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ARIC情報NO.61-2001「リレートーク 技術の伝承」より抜粋
吉村 彰/財団法人家計経済研究所専務理事、元国土庁長官官房審議官)

 わが国の干拓技術を対外技術協力に活用する前提として日本の干拓技術を蘇らせねばならないが、その前にどうしても記録として残し、農業土木技術者諸賢に紹介しておきたいことがある。それは、何故八郎潟干拓が当時の農林省で始められるようになったのかをこの誌面を借りて是非とも少々詳しく紹介しておきたいことである。

 戦争終結に伴う戦勝国側からみた日本の敗戦処理に関し、当時のソ連は賠償を求めるほか、シベリアに抑留した日本国民の帰還にも消極的で応じないという理不尽な動きがあり、また中国は共産党による全国土支配の日浅く、この2ヵ国を除いて多数の西側各国による講和条約を締結する動きがアメリカを中心として1949年頃から始まった。

 インドを含むほとんどの国が日本からの賠償を求めなかったのに対し、オランダだけはインドネシアなどでの日本の占領中の仕打ちに対し、復員軍人団体などから無償平和条約に強硬な反対がもたらされた。(現在でもオランダでのこれらの団体の運動は半世紀を過ぎても根強く続けられ、天皇や歴代の首相が日本国を代表して訪蘭しても、彼らから天皇や総理のクルマに生卵を投げられたり、無名戦士の碑に花輪を捧げても彼らが直ちに近くの池などに花輪を投げ込んだという記事や映像が報ぜられるのはこのためである。但し、一般のオランダ国民は、鎖国中の日本が唯一門戸を開いていたのがオランダであった事実から極めて親日的である。)

 講和条約の取りまとめに当たったアメリカ政府のアチソン国務長官やダレス国務省顧問などがオランダへの説得に当たったが、頑として応じなかったところ、賠償の代わりに技術援助に応じるなら(それ相応の技術料の支払いをするなら)、オランダも講和会議に参加する旨の感触が伝えられた。アチソン、ダレス両氏は早速、時の宰相吉田茂氏に何か日本から技術協力を求めるプロジェクトはないかとの打診があった。

 吉田総理は早速益谷秀次建設大臣を呼び、建設省として何かのプロジェクトを考えるようにとの指示をされた。益谷建設相は早速次官、局長を集めて総理からの御指示を伝えたが、次官も各局長も皆特に思い浮かばない。各局では課長方を集めて趣旨を話したけれども、どの課長もオランダに技術協力を求めるプロジェクトは思いつかない。各課では課長が補佐クラス(農林省ではその頃班長と呼ばれていたが)を集めてたずねても首を横に振るばかり。

 とうとう係長、係員クラス迄下りてきた。そのとき総合計画課に出向先の東京都から戻ったばかり、テキヤや闇屋の親分を向こうに廻して都市区画整理事業で焼け跡の、後の新宿コマ劇場周辺を担当していた下河辺淳係長(後の国土事務次官)が「建設省には無いと思うけれど、農林省ならあるのでは。八郎潟の干拓事業ですけど」と一言、課長に進言した。

 課長は大喜びで局長、次官に伝え、大臣に次官から説明したところ、大磯に住む総理に説明に行けといわれたが、次官、局長、課長とも全員が尻込みをし、何しろ気難しいことで有名な和服に白タビ、葉巻をくゆらせた首相のもとに、所管事項でもないのに説明に大磯くんだり迄ノコノコ出かける奇特な人はいなく、とうとう下河辺氏が一人で出かけることになった。この辺の様子 を、下河辺氏は元部下であった筆者にかなり詳しく語って下さった。

  「誰も上司が連れていってくれないので、単独で総理さし廻しの自動車に乗り、アメリカ軍のMP(ミリタリーポリス)のジープ先導で大磯へ向かった。大磯の吉田邸は和風だったが、玄関先からじゅうたん敷きで、座敷に土足でそのまま上がる方式をとっていた(これはGHQの高官が来邸しても、すぐ座敷に通れるようにするため)。

 総理に、『建設省には適当な事業はありませんが、農林省では八郎潟干拓事業の構想が戦争前からありますので、干拓の本場のオランダから技術援助をしてもらうといいのではないでしょうか」と話したところ、総理はウンウンと葉巻をくゆらせながら終始上機嫌で話を聞いてくれて、最後に、「わかった、広川(農林大臣)に話をしよう」と言われ、帰るときに玄関まで見送ってくれて、当時は大変な貴重品だったスコッチウイスキーを一本いただいたヨ」とその一部始終を語って下さったのは筆者が退官して5〜6年経過した後、下河辺氏が今も勤めている東京海上研究所の理事長室でのことであった。

 この後広川農林大臣から開拓局長そして古賀俊夫開墾干拓課長に話が下り、古賀課長御自身を始め、小川泰恵・出口勝美・松井芳明の各氏やその他多くの諸先輩がオランダに出かけ、1952年頃からオランダの技術者の訪日が始まり、1957年から本格的着工に至ったのである。

 筆者は1964年から65年にかけてオランダに1カ年留学する機会を得たが、ちょうど八郎潟では64年9月に干陸が始まり、留学中の筆者は干陸後の土地利用、営農方式をはじめオランダの干拓地での活動ソフトを細かくレポ一トすることが求められ、このことが後の八郎潟新農村建設事業団の設置、大潟村の開村につながったと思っている。

 八郎潟の干拓事業では、それ迄の直立型の堤防から緩傾斜型の堤防に変わったのを始め、施工技術も大型サンドポンプによる俊せつ船と大型土運船(パージ)による大量の土砂搬送をして、築堤などオランダの技術指導により、従来の工法なら20〜30年位はかかったと思われるものが十年ほどの短期間の工期で2万ヘクタールの農地が誕生したのであった。

 気象条件や地質・海象条件などオランダと比べると日本はどちらかといえば不利な条件でありながら、日本独自の創意工夫によってオランダの技術に改良を加えて施工した実績をして、干陸時に再来日したオランダの技術者たちに「もう教えることは何もない」と言わしめたことからも、日本の干拓技術が世界のトップレベルにあることは明白であろう。

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