戦前、秋田は、新潟・宮城・山形と並び地主王国だった。
大正13年、50ha以上の田畑を所有する大地主は、
条件の異なる北海道を除いて、新潟県が256人でトップ、
次いで秋田県が212人で2位となっている。

宮城県162人、山形県124人を大きく引き離している。
まさに、秋田は、地主王国だったのである。

明治初年、水田の小作率は30%程度と推定されている。
それが明治20年には47.2%にまで急増している。

中小農民の手放した耕地を集積した地主には、二つのタイプがあった。
一つは、在村地主で、農村に居住し、自らも耕作の一部を自作、
余った土地を小作させて小作料収入を得ていた。

もう一つは、商人地主である。
彼らは、最初から自作の意図などなく、商業や高利貸業を営んで、
その収入で耕地を買収し、高率の小作料収入を目的とした地主である。

仙北・平鹿郡は、コメどころ横手盆地を占め、雄物川水運を通じ、
近世以来商品経済の発展したところで、ここに商人地主が集中したいた。

明治30年には、小作率が50%を突破し、明治末には55.3%
地主制はいっそう強固なものになっていった。

この頃、秋田では乾田馬耕と耕地整理がが広く行われるようになり、
水稲の生産力は上昇し、安定した小作料収入が増加した。
地主は、この収入の増加を土地集積に向けたため、
より巨大な地主へと成長したいった。

秋田の大地主の頂点にいたのが、1、000ha地主として知られる
仙北郡高梨村(仙北町)の池田文太郎家である。

明治10年代には、約500ha、大正13年には、1,046haへ倍増。
仙北・平鹿の10町村の耕地を所有し、
関係小作人は1,250人にも達していた。