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八郎潟干拓計画は、何と安政年間(1854〜1860)に渡部斧松が八郎潟疎水計画を立てている。以来、何回か干拓計画が持ち上がったが、財政や技術的な理由で実現に至らなかった歴史的背景をもっていた。 琵琶湖に次ぐ広さをもつ八郎潟を干拓し、食糧基地とする計画がはじまったのは、昭和27年(1952)のことである。 前年の9月、単独講和が成立し、独立国となった日本は、経済的な自立のためにも食糧の自給率を高めることが必要であった。その対策として、八郎潟干拓がにわかに脚光を浴び、昭和27年7月には、秋田市に干拓調査事務所が設立された。 このころ、秋田県内の農村では、働き口のない二、三男があふれ、その解決は県政の重要課題となっていた。八郎潟干拓は、食糧問題と過剰人口問題を一挙に解決できるのでは、との期待が大きかった。 昭和33年7月、干拓事業がスタート。八郎潟干拓起工式は、秋田市山王体育館で行われたが、当時の新聞には「理想農村を建設/明るい表情の地元民」などと大々的に報じられている。当時、八郎潟干拓に寄せる期待の大きさが伺える。 ![]() 最新の土木技術を駆使し、7年の歳月と543億円の国費を投じ、昭和39年9月には、ついに干陸に成功、約1万6千haの土地が新たに誕生した。 この面積は、秋田県の水田面積の13% 神奈川県の水田面積とほぼ同じ広さである。 第1次入植者募集が行われたのは、昭和41年6月、定員58名に対して、全国各地から615名、10倍を超える応募があった。モデル農業への期待が、いかに大きかったかがわかる。 「気持ちは晴れやかにして、胸ふくらみ゛いよいよやるぞ゛と、意欲というかファイトというか、そういうものが身体のすみずみから湧き出て来る。その態様は、まるで入道雲のようであった」(由利郡鳥海村から入植した青年) 引き続き昭和49年、第5次入植者まで計580戸が入植した。
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