秋田県立大短期大学部教授
国際水資源管理研究所理事

 真勢 徹(ませ とおる)

(右の写真は、あきた田園空間博物館整備地方委員会において、各委員の意見を真剣に聞き入る真勢徹委員長)

2001年9月14日付け朝日新聞「私の視点」より

 21世紀は「水の世紀」と」言われ、2025年には世界の3人に1人が水不足に悩むと懸念されている。増え続ける世界人口と経済活動の拡大が、水需給バランスを破たんさせる可能性が高いためだ。

 問題解決の糸口を探るため、03年には京都で第3回世界水フォーラムが開催される。農業用水のあり方、なかでも水稲作が主要な論点の一つになりそうである。農業用水は世界の水需要の7割を占め、水稲作は大量の水を無駄遣いしていると考えられがちだからだ。フォーラムに参集が予定される欧米関係者にもこのような見解が根強い。

 しかし、水稲作による無駄遣いという見方にはアジアと欧米の営農背景と風土性の違いに対する無理解がある。アジアには世界人口の6割が住むが、この人口を賄うのに世界の農地と農業用水のそれぞれ3〜4割を使っているにすぎない。人口扶養力や資源環境の面から見て、アジアの農業は世界平均の2倍近い効率性を誇る。背景には米生産量の9割以上がアジアに集中している事実がある。

 アジアの水稲作は、季節変動の大きいモンスーンの雨を水田という調節機能を生かしながら上流から下流へと時間をかけて反復利用する。洪水と干ばつを繰り返すモンスーン気候と向き合い、膨大な人口を養い続けてきた社会の底流には、この稲作のメカニズムがある。比ゆ的に言えば、アジアの資源環境と社会は、水田という名の10億個もの調節ダムによって持続的に維持されてきた。

 これに対し、安定した降雨と平らな地形を背景とする欧米型の畑作農業では、農業用水の効率性は個々のほ場で、あるいは一回一回の潅水(かんすい)単位でしか考えられていない。この両者の違いは水に対する基本認識の違いにもつながる。つまり、アジアの水が流域社会の共有財と見なされてきたのに、欧米の水は個人の資産として扱われてきた。

 いま、農業用水の効率性を判定する指標として、単位水量から得られる生産物価格の多寡を測ろうとする動きが国際的に強まっている。そのルーツには明らかに欧米的思考があり、その延長線上で「水に価格をつける」、つまり水価政策の国際ルール化が世界銀行や経済協力開発機構(OECD)などによって提唱されている。世界の水需要増はこのような水の効率化対策で、何もしない場合の57%増から25%の増にとどめることができるとする試算値もある(1990年と2025年の比較)。

 しかし表面的な効率性に偏した考え方は、水との共生の中で維持されてきたアジアの農村社会の枠組みを理解しておらず、その生産構造を根底からくつがえすことにもなりかねない。

 有限の水資源を人類全体でどう公正に配分するかは大問題だが、重要なのは個人資産としての、あるいは売買対象としての水の経済性ではなく、単位あたりの水でどれだけの人類を養えるかの指標をグローバルな公平性の観点から論じあうことだ。例えば、米(精米)1キロを得るには2トン前後の水が必要だが、牛肉(精肉)1キロではその5倍の水を要する。家畜の飲み水だけでなく家畜のえさとなる穀物や牧草の生産にも大量の水が必要だからだ。