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潟の想い出
The recollection of Hachirogata Part 2

 写真、文ともに写真集「潟の記憶」(川辺信康著、秋田魁新報社、1991年)より

 「畔(あぜ)といわず、苗代といわず、渦を巻いて勢いよく上ってくるフナを夢中になって手づかみした経験は、潟を知る人なら誰しもが持つ思い出であろう。
 こんな場面に出合わさなくとも、長雨が続き、川が増水し始める岸の茂みに、棒きれに針金を曲げてつるしただけの即製の釣り竿に面白いように食らいつき、困るほど釣れたものである。

 おおよそ70種もの魚介類が生息し、四季折々に私たちの味覚を楽しませてくれた漁法もまた、種類が多く、地形と魚の習性に合った独特の方法がとられ、その一つひとつが潟の風物詩であった。

 ・・・初夏ともなれば、湖岸の茂みを、5尺にも及ぶ一本歯の高下駄をはいて、大きな玉網を押しながら、アミやエビの小魚をすくい上げる「押しダモ」がよく見られたものである。泥の堆積からなる軟弱なヘドロの湖底にマッチした、けだしユーモラスな姿であった。干拓が始まる以前からあまり見受けられなくなっていたが、こんな単純な漁具を使っていた悠長な時代を考える時、反面、どんなに資源が豊富だったかを思わせてあまりある。

 ・・・潟の漁法を後世に伝える術はもう゛語り草゛だけとなってしまった。その一つに「つけ柴」と呼ばれるものがある。柴を束ねて岸辺に沈め、折りを見て引き上げると無数の小エビがからみついて簡単に捕ることが出来た。

 何はさておき、八郎潟を思い浮かべるとき「うたせ船」を欠く事はできない。シラウオ、ワカサギが解禁になる初秋から結氷期までは、大きな白帆に風をいっぱいはらませ、暮色に映える姿は、さながら一幅の絵であり、潟の風物詩の最たるものであった。」(「潟の記憶」の追憶より抜粋)

左:朽ちた船腹を使った漁村の架橋。 右:潟の漁夫はマタギの装束に似て、異色の風俗だった。
「八郎潟に思い出を持つ人々とは、肩を抱いてのどかだった湖の風物詩に思いを馳せてみたい。初めてこの地を訪れた方々には、ありし日の潟を説き、いまはなき八郎潟の郷愁をいやしたい」
左:氷下漁業、後ずさりで氷下の網を引く 右:氷下漁では、船に替わってソリが主役
「氷を割って網を入れる氷下曳き網漁は、北国ならではの風雪に立ち向かう壮烈な漁法である。部落の人々が一団となって氷上の漁場へ向かうさまは、さながら砂丘に這うアリを思わせるものがあった。直径1キロにも及ぶ氷下の網を後ずさりしてゆっくりたぐい寄せる漁法は、体力消耗と地理的条件を考え合わせ、古人が風土からあみ出した合理的な生活の知恵ともいえよう」
冬の湖岸 シケのあと、湖岸に打ち寄せられた「モク」。「モク」とは、潟の藻のこと。「すっかり干し上がったモクの束を首が隠れるほど積んだ馬をひき、路地から路地へと売り歩き、日銭を稼ぐ湖岸の人々の風情は長く親しまれたものの一つといえよう」
うたせ船の出漁準備 この幸よ、今はいずこに!
「エビ筒」を使ったエビ漁も独特の漁法だった。 湖岸が干し上がり無用となった漁具
消えゆく八郎潟を見ておこうと集まった観光客 水から土へと運命を変えられた老夫
 干拓に対する反対運動もあったが、補償交渉が解決し始めると、いつの間にか反対派の漁民も、賛成派の人々も干拓工事の先兵に変身していった。「工事現場の゛シジミ貝゛を採る熊手を引きながら大声で話し合っている漁民からは、しめった暗さはみじんも感じられなかったのは、私にとってひとつの安堵感でもあった。」

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