秋田県内の田んぼは、昔から排水が悪くじめじめしていて、春の田起こしから稲の刈り取りまでの間、水につかりながらの農作業であった。とくに、春先のまだ寒さが残る5月から、素足のままで重い風呂鍬を振り上げ、泥水をかぶりながらの田起こしは重労働であった。秋田県内で乾田馬耕が本格的に普及したのは明治30年以降である。

 由利郡平沢町出身の代議士斎藤宇一郎は、福岡県の乾田馬耕など進んだ農法を見る機会があった。田んぼは乾いていて足を濡らさないで馬の力で起こしていたし、刈り取った稲はハサ掛けして十分乾燥させている。

 それにくらべると地元平沢の稲作りはどうであろうか。
 春先のまだ寒いころに泥田に浸かって一クワずつ手で掘り起こしていた。秋の稲刈りの時にも水が張られていて、刈り取った稲を束立てをしたままの状態で田んぼにおいていた。当時は、稲が腐りやすく「秋田の腐れ米」と言われる大きな原因となっていた。
 このようにつらい農作業や腐れ米のことを見るにつけ聞くにつけ、どうにかして少しでも百姓を楽にしかも良い米をとらせたいと決意する。

 しかし、かつての農民は、田んぼに年中水をたくわえておくものだと思い込んでいた。そうすると、春には土が軟らかくなっているのでクワで土を起こしやすい。さらに、肥料は流れないし、害虫も死ぬという考え方が根強く、田んぼの水を落として乾田化することは思いもよらなかったのである。

 熱心に指導はしたが、本気になって話を聞く農民は少なく、しばらくは、苦難の連続。
 明治37年、ついに平沢町の90%は乾田になった。乾田馬耕の効果は、次第に近くの町村の農民からも注目され面積は増えていった。
 春先に田んぼの水を落として乾田にすることは良いことだとわかった。しかし、代かきのときの用水がうまくできるかが、乾田化に反対する農民の理由の一つであった。そこで、一枚の田んぼを大きくそろえ、用排水をよくするための耕地整理を行ったのである。

 こうした馬耕を導入する条件と作業効率を上げるために、腰までぬかるむような田を乾かし、1枚の田んぼの大きさと形、そして農道を作る耕地整理が行われ、秋田の米の生産性は次第に押し上げられた。明治後期から昭和初期にかけて、米の生産量は1.2倍に増えたのである。

米どころ仙北郡内のクワ台づくりの様子。江戸時代、土木工事や開田などが盛んになり、農民も使うようになった。鍛冶屋では、クワを使う農民の体格や土の硬さを考えて、柄の角度を変えるなどして作るようになった。 山あいの代かき。昭和30年代の仙北郡内の代かき。誘導する人を付けないで一人で代かきをした。
田起こし…堆肥を田んぼ一面にまいてから、牛で田んぼを起こす。昭和27年頃の秋田県内の田起こしの状況を描いた版画。「勝平得之創作木版画」より
横手市内の馬耕コンクールの風景…馬耕コンクールは、農家の馬耕に対する関心と技術の向上に大いに役立った フタリマンガ…二人がそれぞれ取っ手を持って左右に分かれて「押す」「引く」の動作を繰り返す。田んぼの土は、泥状に砕かれ代かきの役目を果たす。その様子は、まるで二人がケンカでもしているように見えたことから「ケンカマンガ」とも言われた。
代かきどきの馬の姿(千畑町郷土資料館蔵)。 動力耕耘機は、昭和30年ころから次第に普及し、昭和35年には1万5千台に達した。以降、馬の飼育は急速に減っていった。
湿田用の久保田ゲタ…腰までぬかる湿田では、これを履いて稲刈りをした。上新城愛郷館蔵。 湿田用に用いられた大足で田ならしする風景。大足の前後に取り付けられた縄を手に持って、足を連動しながら操作する。
シロギで地均し…代かきのあと高低を均してから、仕上げに長さ3mくらいのシロギを引く。昭和40年ころの仙北郡内。 苗舟…田植えのとき、苗の入っている苗舟を田植えする人の脇に置き後方に下がりながら植えた。羽後町歴史民俗資料館蔵。
今では、1ヘクタールの大区画で、乗用トラクターに乗り田起こし。湿田時代からみれば、隔世の感がある。これも土地を改良し、農具の改良に努力した先人たちの努力と知恵の結晶である。 代かきもトラクターが大活躍する。