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潟の想い出
The recollection of Hachirogata Part 1

 「潟の水は満々として、時には大きなうねりとなり、広くまた広い。・・・
友だちといつも、釣り竿を担いで川口までいき、魚を釣った頃から思うと、今こんな大地になるとは全く考えられない想像外のことです。

 毎年、夏や秋には潟は荒れ狂い、農民を苦しめます。
 雨が降り、南風がやまず潟の水はどんどん田んぼが水面と化していきます。
 ・・・植付け間もない苗は、徒長と、水を引いた地面にベッタリと倒れ、見るも情けない姿になります。・・・せっかく一年間苦労して育てたものが一晩のうちに流されるのです。「潟ばた」又は「沖ン田(オゲンタ)と言って、馬も、耕耘機も入れません。人力で耕し、腰まで泥につかりながら植付けし大切に育てます。

 ・・・小畑知事が「国土はこうしてつくられた」の中で語っている八郎潟干拓への決意の過程はよく表現されています。私には、目に見えるようで涙がこみあげてきます。

 ・・・政治的に決断した人、設計や試験や事務に携わった人、実際にスコップで土を動かし道をつくった人、そしてこんな人たちを周囲から支え、協力した人たち、一人一人の汗の結晶がこの干拓地にしみこんでいるのです。

 ・・・八郎潟の近くにいながらいつも水不足で、あぜにゴムカッパを敷き、夜露にぬれながら水口の前で朝まで水番をしたことを想いだす。もうそんな事もしなくていい。国がこの地に日本農業の中で今までやれなかったことを実現させようとしたことに大きな意義を見出し、使命の重大さを感じたものです。・・・未完成な大潟村であるがゆえに、また夢があろうと言うものです。」

(「八郎潟新農村建設事業団史」、回顧編、第3次入植 宮田正馗)
 
帆に風をはらんだ潟船が暮色に映える様は、まさに一幅の絵であった。(昭和30年)
干拓前の統計によれば、秋田県の漁類消費量の何と47%を供給する漁業の宝庫であった。
゛潟が干される゛などとは湖岸の漁民には想像すら湧かなかった。(昭和28年)

水深の深い所は、左図のような「潟下駄」と呼ばれるものをはき、「押しダモ」を用いて、エビ、アミ(イサザ)を獲る零細な漁法。
「押しダモ」は潟の古い伝統でユーモラスな漁法だった。(昭和28年) 漁に出た親の帰りを待ちわびる子守りの少女(昭和30年)
良質のヤマトシジミの宝庫でもあった。(昭和31年) 銀鮒は潟の王者で、広く県民に親しまれていた。(昭和28年)
漁網の目印は杭のみが頼り、たった一個の浮標識があったなら漁師たちの苦労は半減していたかも・・・(昭和31年) 漁家の子弟も家業に欠かせない労働の担い手であった。(昭和39年)
潟船は男鹿の丸木舟に次ぎ、古い歴史をもっていた。(昭和28年) 淡かん湖だった八郎潟の漁介類は、フナ、ボラ、シラウオ、ワカサギ等70種を越え、漁獲量は年間約8、800トンもあった。(昭和30年)
氷下漁業は厳寒期の漁法で厳しい自然との闘いでもあった。(昭和29年) 氷上でコマ廻しに興ずる子どもたち(昭和29年)
結氷した湖面の道なき道をゆく「魚人(イサバト)」は長年の勘のみが頼り(昭和28年) 漁から農へ生活基盤の転換を余儀なくされた農婦の笑顔は、潟を失った諦めにも見え印象深かった(昭和35年)

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