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大潟村誕生
Oogatamura birth

 干陸式を9月にひかえた39年5月7日、突如震度Yの地震(青森県西方沖地震)に襲われ、完成寸前の堤防や構造物が被害を受けた。この衝撃も覚めやらぬ同年6月16日、震度Wの新潟地震に再び追い打ちをかけられた。

 堤防の被害は、最大1.7m、外の水位スレスレまで沈み、中央干拓地にまさに水が入り込まんとする危険な区間もあったという。堤防の小段道路やアスファルト舗装に亀裂が入り、天端は波打つように沈下していた。

 この時、一瞬、関係者は、地震の脅威に青ざめたに違いない。
 しかし、細心の注意を払って計算、施工された正面堤防の被災は小さく、本体は安泰であった。
 部外者やマスコミは、この程度の地震で壊れる堤防であったのかと、その原因がよくわからなかったこともあって、非難は相当あった。

 その後の調査で、地震による堤防の安定性に問題があったのではなく、予期せぬ「砂の流動化現象」により被災したことが判明。堤防の幅を広くするなどの復旧対策を行い、同年9月15日の干陸式を無事迎えることとなった。

 華々しく催された干陸式と新生の大地・大潟村誕生の裏に、こうした工事関係者たちの影のドラマがあったことも忘れてはならないだろう。

干拓功労者として叙勲をうけたピーター、P、ヤンセン博士(昭和39年)。
オランダのデルフト工科大学ヤンセン教授とフォルカー技師は、昭和29(1954)年3月18日に来日、以後1ヶ月日本に滞在した。八郎潟を視察し、三倉鼻に記念植樹を行った。
同年7月中旬、ヤンセンレポート「日本の干拓に関する所見」が農林省に届いた。当時の記録には次のように記されている。「この報告書は、当時各省が招いた外国技術者の報告書中、最高のもので、内容は立派であり量は゛膨大であった゛とのみ記されているが、財政支出に厳格な大蔵省が、教授ら招致費用予算を査定の際減額した分を改めて追加払いをし、さらにその後、この関係経費について好意ある協力をした、というほど高い評価がなされた」
右の写真は、父の手植え松を見上げ、歳月の流れに感無量のヤンセン博士ジュニア夫妻。
干陸直後の地底は、無数の貝殻でおおわれ参集した人々を驚かせ、また悲しませた。新村には全国公募により「大潟村」と名づけられた(昭和39年9月15日)
当時干陸された部分は約6千haで、中央干拓地全体の35%にすぎなかったが、総水量の92%をすでに排水していた。
現在の大潟村。村の中心部は、干陸式が行われた地点の北側に位置し、商店街では生活用品に事欠かない。
大潟村開村以来、見学者は県内だけでなく、県外、海外から合わせて年間数万人にのぼり、国際観光地的な存在となっている。
干陸式式典に参列した顔ぶれから、その規模の大なることが感じられる(昭和39年9月15日)
写真には、自治大臣、衆議院議長、農林大臣、オランダ大使、ヤンセン教授・・・約1、300名の関係者が参加。特に招かれたヤンセン教授に赤城農林大臣から勲三等瑞宝章が贈られた。
近郷近在の住民も多数参集し、思いおもいに記念の植樹をしていた(昭和39年)
 干陸式の協賛行事として、堤防一周駅伝、承水路のボート競技、地固めの高校相撲選手権大会、郷土芸能や周辺婦人会400人の踊りなど、地元住民の総意を集めて大潟村の誕生を祝った。

 人出は2万人を記録し、報道機関の航空機が空を飛び交い、次々と祝賀メッセージが空から投下される中、式は盛大に挙行された。
水から土へと未知の扉が開かれ、湖岸の人々は、各々の感慨を胸に湖底の感触を味わっていた(昭和39年) 入植も緒についたばかり、意欲こそあれ営農には希望と不安が交錯し、この新地が真の「ふるさと」と呼べる日はいつの日か!(昭和43年)
昭和41年、第1次入植者募集、定員58名に600人が応募。昭和42年第2次、定員86人に281名応募。昭和43年第3次、定員180人に309人応募。昭和44年第4次、定員150人に389人応募。昭和48年第5次、定員120人に869人応募。
合計580戸が入植した。
干陸の感動は、人の心に深く刻まれ、盛大な干陸式の跡地には八郎潟を模した台座に黒御影石をすえ、世紀の大事業を刻した(昭和44年) 春たけなわの頃、村内を黄色に染めあげる一面の菜の花は、シジミ貝のジュウタンに替わり鮮やかに咲き誇る。
 新しい村の名前は、広く一般から募集。県内外から1、612通、714種の応募があった。第1候補として「湖生」「新八郎潟」「潟中」「大潟」「元潟」「新生」「秋潟」「八郎」「小畑」「新生八郎潟」「八郎新田」「八郎潟干拓」「新秋田」「日本海」が選ばれ、意見交換の後、再投票を行い、「大潟村」と決定した。

 大潟村という村名の応募は、全部で15通あったが、その理由は
1.八郎潟の名前がつく前に、「大潟」と呼ばれた記録があり、現在でも湖岸の漁民や老人がこの呼称を使っている。
2.日本一の潟があったという事実を村名にとどめたい。
3.国内で干拓の対象になった湖で一番大きい。
4.八郎潟のように大きい飛躍への願いを村名にこめたい。
今上天皇、皇后両陛下も皇太子時代にほ場をご覧になられた。
 大潟村の発足は、昭和39年10月1日。人口は、南北排水機場に勤務する6家族14人でスタート。

 一般見学者の干拓地についての疑問は、この広い陸地造成地にどこからどのようにして土を運んだのだろう(干拓と埋め立てを混同している)とか、中央干拓地は周辺町村と標高は同じだろうか(あまり広いのでマイナス標高とわからない)など、湖底にできた村としての認識は、なかなかもてないようだ。そういう意味では、八郎潟から大潟村への変化は、人間の常識を超えていたと言えるのではないか。

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