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湖底の村づくり
Village-making of the lake bottom Part 2

 「昭和42年11月、入植の草分けとして、過去と伝統を断ち切って、生涯の運命をかけて湖底の村の未知の世界に第一歩を踏み入れたのである。

 当時の光景はまさに陸の孤島ともいうべき寂漠たるものであり、とまどいと違和感におそわれるという精神的な不安を覚える毎日の生活でした。そもそも、ここでの農業は、従来の農業のイメージを根本的に変えようとして出発したのであり、加えて軟弱なヘドロ地盤の上に大型機械化農業を打ち立てようとするのであるから、並大抵のことではなかったことは言うまでもない。

 幾多の苦闘と体験を経て、今日のような立派に整備された農地に、農業の未来に果てしない可能性を確認することができた。・・・

 好むと好まざるとにかかわらず、ここに骨を埋めなければならない我々である。心の底から語り合える、そして笑い合える豊かな人間関係をつくっていく努力が必要である。

 ・・・昭和49年に入植は完了し、大潟村も現在世帯数1,009世帯、人口3,359人と立派な成長を遂げたのである。・・・

 湖岸住民にとって、この湖を先祖伝来、伝統と生活に深いかかわり合いをもってきたことは否定できない。辛さに耐え国家的目的遂行のためにと漁場を提供し、自らの運命を変えたことを思うとき、我々自らも共存の道を歩まなければならないことを肝に銘ずべきである。

 ・・・日本農業革新の指標を確立することが、ひいては先人、先達の偉業に報いる道たる所以である。」

(「八郎潟新農村建設事業団史」、回顧編、第1次入植者津島信男)
実験田とは言え、湖底に実った初穂もまた、ニュースバリューには事欠かなかった(昭和41年) 胸を躍らせ初めて米を手にした感動は、見る者にも切々と伝わる光景だった(昭和43年)
黄金色の麦もたわわに青空に映え、土壌の肥沃さを物語っている。 無肥料でも稲作の有望性が実証され、関係者を喜ばせた(昭和35年)
いかに機械化農業でも人力の補植は、日本農業の習慣。 海抜0mの湖底に実った米は、「伊勢神宮」へ献上するまでその名を全国へ広め、米作地として不動のものとなった。
一区画約1.25haの広大な耕作地が、農家1戸当たり12区画で、その規模は約15haと、日本の平均農家の耕作地を約11倍も上回っている。 田畑複合経営で始まったカボチャ栽培は成功し、パンプキンパイなどの加工品も含め、特産品として不動のものとなっている。
ほ場では、こんなジャンボカボチャの栽培も行われ、9月にはジャンボカボチャ大会も開かれる。
校内の畑で芋掘りに興ずる村の学童たち。この頃から「教育グリーツーリズム」は始まっている。 春には様々な渡り鳥が飛来し餌をついばんでいる。中でも端麗な白鷺は、荒々しく重機が造成したほ場を知る由もない。

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