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 (上のタイトル画像は、1964年干陸式(川辺信康さん撮影)の写真と八郎潟干拓を指導したオランダのヤンセン教授の顕彰写真の前に立つ吉村彰さんを合成したもの)

 20世紀最大のプロジェクトとして記憶に新しい八郎潟干拓、その裏には知られざるエピソードや未知の世界に挑戦した者たちの熱き情熱のドラマがあった。そのドラマを広く一般に知ってほしい、と熱っぽく語る人がいる。元国土庁長官官房審議官の吉村彰さん(財団法人家計経済研究所専務理事)である。

 9月6日、「湿地の活用・保全」をテーマに干拓技術や環境保全などの研究成果を発表する農業土木学会農地保全研究部会が秋田県庁第二庁舎大会議室で開かれた。吉村さんは、特別講演の最後に「世紀の大事業・八郎潟干拓をNHKのプロジェクトXにぜひ取り上げてほしい」と訴えた。若い頃、オランダに1年間留学したこともある吉村さんは、オランダの技術援助で始まった八郎潟干拓に、特に思い入れが深い。八郎潟干拓の成功の陰にどんなドラマがあったのか、密着取材した写真を中心に紹介したい。

 大会議室を埋めた約300名の聴衆を前に、「これからの干拓技術の展望」と題して特別講演を行った吉村さん。八郎潟干拓は、江戸時代、渡部斧松が八郎潟疎水案を計画して以来、幾度となく計画されては消えていった。その干拓の夢がオランダの技術援助を受けてスタートしたキッカケは、意外にも農林省ではなく建設省総合計画課の一担当係長が、何と吉田総理に直接面会し進言した秘策だった。その詳細は「日本の戦後の干拓技術は、こうして向上していった」のページをご覧ください。

 1957(昭和32)年、八郎潟干拓工事に着手。工事は、周囲52キロもある堤防を築いて中央干拓予定地を囲み、中の水をポンプで汲み出すというもの。ヘドロが堆積した軟弱地盤の上に堤防を築くには、どういう工法をとるべきか、当時は難問中の難問だった。この難題を解決するには、世界のトップを走るオランダの技術援助が不可欠であった。

 その工法とは、従来のコンクリートによる直立型ではなく、軟弱なヘドロを掘削し砂で置き換える「砂置換工法」、2mほどの砂床の上に盛土する「サンドベット工法」という独自の工法であった。堤防は、前後の傾斜を緩やかな断面とし、現場で採取した砂を主体に、アスファルト合剤で表面を保護、水の中の土留めとして捨石を用いる方法で行われた。大型サンドポンプによる浚せつ船や大型土運船など、短期間に大量の土砂を搬送する施工機械の飛躍的な進歩と改良もあいまって、わずか10年ほどの短期間で2万haの農地が誕生した。

 八郎潟干拓という未知の世界に挑戦した技術者たちは、単にオランダの技術をそのまま猿真似したのではない。50mに及ぶ超軟弱地盤の出現、青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震、そして「砂の流動化現象」・・・その度に、日本独自の改良を加え、新たな現場の難局を乗り切った。干陸の時に再来日したオランダの技術者は言った。「もう教えることは何もない」と・・・。

 NHKのプロジェクトXのホームページには、次のように記されている。
 「プロジェクトX」は、熱き情熱を抱き、使命感に燃えて、戦後の画期的な事業を実現させてきた「無名の日本人」を主人公とする「組織と群像の知られざる物語」である。・・・日本人の底力を見せ付けた巨大プロジェクト・・・番組では、先達者たちの「挑戦と変革の物語」を描くことで、今、再び、新たなチャレンジを迫られている21世紀の日本人に向け「挑戦への勇気」を伝えたいと考えている。

 吉村さんは、「環境に配慮した農業農村整備という変革の時代に入ったけれども、むしろそうした新しい時代を迎えた今だからこそ、八郎潟干拓という歴史的な大事業に挑戦したドラマをプロジェクトXに取り上げてほしいと熱望している。そのためにもできるだけの働き掛けをしていきたい」と語った。それを聴いた農業土木技術者300名は、皆同じ想いだったに違いない。なぜなら、八郎潟干拓こそ、新たなチャレンジを迫られている者たちに向け「挑戦への勇気」を与えてくれる「挑戦と変革の物語」だからである。 
 寒風山の展望台では、偶然にも「八郎潟干拓の歴史展」が開催されていた。写真集「潟の記憶」の著者、川辺信康さんの写真を感慨深げに見入る吉村さん。

 吉村さんは、昭和34年に農林省に採用され、九州で干拓事業に従事。昭和37年には、農林省農地局で八郎潟干拓を初め、中海・有明・長崎などの干拓事業を担当。昭和39年には、オランダに1年間留学し、世界トップレベルの技術を学んだ。八郎潟干拓工事中、何度か地震の被害にあっているが、災害の査定で現場に駆けつけたことや干陸式という歴史的な瞬間にも同席したことを熱っぽく語った。
 特に吉村さんの心を惹きつけた写真は、3人の男たちが車座になって飲み語らっている写真だ。写真を指で指しながら「これが干陸式の時の写真だよ。ここに座っている3人は、地元の人だね。彼らも、泥だらけになってヘドロと戦い、この歴史的な干陸式を祝っているんだろう」・・・干拓という未知の世界に、情熱と使命感に燃えて挑戦した若い頃を思い出すかのように笑った。
 左は、東北農政局男鹿東部農地防災事務所の宮川課長。八郎潟干拓にも携わり、さらに施設の更新にも携わっているベテラン。八郎潟干拓は、「明日の食べ物がなかった時代に始まった」「昔と違って飽食の時代になった。これからは環境に配慮した技術じゃないと、農業土木の技術なんて言えない」という言葉が印象的だった。 最近、農業土木の世界にも女性の進出がめざましい。大変嬉しいことだ。ぜひ、若い女性技術者たちにも八郎潟干拓の歴史を伝えたい、と話し掛ける吉村さん。
 現地見学会の最後は、20世紀の大事業を未来に伝える「大潟村干拓博物館」。上の写真は、干拓博物館の前に建てられた先人顕彰記念碑。干拓博物館は、2000年4月29日にオープンしたばかりだが、2001年8月28日には、早くも10万人を突破した。
 先人顕彰コーナーには、今は亡き6名の先人たちが紹介されている。右は、八郎潟干拓を指導したオランダのヤンセン教授、左は八郎潟干拓事務所長の出口勝美氏。 吉村さんと話しているのは、八郎湖の水質保全に取り組む若き研究者・秋田県立大学短期大学部の近藤正先生。研究集会では、秋田を代表して「八郎湖の水質保全と干拓農業地域の土・水系管理」と題して研究報告を行った。
 川辺信康さんが撮影した干陸式の時の写真を指さし、当時を振り返る。八郎潟干拓の夢を初めて計画した渡部斧松、1941年干拓計画着手、1957年干拓事業着工、1964年干陸式・・・いずれでも嬉しそうに見入りながら、八郎潟干拓の壮大なドラマを振り返った。「オランダでは、早くから干拓博物館があった。日本でも、早くできないかと熱望していたが、なかなか実現しなかった。よくできたね、それにしても素晴らしい」と絶賛した。
入植者の訓練が始まったのが昭和41年。当時の入植者の家を再現し、軟弱なヘドロとの戦いが続いた湖底のむらづくりをドラマチックに伝える「豊かなる大地」のコーナー。 大潟村の壮大な地平線の広がりを大型3面マルチスクリーンで紹介する「大地創造劇場」。
新生の大地に、夢と希望を膨らませ、入植したパイオニアたち・・・しかしそこに待ち受けていたものは、底知れぬヘドロとの闘いだった。彼らもまた、厳しい試練に耐え、汗と泥にまみれながらも、見事に塩害とヘドロを克服、実り豊かな大地に変えていった。 昭和46年当時のアメリカ・クレイソン社製のコンバイン。大潟村で使われた最大のコンバインが屋外に展示されている。価格は当時でも900万円、現在に換算すれば2000万円以上。
 吉村さんは、カメラが大好きで、自ら撮影した写真が百科事典や映画などに採用されたほどの凄腕といわれている。上の写真は、干拓前の八郎潟から湖底の米づくりまで記録した写真集「潟の記憶」(川辺信康著、秋田魁新報社)を手にとり、感服しているところ。

 川辺信康さんは単なるカメラマンではない。「潟の記憶」「おおがたの記憶」と続く2冊の写真集・・・八郎潟以外の山や花などには見向きもせず、一つのテーマを生涯を賭けて追い続ける写真作家である。これほどまでに川辺さんを惹きつけたものは、八郎潟干拓という世紀の大事業にチャレンジした挑戦者たちの熱き情熱と変革があったからに違いない。その心は、「挑戦者たちの情熱と勇気を伝えたい」吉村さんと同じではないだろうか。
 

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