「新穀感謝/農村の一年」(秋田魁新報社、河村欣二、堅太郎著、完売)の写真集は、戦前・戦後の秋田の農村を一年にまとめた写真集である。厳しい北国に生きる厳しさ、水と土に苦闘しながらも、家族ぐるみで農作業に励む笑顔、かつては物質的に貧しく、重労働の連続であったにもかかわらず、農村に生きる人々の心は今より豊かだったように見える。かつての少年少女たちは、この作品を見てどう思うだろうか。ご感想をお寄せいただければ幸いです。
12月になると早くも根雪になる。吹雪になると田んぼ道を通って町へ出るのも大変だ。晴れ間をみて正月用品などを買いに出かける主婦は角巻きで身を固め、足早に町に向かう。 歳の市では松やゆずり葉、若水を汲む桶や杓子などの正月用品、生活必需品のコタツなどを買い求める。
12月になると早くも根雪になる。吹雪になると田んぼ道を通って町へ出るのも大変だ。晴れ間をみて正月用品などを買いに出かける主婦は角巻きで身を固め、足早に町に向かう。 歳の市では松やゆずり葉、若水を汲む桶や杓子などの正月用品、生活必需品のコタツなどを買い求める。
元旦の朝、主人は早朝土間に下り、若水くみ、臼伏せの行事をする。正月3日に臼を起こしその年の稲作を占う。 米屋の初荷はそりでコメと一緒に薪炭も配達する。
元旦の朝、主人は早朝土間に下り、若水くみ、臼伏せの行事をする。正月3日に臼を起こしその年の稲作を占う。 米屋の初荷はそりでコメと一緒に薪炭も配達する。
小正月に行われる雪中田植えで豊作を祈願する。暮れにはスス払いに使ったワラ箒も一緒に立てる 大雪の年は豊作になるとの言い伝えは古くからある。降り積もった雪で家の出入りもままならず、雪下ろしを何度もしなければならない豪雪の年が多かった。
小正月に行われる雪中田植えで豊作を祈願する。暮れにはスス払いに使ったワラ箒も一緒に立てる 大雪の年は豊作になるとの言い伝えは古くからある。降り積もった雪で家の出入りもままならず、雪下ろしを何度もしなければならない豪雪の年が多かった。
水道はまだ家々になかった。吹雪の晴れ間をみては、町内にある水道の共同水栓に鍵を持って飲料水を汲みにいく。 田んぼに雪があるうち、秋に作り上げた堆肥を馬ソリで運ぶ。堆肥からは近づく春を知らせるように湯気があがり、額に汗がにじむ。
雪が消えても日本海を渡ってくる風は肌を刺す。子供たちは日なたぼっこをしながら春を待つ。 道にやっと砂ぼこりがあがるようになった。学校に通う子供たちにも明るさがもどる。
雪が消えても日本海を渡ってくる風は肌を刺す。子供たちは日なたぼっこをしながら春を待つ。 道にやっと砂ぼこりがあがるようになった。学校に通う子供たちにも明るさがもどる。

ご協力をいただいた河村堅太郎氏のプロフィール

・大正10年、秋田市に生まれる。
・秋田県立秋田中学校を卒業後、昭和15年慶応義塾大学法学部政治学科に入学
・昭和18年12月学徒出陣にて秋田17連隊に入隊。
・昭和19年12月東京陸軍主計少尉で新島より復員。
・昭和21年10月慶応義塾大学法学部政治学科卒業。
・第10回秋田県芸術文化賞受賞
河村堅太郎氏は、写真集の凡例に次のように記している。
「この写真集は昭和13年頃から33年頃までの農作業風景などを撮影したものである。自動耕耘機や稲刈り機などの機会が入ってくる前の農村、作業は厳しくつらいものだった。
 当時、フィルムは報道関係や映画製作に向けられ、アマチュア写真家が入手することは極めて難しかった。加えて、カメラを肩に町中を歩くことには、ことのほか警察の目が厳しいものだった。幸いなことに出征兵士に留守家族が慰問文といっしょに写真を送る目的に「写真報国隊」が全国に結成され、私の父親(欣二)は、わずかではあったがフィルムの配給を受けていた。そんな貴重なフィルム、とてもムダづかいのできるものではなかったし、農村風景を系統だてて追うことは困難だった・・・。フィルム現像は全て自家処理していた。保存状態が良かったこともあって、50数年たった現在でもネガに変質やカビ、傷などはほとんどなく、プリントするのに意外なほど苦労しなかった。これもモノクロフィルムのお陰と思う。・・・写真の配列や説明文については昭和19年5月発行の柳田国男、三木茂共著の「雪国の民族」を参考とした。」