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干拓工事
Reclamation works

 八郎潟は、東西12キロ、南北27キロ、琵琶湖に次ぐ日本第2の湖であった。水深はきわめて浅く、最深4.7m、平均水深3m程度であったが、湖底のほとんどは軟弱粘土におおわれ、最も厚いところでは何と50mにも及んでいた。

 昭和31年農林省はオランダの技術援助を得て「八郎潟干拓計画」を完成させ、昭和32年4月、国の直轄事業として着工された。

 この計画は、八郎潟22、024haのうち、中央の15、640haを延長約52キロの堤防で囲み、地区内の水を南北排水機場で排水、世界の最新土木技術を導入してヘドロと呼ばれる超軟弱地盤の上に新生の大地を作り上げようと言う計画である。その広さは、東京都で言えば国鉄の山手線に囲まれた区域の約3倍にも及ぶ面積である。凡人からみれば、とてつもない計画である。

 この壮大な未知への挑戦に日本の技術者たちは、震え上がるほど燃えたに違いない。なぜなら、未知への挑戦こそ技術を飛躍的に向上させるチャンスであり、誰もが経験したことのない最前線こそ、彼らにとって最高の舞台なのだから・・・。

 厚さ20〜50mに及ぶ超軟弱地盤の上に堤防を築くには、解決すべき技術上の問題が山ほどあった。その諸問題と苦闘するだけでも大変な知恵と労力を要した。悪いことに、工事途中で、青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震と立て続けに大きな地震に見まわれている。知恵と汗と涙の結晶である堤防に亀裂が入り沈下したのである。その原因は、誰も予期せぬ「砂の流動化現象」によるものであった。

 干拓に携わった人々の回顧録を読むと、「崩れ落ちた自信」「不敵な挑戦」「冷汗、油汗」「血を吐き骨を削る苦労」「涙がこみあげてくる」「十分な調査をしたとはいうものの、祈るような気持ち」「責任の重大さに天を仰ぐ」・・・

 こうした幾多の困難を乗り越え、見事に完成させた関係者たち・・・
 その労苦は筆舌に尽くし難いものがあっただろう。それだけに湖底が新生の大地に生まれ変わった瞬間、干拓工事に携わった全ての人々は、万感迫るものがあったに違いない。

小畑知事は、起工式で工事の安全に万感の祈りを込めて、入魂の鍬をふるった(昭和33年)
記録によれば、昭和31年2月24日、小畑知事は、1500名の漁民大会に出席、懸命の説得を行い、閉会の時には、片手は漁業組合の、もう一方の手は干拓実現のためのバンザイを叫んだ。小畑知事の「バンザイ作戦」と、今に語り伝えられている。
人工島から人工島へと、土砂で結ばれた最前線工事の作業員は渾身の力をふるっていた(昭和32年)
昭和32年5月1日、八郎潟干拓事業所設置。同年12月26日、八郎潟周辺25漁協3000名の漁民との漁業補償約17億円で妥結した。
巨大なシュンセツ船「双竜」をはじめ125隻からなる各種機械船団を゛八郎潟艦隊゛と呼び、その威力に目を見張った(昭和32年)
「この大艦隊が、冬期間定期整備のため、南部基地に集結した有様は壮観であった」と事業団史に記録されている。
周囲52キロの堤防を軟弱地盤に築く独自の工法で中央干拓地に向かい土砂はサンドポンプを走った(昭和33年)
軟弱地盤の上に築く堤防の用土は、その大部分を調整池西側半分の砂地盤の区域から採取された。
超大型ポンプ8基の揚水威力はすさまじく稼動300日にして予定地の大半がその姿を表した(昭和34年) 200万トンを越える築堤用の採石で築紫岳は、その姿を没する運命となった(昭和32年)
左:浅瀬は砂地でより深い地底はヘドロ層と呼ばれ、現代の生活汚泥とは違い、有機質が豊かで肥沃な土壌(昭和40年) 右:乾燥につれ幾何学模様となったヘドロの湖底に芽吹いた植物第1号(昭和40年)

「スコップ1丁を持って゛ヨシ゛の根元を掘り返し、全然乾燥の進んでいないヘドロ地盤をみて、短時日のうちに、これを営農機械を乗せる試験ほ場にするには、どうしたものだろうと思案・・・
私は、長靴がズブズブめり込む中で、スコップ1丁を持って、工務部長の責任の重さに天を仰いで長大息をするような心境でした」(岡本勇元事業団工務部長)
潟で漁を続けた老漁夫が初めて目にした、いかつい工事船の上で孫とともに終日変わりゆく潟を目で追っていた一こま(昭和33年) 大規模干拓に驚嘆するライシャワー駐日大使夫妻(昭和40年)
重機の嘴となって回転し続けた巨大カッター(昭和32年)
地盤を噛み土砂を吸い上げた、干拓工事唯一の語り部として南の池公園に収まっている。
 掘削するために、当初はカッター付きポンプ船を使っていたが、工期短縮と経済性を考え、射水で掘り起こすカッターレスポンプ船を製作することになった。しかし設計図がなく、吸い込み口の形や射水の噴射方法など、その製作は暗中模索であったという。
 製作も初めて、それを運転するのも初めてである。最初は、使い慣れていないため能率も悪く、土運搬との組み合わせによる積み込みが遅れるなど、船長は使用することを嫌ったと言う。しかし、熟練してくるとカッター船の何と3倍近くの採砂を行った。ここに日本の技術者たちの優秀さが伺える。
 「着工後数回にわたって見舞われた地震の被害も、堤防の一部に亀裂や沈下をみたが、いずれも村の建設に大打撃を与える災禍でなく済んだのは、それだけ、わが国における農業土木の技術的進歩を物語ることはもちろんであるが、これも八郎太郎のご守護のたまものではなかったかと思われてならない」(嶋貫隆之助村長職務執行者)

■八郎太郎の伝説
秋田県には、十和田湖、八郎潟、田沢湖の3つの湖がある。
大昔のこと、鹿角の里に八郎太郎という若者がいた。
ある日、十和田山に仕事にでかけたが、道に迷い、いつしか深い渓谷に踏み込んでしまった。

腹がすいた太郎は、川でイワナを捕らえ焼いて食べたが、
不思議な香りに我慢できず、仲間の分も平らげてしまった。

すると、急に喉が焼けつくように渇きはじめ、33昼夜にわたって川の水を飲み続け、
ついに33尺の大蛇に変貌した。もはや里には帰れず、川を堰き止め巨大な湖をつくって住みこんだ。これが今の十和田湖だという。

それから永い年月がたったある日、南祖坊という修験者があらわれ、太郎との秘術を尽くした戦いが7日7夜続き、結局八郎太郎は破れた。十和田湖を去った太郎は、米代川を下り、日本海に面した南秋の地に、大湖水をつくって永住することとした。これが八郎潟の発祥というのである。

やがて太郎は、田沢湖の主辰子姫に恋をするようになるが、またしても南祖坊の妨害に会う。
恋敵となった2人は、田沢湖を舞台に死闘を繰り広げ、今度は太郎が勝ち、
太郎と辰子は晴れて夫婦のちぎりを結ぶことができたという。

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