秋田県雄和町芝野地区担い手育成基盤整備事業
 国際田園都市・雄和町芝野地区に1haの大きな田んぼが完成した。乾田馬耕時代の百姓が、突然この大きな田んぼに舞い降りたら・・・蓑笠を被り、ケラ(ワラで作った雨具兼荷背負の背あて)を着用して田植えをしてもらった。

 「1反歩の10倍!ふれェごど、たまげだな。これだば、米こしゃるに、しこたまぞうさねぇ。わげァものにもがっぱりだ。んだども、どでんしたなァ。」(広くてビックリした。これなら米作りが誠に簡単だ。若者にもピッタリ。それにしても驚いた。)
 軒先に吊るされた農具は、8角の型枠…明治の後期になると田植型枠機という便利な道具が導入される。苗を植え付ける場所が分かり、縦と横の線が真っ直ぐになることから、田植後の管理もし易く、収量もアップした。
 苗は一定間隔に植えなければならない。水田に形回しをして植える位置を決める。きれいな正方形が描かれていく。(「新穀感謝/農村の一年」より)  かつて、田植えは女たちが主役。苗かごを腰につけて前に進みながら丁寧に植えた。(「新穀感謝/農村の一年」より)
 幕末から明治初期の伝統建築物・馬屋片中門造りの上層民家「里の家」。
 左:岩見川から取水している芝野堰頭首工 右:芝野堰

 「芝野新田」という地名の由来は、もともと芝草が生えた広大な原野(芝野)であったことに加え、藩政時代に新田開発したことから、その名がついた。水源を岩見川左岸に求め、芝野堰を開削。現在、約500haの水田にかんがいされている。
 左:田園を流れる芝野堰 右:竣工記念碑・・・芝野堰幹線用水路は、昭和41〜45年、県営かんがい排水事業で改修された。現在、老朽化による漏水が著しいことから、芝野地区のほ場整備と併せて改修工事が進められている。
乾田馬耕と耕地整理
 芝野地区は、明治時代まで人力による耕起が行われていた。人間の場合は、湿田であろうが、田の大きさが小さかろうが、曲がっていようが、何とか対応できた。従って、重労働と作業効率を無視すれば、耕地整理をする必要はなかった。

 乾田馬耕が導入される以前は、どんな農作業であったか。春先のまだ寒いころに泥田に浸かって一クワずつ手で掘り起こしていた。秋の稲刈りの時にも水が張られていて、刈り取った稲を束立てをしたままの状態で田んぼにおいていた。当時は、稲が腐りやすく「秋田の腐れ米」と言われる大きな原因となっていた。このようにつらい農作業や腐れ米のことを見るにつけ聞くにつけ、どうにかして少しでも百姓を楽に、しかも良い米をとらせたいと決意した先人、それが斎藤宇一郎(1866〜1926年、仁賀保町)であった。
 馬耕で最も難しいのは、自在に操る技術。どんなに熟練しても、曲がった田んぼを隅々まで耕起するのは無理。田んぼの大きさも小さければ、作業効率は極端にダウンする。さらに、湿田では、人間は入れるが、馬は無理。人力から馬への転換は、田んぼの耕地整理が前提条件だった。(右の写真は、「新穀感謝/農村の一年」より)
 写真は、仁賀保町の先覚者「斎藤宇一郎記念館」

 秋田県で湿田から乾田へ、人耕から馬耕への農業技術の一大変革が行われたのは、明治20年代から30年代にかけてのことだった。

 雄和町川添(芝野地区を含む)、仁井田などの村では、先覚者斎藤宇一郎を招いて乾田馬耕と耕地整理の効果について指導を受けている。明治40年には、秋田県耕地整理組合が設立され、世紀の大事業が行われた。芝野地域は、大正4年〜6年にかけて受益面積366ha、1枚の田んぼが10a区画の耕地整理が行われた。

 それからおよそ100年、斎藤善悦芝野地区基盤整備組合長(151ha、161人)が「100年の大計」と呼ぶ「担い手育成基盤整備事業」が平成9年から始まった。
 整備される前の田んぼ。なぜ大きな区画のほ場整備が必要だったのか。
 当時の農道は6尺(1.8m)、馬や人がすれ違ったりするには何の問題もなかった。農業の機械化が進んだ今日、軽トラックがやっと通れるような幅しかない。試しに乗用車で入ってみたが、車輪が路肩スレスレだった。これでは、すれ違いができないばかりか、バックしたりすれば、水路や田んぼに落ちるのも当たり前。しかも長い農道に作業車が1台いれば、待つしかない。もう我慢の限界だった。

 さらに乾田馬耕時代の田んぼでは、今日の機械化に対応できるはずもない。規模を拡大すればするほど、田んぼが分散し、狭い農道、小さな田んぼでは、作業効率が極端に落ちる。ということは、担い手農家が規模を拡大したくても、条件が悪くてできないことを意味している。年々生産調整面積が拡大されているが、地下水位が高く、畑作物の生育が悪い。ということは、生産調整された面積は耕作を放棄するケースが増えることを意味している。田んぼを貸したいと思っても、条件の悪い田んぼでは借り手がいない。まして乾田馬耕時代の古いほ場条件では、若い担い手が育たず、優良農地を次世代に引き継ぐことすらできない・・・これらの問題を一気に解決する方法は、大正時代に実施したような第二の耕地整理を実施するしかなかった。
 右が世紀の大事業に挑んだ芝野地区のリーダー斎藤善悦さん、左は昔の百姓を演じてくれた安藤武一さん。縦100m、横100mの大きな田んぼをバックに握手する二人の笑顔に、江戸時代の新田開発、大正時代の乾田馬耕と耕地整理に続く「100年の大計」を成し遂げた苦労と感激の全てが凝縮されているように見えた。
 左上に空を飛ぶ飛行機が見える。1haの大きな田んぼは、国際田園都市を標榜する雄和町にふさわしい。「手植えの時代は、田植えに半月もかかった。これじゃ腰が曲がるのも当たり前だ。今じゃ8条の田植え機械なら、一日で3haもできてしまう。」と、斎藤組合長は笑った。
 農道の幅員は5m・・・これなら軽トラックはもちろん、大型トラクターも楽々すれ違うことができる。6尺しかなかった農道の時代からみれば、まさに夢のような田んぼだ。
 左は地区内を走る幹線用水路。右は、排水路だが、段差もなく蓋をすることによって、作業車の通行が可能で、ほ場の維持管理が楽に行える。さらに、左右の田んぼを自由に移動できる。
 江戸時代、岩見川に水源を求め、広大な原野を切り拓き誕生した芝野新田村。先人たちが大切に守り伝えてきた田んぼが、大型機械に対応した1haの大きな田んぼに生まれ変わった。さらに、広い農道、用水路と排水路の分離、暗渠排水による畑作物可能な農地、分散した農地の集積・・・。これで先祖伝来の優良農地を子から孫へと引き継ぐことができる。その喜びは、我慢に我慢を重ねてきた農民でなければ、なかなか理解できないことだ。
 かつて田植えは、早乙女たちの仕事だった。長い間農作業を続けてきた彼女は、確かに腰が曲がっていた。しかし、大きな田んぼに生まれ変わって「楽になたもんだ。ほんとにえがった(本当によかった)。」と言いながら、底抜けに明るく笑った。
 明治から大正にかけて実施された乾田馬耕と耕地整理は、農業革命と呼ばれた。ならば、この芝野地区で行われている大区画のほ場整備と芝野堰の改修は、地域農民にとって第二の農業革命と呼ぶべき大事業と言えるだろう。

取材編集:秋田総合農林事務所土地改良課