後の仕事、仙北郡強首村の救済。
「俺は農民だ。農民が農民を助けないで誰が助けると言うのだ」。彼は、老いる体にムチ打って、毎朝3時に掛け板を鳴らし続けた。この時、彼を慕う若者たちも駆けつけてくれた。「これら青年を見よ。わしらの意志をしっかり受け継いでくれるはずだ。これこそが世に残す財産だ」
左:静かに本を読む石川翁。右:一世紀の時を経て現代に蘇る石川翁の米。薄茶色に変色している米は、石川翁が、飢饉に備えて、玄米、麦、ひえなどを備荒倉に貯え残していたものである。その備蓄米は、不作が3年続いても耐えられるものであったという。
 「一日一合あれば人ひとりを救い得る」という故人の教えに従い、翁は質素な食事をし、モミを余して蓄えていたのである。今なお食べられるこの米から、農業の発展に一生を捧げた石川翁の思いが伝わってくるようだ。


 弘化2年(1845)に小泉村(現秋田市金足小泉)の中堅地主・奈良周喜冶の三男として生まれた。
 21歳の時に、秋田郡山田村(現昭和町豊川山田)の石川長十郎に婿養子に入り、傾いた石川家を回復させる。
 旧家である石川家に婿入りした当時は、借金をかかえ苦しい生活をしいられていた。
 老農としての石川の特色は、農事改良を単なる個人の営みとして進めるのではなく、農民を広く組織して集団的研究に高めたことである。
 慶応3年(1867)、若者を中心に山田村農業耕作会をつくり、豊かなむらづくりをはじめた。
 農業を発展させようとした秋田県はその担い手として、当時28歳の理紀之助に白羽の矢をたてた。
 明治5年(1872)秋田県庁の勧業課に勤める。

 当時、秋田県農業の最大の課題は、腐米改良問題であった。。
 彼は、乾燥に問題があることをさがし新しい乾燥法をあみだし、腐米の改良指導に尽力した。新しい農業技術の普及を進めるため、明治11年(1878)、種子交換会(現在の種苗交換会の前身)を開催、新しい催しは、関心を呼び多くの人がくりだした。これを契機に毎年開催されるようになった。
 
 しかし、行政の第一線で働けば働くほど、上からの指導には限界があることを痛感するようになった。そこで、彼がやったことは、行政とは別に、各地の老農を結集して、自主的な農事研究団体として「暦観農話連」(明治13年、1880)を組織したのである。

 「何よりも得がたいものは信頼だ。信頼はつつみかくさず教え合うことから生まれる。進歩とは、厚い信頼でできた巣の中ですくすく育つのだ。

 結成時には、早くも74名もの老農層の参加を得た。暦観農話連は、その後も加入者が増え続け、明治末年には499名にも達した。さらに会員は秋田県にとどまらず、山形、宮城、埼玉県にもみられるようになった。石川が組織した農話連は、秋田県農業の発展に計り知れない影響力をもった。

 明治10年(1877)、米の値段が上がり出したが、その5年後、値が急落した。さらに冷害が重なり、どの農家も借金に悲鳴をあげた。至るところに盗人がはびこり、山田村もまた借金であえいでいた。
 
 「この息も絶え絶えの農村を救うにはどうしたらよいのか」
 これまで培った知識と技術をもとに農民に戻り田畑を耕し、山田村を建て直すことができれば道も開けるだろう。
 明治15年(1882)、役人を辞める決断したのは39歳のときだった。

 村人に提案した内容は
 質の良い肥料を作り、これまでの倍の量を田んぼに施す。そうすれば米の収量は確実に増える。その増加した分を借金の返済にあてる。
 無駄使いをやめ、暮らしに必要なものを共同で買う。
 養蚕をとりいれ副業に精を出す。仲間外れが出ないよう、助け合い、励まし合う。というものだった。

 毎朝3時、彼は掛け板を打って村人を起こし、農事に専念させた。村人の努力と協力によって、5年間で村の借金を完済。彼はこの時、村人と一緒に苦しみながら働いたからこそ、村人もついてきてくれたと、つくづく思うのである。

「寝ていて人を起こすことなかれ」
理紀之助が残した名言である。

 山田村の救済は、一躍話題となり、農商務省や山梨県、千葉県などで講演を行った。
 一部の人から理紀之助のやり方に疑念を抱く声があった。
 すると彼は、反証するために、自宅から離れた草木谷の地に粗末な小屋を建て、貧農生活を実践し、見事にそれを立証してみせた。

 明治29年(1895)、農村の土地や土壌などの総合調査とも言える「適産調」を行った。実に7年の歳月をかけ、秋田県と福島県の8郡49町村で行い、成果は731冊の本にまとめられた。この調査をもとに、各地の農村の指導にあたり実績をあげたのである。

 明治34年(1901)畏友・前田正名から九州・宮崎県の谷頭の農村建て直しを要請される。翌年、家族に形見を与え、「途中にて客死するとも、白骨となりて帰らん」との非常の決意をもって現地に赴く。
 
 さらに晩年には、秋田県仙北郡の九升田の建て直しを依頼され、徐々に体調が悪くなっているのも顧みず、大正4年亡くなる寸前まで九升田の建て直しに尽力した。

 掛け板の音は響く
 「世にまだ、生まれぬ人の耳にまで/響き届けよ、掛け板の音」
 毎晩3時に、村民の起床を促すために打ち慣らす掛け板について詠んだ和歌である。
 吹雪の朝、理紀之助がいつものように午前3時に打ち終えて、雪まみれになって家に入ると、妻が言った。
 「このような吹雪の朝に、掛け板を打っても誰にも聞こえないし、ましてやこの寒さでは、誰も起きて仕事をしようとはしないでしょう」と。
 理紀之助は答える。
 そうかも知れないが、私はこの村の人々のためだけにやっているのではない。ここから500里離れたところの人々にも、また500年後に生まれる人々にも聞こえるように打っているのだ。

 理紀之助は、どんなに貧しく、苦しくとも、未来を信じ、世の人々に期待して掛け板を鳴らし続けた。まさに、農村の救済活動に一生を捧げた郷土の偉人であり、彼を抜きにして秋田県農業の歴史は語れないと言えるだろう。その遺志は、戦争の中でも一度も休むことなく開催された「種苗交換」に如実に受け継がれている。今や「先人に学び農業の未来を開く」と題した種苗交換会は、全国でも最大の農業祭に発展し、秋田県農業・農村の発展に計り知れない効果をもたらしている。