前田村の庄司家は、秋田県でも指折りの大地主。田畑390ha、ほかに広大な山林や貸地をも持っていた。同家の所有地は、北秋田郡8ヶ町村に及び、関係小作人は約700人を数えた。
 大正14年8月、公租・公課の増額や家計費の増大を理由に、約2倍にあたる大幅な小作料の値上げを求めたのが小作大争議の発端であった。下の写真は、流血をみた大争議事件の模様を伝える貴重な写真である。
前田争議を伝える「秋田魁新報」昭和4年11月28日付け。「流血阿仁川原を染む。手に手に凶器の群れ負傷者を運び。自衛団の奮迅さながら修羅場」と、流血事件の悲惨さを報じている。 警官と第1次交渉中の農民組合リーダー・可児義雄、小笠原正治、木村利蔵(昭和4年11月28日)
左手に石よけ、右手に4尺余の棍棒を持ち鎮定の準備をする警官隊(昭和4年11月28日) 河原に集結し千葉米内沢警察署長の訓辞を受ける警官隊150名(昭和4年11月28日)
抜刀したまま警官と第2次交渉中の農民組合指導者・小笠原正治(昭和4年11月28日) 前田争議を指導した可児義雄君の墓。可児の死を悼む阿仁農民の手で昭和10年5月1日、前田村五味堀(森吉町)に建てられた。碑文は当初゛農民の父可児義雄゛であったが、特別高等警察が認めず、写真にあるように変更された。

(前田の殿さま)

 出羽山地からながれでた大又川とあわさって阿仁川となるあたりに、前田村(いまの秋田県森吉町)の前田部落があります。

 前田部落のこだかい丘の上に、武家やしきのような門がまえを見せて、ひろびろとしたやしきが立っています。それは、このあたりで「前田の殿さま」とよばれる庄司兵蔵の家でした。庄司は、390ヘクタールの田畑をもち、それを700人ちかい小作人につくらせているという、秋田県きっての大地主でした。 ・・・

(おらも仲間に) 

 源吉は、地主の庄司から石ころだけの田んぼを30アール借りて、食うや食わずのくらしをしていました。

 その田んぼからとれる米は、やっと800キログラムほどでした。そのうちから小作料として庄司に200キログラム納め、それまでよそに借金していたものをはらうと、のこりは200キログラムそこそこです。これでは、親子三人が食べる米の半年ぶんにもなりません。

 ところが地主の庄司は、「来年からの小作料を400キログラムにする。」といってきたのです。

 ─小作料を、いっぺんに二倍にするというのか。ひどい。あんまりだ。─
 ・・・

(「おはなし歴史風土記」歴史教育者協議会、岩崎書店)より抜粋

 地主の通告を受けた小作人たちは、
 「一方的な通告は承服できない」として、阿仁部農民同盟を結成し、小作料の不払いを決議した。

 その後、地主と組合との間で交渉がもたれたが決裂、裁判となったが、昭和4年8月に出た判決は、組合側に不利な内容であった。

 組合側は次第に追いつめられ、全国農民組合の応援を求め、このころ小坂町にいた可児義雄が指導にかけつけた。

 やがて対決の気運が盛り上がり、全県各地から労農運動の活動家たちも応援に集まってきた。一方、地主側でも自衛団や暴力団を雇って態勢固めた。

 11月26日、不穏文書を配った容疑者が争議団事務所に潜んでいるとの口実で、警官隊が踏み入り、争議団と衝突、警官の一人が日本刀で腕を切られて重傷を負う事件が発生した。

 これをきっかけに両者の対立は激化し、約80名の警官隊と、庄司家が雇っている北電荒井組の労務者約30名が争議団事務所を取り囲み、これを迎える争議団との間で大乱闘が展開された。双方に多数の負傷者が出た。

 流血をみた前田争議は、28日夕刻、可児ら指導者が自首することで話がまとまり、ひとまずおさまった。その後、再び交渉が開かれ、大正14年より値上げ、未納小作料は、年賦で償還、地主は争議費用1万円を出すなどの条件で和解にこぎつけた。