昭和30年代から40年代にかけて、農村風景を一変させたのは
農具の機械化とそれに対応した農業生産基盤の進展である。

昭和20年代までは機械化農具といえば、動力脱穀機、動力モミスリ機など
主として脱穀・調整作業の機械に限られていた。

昭和30年代の高度成長期に入ると、耕起作業の機械化が進み、
これまでの牛や馬に代わって動力耕耘機が登場し、
たちまち秋田県内の農村に広がった。

農地改革は、生産者の意欲と農業機械、生産基盤の改良に対する投資意欲を飛躍的に増大させた。

昭和28年の耕耘機台数は、全県で1,326台
昭和35年には、1万4,000台
さらに昭和40年には、約5万台にはね上がり
昭和45年には、何と7万7,000台へと驚異的な普及を示している。

一方、明治中期以来、秋田の農村になじみ深かった牛馬耕は、
あっというまに影をひそめた。
飼育する馬は、昭和28年に約5万頭を数えたが、
昭和45年には、わずか1,765頭まで急減している。

乾田馬耕から農業機械への転換は、農地、農道、用排水などの
農業生産基盤の改良を一層促した。

昭和40年代に入ると、コンバイン、田植え機など農業の機械化に対応した
30a区画(1枚の田んぼが縦100m、横30m)のほ場整備が進み、
秋田県の農村風景を一変させた。

戦後、コメの生産量は、飛躍的な伸びを示している。
10a当たりの収量は、昭和20年には218kgだったものが、
昭和30年には、倍近い413kg、
ほ場整備と機械化が進んだ昭和50年には、
576kgへと飛躍的に増えている。
念願の600kgを突破したのは、昭和59年のことであった。

コメの反収は、明治末で全国42位だったものが、
昭和50年以降は、常に1〜3位を占めるまでになった。

コメの全体収穫量は、
今から100年前(1900年、明治33年)は、わずか18万トン
50年前(1950年、昭和25年)には、倍の37万トン
昭和42年(1967)には、念願の60万トンを突破し、
昭和50年(1975)には、70万トンを突破している。



戦後生産量が急増したのは、干拓や開田、土地の改良に加えて、
品種改良や農家のたゆまぬ努力があったからである。
こうして「コメの国・秋田」は、生産量・反収とも全国ベスト3に入る
確固たる地位を確立したのである。

今、秋田の農業農村は、本格的な国際化時代に突入している。
平成11年4月1日、「コメの関税化」が実施に移され
コメは関税を払えば自由に輸入できる体制に移行した。

コストの低減は、避けて通れない時代であり、
田んぼの区画は、1ha(長辺200m、短辺50m)の大区画ほ場の整備が、
県内各地で盛んに行われている。