昭和恐慌とあいつぐ凶作で被害を受けた村の実態を「凶作地帯をゆく」(昭和9(1934)年10月26日付け秋田魁新聞)と題する現地レポートには次のように記されている。

 「秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。
 しかし、山裾にある町村は、
 未曾有の凶作に悩み、
 木の実・草の根、
 人間の食べられるものは
 全部刈り取り掘り尽くし、
 米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ
 飢餓地獄にのたうつ惨状、
 秋田県由利郡直根村百宅部落
 のごときは、空飛ぶ鳥類さえ
 斃死したかと思われ、
 400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、
 天に号泣し地に哀訴の術も空しく飢え迫る日を待つのみの状態である。

 同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。
 同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、
 欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。
 これは家人の働きに出た後の留守居や、
 でなければ山に入って栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、
 山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を集めるために欠席する。

 糧食なくして何の教育ぞやの感を深くさせられる。

 垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、
 授業を受ける児童の多いこと、
 一人泣き出せば又一人、
 背の赤児はまだしも自分でもママ末に負えなくなって泣き叫ぶ子守りもいる。

 こうした名目ばかりの義務教育を終えて、
 やっと15,6になると、
 雀の涙ほどの前借金で丁稚とか
 酌婦に売り出される。
 生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、
 食うや食わずにやっと6年を終えたら、
 知らぬ他国に涙の生活、
 
 彼ら山間奥地の住民は、
 永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。」

売られゆく娘たち


 凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると

 「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、
 1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。
 身売り娘が多かったのは、
 秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。
 娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、
 これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。

 しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、
 娘の身売りの根絶は困難であった。


昭和の初め頃は、ひどい不景気が続き、都市では会社や銀行が倒産し、失業者に食料の配給が行われた。 農村では農産物価格が下がったうえに凶作に見舞われ、飢餓地獄と言われた。写真は落穂や刈穂についたわずかなモミを集める小学生たち。
また村から男たちが出て行く。顔で笑って、心で泣いて(鷹巣駅前)
昭和20年3月21日、本土南方海上で戦死した本荘市出身植村正次郎(26歳)さんが、妻にあてた遺言の一部
「今まで苦労かけた。俺ばかり我がままして、お前には楽させることなく、何処へも連れて行かず、何時も何時も貧乏ばかり、良くやってくれた感謝す。この度は生還できないと思うが芳行を頼む。暴れん坊だけどそれだけ頼りにもなる。義姉さんと仲良く相談してうまくやってくれ。俺の気持ちはお前が良く知っていることと思う。見たら焼け。口で云えば涙が出る」
右の写真は、土木作業をする食糧増産隊(昭和19年)
左:地方へ集団疎開。右:配給制になった食料を求めて並ぶ人々。
当時国民学校6年生だった女性の疎開の思い出「一年生も親元をはなれて」には、次のように記されている。
「暗やみのなかからすすりなく声がもれてきます。やみに慣れた目を声のする方向へそそぐと、かすかにふとんが動いています。かんだ全身で泣いているのです。両親とはなれたこと、あまりにも遠すぎること、孤独な日々を、日中みなに涙を見せることをがまんしていたのが、せきを切って流れ出したのです。
さびしくとも、悲しくとも、苦しくとも、「がんばりましょう」の時代ですから、幼い生徒まで気を使い、おおやけに人前で涙を見せることができなかったのです。疎開は、少年少女たちの戦場だったと思います」
戦後、戦災孤児…戦争で親や兄弟を失ったたくさんの戦災孤児は、新聞を売ったりたばこを売ったりして働き、その日その日を過ごした。 戦争終結によって、復員兵、戦災者の帰村、海外移民の引き揚げがあいつぎ、人口が増加し、深刻な食糧危機に見舞われた。都市の人々は、満員電車に乗って農村に買出しに出かけたりした。
昭和22(1947)年、学校給食は、みそ汁だけだったが、それでも嬉しそうに喜ぶ子供たち。何とか食料不足を解消させたい。その思いが、戦後の食料増産運動の大きな原動力となった。 昭和21(1946)年5月19日、食料不足の危機を解決してほしいと、25万人もの人々が皇居前に集まった。土地改良事業と食料増産は、国民的な課題を背負って、新たなスタートを切ったのである。