「俺たちのうちは小作百姓だで、とれた米の半分も、いや、ひどい時にはもっとたくさん、親方に納めてきたもんだ。それが、今年から一俵も納めんでもよくなった。」

 それは、1917年(大正6年)の冬、兼松が10歳のときのこと・・・

 「お父。この米を倉庫にはこぶと、なんぼ、お金もらえるんだい?」 ・・・

 「ばかだな、おまえは。これは小作米といって、親方に納める米だ。ちょうめんにつけてもらって、ただおいてくるだけだ。」

 「そんなら、このあいだはこんだ米も、きょうのも、ぜんぶただでとられてしまうのかい?」

 「1反(約10アール)について三俵の小作米だから、うちではぜんぶで60俵納めるかんじょうになる。これから、まだはこぶんだぞ。」

 「へえ、たまげた。そしたら、うちでとれた米の半分もとられるのか。」

 「ばかっ。とられるんでない、納めるんだ。うちでは、親方から田んぼをかりとるんだぞ。」

 ─こんなになんぎしてまでただの米をはこぶなんて、ばかくさい。─

(売られていくむすめたち)

 兼松が27歳になった1934年(昭和9年)のこと。

 秋田県をはじめ、東北地方いったいはさむい夏にみまわれ、ひどい冷害になりました。・・・
とれた米はいつもの年の半分もありません。小作米を納めると、のこった米はほんのわずかしかありませんでした。・・・

 「いや、もう、びっくりしたぞ。あそこの田んぼでは、一つぶも実がはいっていないんだ。田んぼはどこも、わらがはえているみたいだった。」 ・・・

 10月に、横手盆地の東の山内村にいってきたという良吉が、谷間の村の冷害のひどさをはなしました。

 「おれはなあ、横手の駅で、売られていくむすめたちを見た。」

という信作の話には、」みんながいきをのみました。まだ12,3歳ぐらいのむすめたちが10人ばかり、都会のものらしい男につれられて、東京いきの汽車にのったというのです。

 「それはきっと、おれたちとおなじ小作人の子どもだ。小作料をはらえと、親方にはせめられる、家には食う米もないというんで、東京あたりへ売られていったんだなあ・・・・・・。」

 「生きてるうちに、横手にかえってこれるかどうか・・・・・・。」・・・

 ─とれた米がぜんぶおれたち小作人のものだったら、すこしはたすかるのに。─

(おれたちの土地)

 1945年(昭和20年)には、ながかった戦争がやっとおわりました。
 そして、1947年(昭和22年)から農地改革がはじまりました。

 ─土地が、おれたち百姓のものになる。つくった米がおれたちのものになる。─

 兼松のながいあいだのゆめが、ようやくかなえられることになったのです。・・・

 兼松はしゃがみこんで、実りはじめたイネの穂を、そっと手の平にのせました。
 --これは今に、俺の米になる。もう親方にも、誰にも、とられることはない。
 ・・・そうだ、これはおれの米だ。--

 (「おはなし歴史風土記」歴史教育者協議会、岩崎書店)より抜粋

 戦前、秋田県は、新潟、山形県などと並び大地主県の一つであった。仙北郡高梨村(仙北町)の1,000町歩地主・池田家を筆頭に多数の地主層が農村を支配してきた。戦後、民主化が実施されるなかで、農地改革も行われ、強固で知られた秋田の地主制もついに解体された。

 秋田県の農地改革は、昭和21年12月から実施された。各市町村に農業委員会が設置され、地主からの土地買収や耕作者への土地売渡しが行われた。歴史的な改革だけに、利害の対立も激しく、改革の過程で混乱もあったが、占領軍支配下という事情もあって、全体的にみれば比較的平穏のうちに進んだ。

 改革の結果、耕地の所有状況は一変、秋田の地主制は、ほぼ解体された。先祖代々受け継いできた土地を失った地主は深刻な打撃を受け、農村の支配力を喪失した。一方、多くの小作人は、自作農となり、農業の生産意欲が喚起され、戦後の食糧増産に大きく貢献していった。

 昭和20年秋は、天候不順と人手不足、肥料や資材の不足も重なり、米の収穫高は激減した。さらに軍人・軍属の復員、海外移民の引き揚げが相次ぎ、人口が増加したため、深刻な食糧危機にみまわれた。

 昭和23年頃からは天候にも恵まれ、肥料や生産資材の確保、自作農となった農民の生産意欲の高まりも加わって、農業生産高は年々増加していった。
 この時期には、保温折衷苗代や三草栽培も復旧し、イネの多収穫品種も次々に登場、戦前の陸羽132号を押しのけて、新しい品種の栽培面積が拡大した。