田沢疏水は語る 国営田沢疏水 第二田沢開拓 仙北平野 甦る田沢疏水
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(昭和26年〜44年)


完成した斉内川サイフォン


悲願の「水がきた!」
田沢疏水導水路(新興東部)

「来年水がくるとのことで、開拓者総動員で支線や小用水路掘りをしました。いよいよ水がくる。半信半疑だけれど、ともかく二枚の田をつくり苗の準備をしました。ついに来た来た、永年待ちに待った水が来たのです。

…入植して三十年目、一番下の娘が中学を卒業して4,5日して、当時人類大移動と言われた学校からの斡旋による集団就職にいくため大曲駅まで見送り、大館始発の就職列車は満員、蛍の光を歌って送ったが、実に哀れでなりませんでした。」(昭和15年入植 原岡久太郎)

「…やがて田沢疏水に通水されたが、私たちの方へは翌年の春頃水が届きました。…苗は長く水は漏水のため入れっぱなしなので、土は固く、秋になっても稲が青く稔らないところもありましたが、それでも自分で植えた米が食べられたことの楽しみは、今でも思い出すと目頭が熱くなります。」(昭和21年入植 湊谷沖子)

当時の稲作試験。現大仙市太田横沢村国見。

「田沢疏水工事が順調に進み、昭和26年には期待した通水が実現し、部落民を感動させた。人々は水田作りに無我夢中であった。…水を張り込み、半日ぐらいすると殆ど水がなくなるようなひどい状態が続いた。まさに漏水田である。一方低地に開いた水田は、湧水被害に悩まされた。それでも秋になると、黄金色に稔った稲が部落民を喜ばせてくれた。秋に入植以来初めてとれた米に、みんなの顔は福の神。「美味い」とか「粘り気がある」とか、評価は人によって異なった。」(昭和24年入植 新田幸雄)

現大仙市太田町、大豊作

「荒涼とした原っぱに、30〜40cmを超える生々しい松や杉の切り株、かきわけるに困難なとんづらやツツジ藪、それに露出した砂礫、この土地を一鍬一鍬開墾しなければならないと思うと、言い知れぬ不安で一杯でした。

…真夏の炎天下アカシヤの木陰に、その子をエヅメに入れ、泣きわめく声を聞きながら開墾の下払いをした時などは、子供が成長しても決して開拓農家には嫁がせまいと強く感じた。

…光陰矢の如し、繰り返される四季の移ろいの中に、あの荒涼とした原野に現在のような黄金波うつ美田ができようとは、なに人が予想できたことでしょう。」(昭和26年入植 芦野ツタ)

通水の年の初収穫(千本野)

「通水が始まり、自分たちが苦労して造った水田で初めて米を収穫し、飯米を自給することができた時の喜びは、何にも例えようのないことでした。ああ、これで私たち8人家族が生きられる、と一層感謝の気持ちで一杯でした。」(昭和22年入植 鎌田鉄治)

「水がくるぞ」という話が伝わって嬉しかった。今度は稲が作れる。自分たちが作ったお米が食べられると、みんな大喜びで、田植えや草取りや刈り取りなど、田に入ったことのない母や私や妻や弟妹たちは一生懸命でした。自分の家でとれたお米はおいしかった。皆で汗したお米だもの・・・」(昭和21年入植 高橋久一)

「昭和27年に初めて田沢疏水の水がきました。20俵ほどのお米がとれた時の喜びは、言葉には言い尽くされません。」(昭和22年入植 木元ユキ子)


満願の笑み、供米風景(千本野)

米俵による供米(千本野)

「私の人生の歩みの中で田沢疏水開拓に生きた第三の人生が、一番長く、そして苦しい人生でした。」(昭和21年入植 高橋恭之助)

田沢疏水の完成によって、仙南村、六郷町(ともに現美郷町)の明天地野、千畑町(現美郷町)の若林野、太田町(現大仙市)の田屋野、千本野、駒場野、小曽野、中仙町の柏木野、木内林、田沢湖町(現仙北市)の真崎野の4町3村の原野約3,000haが姿を消し、一望の田園地帯が出現した。

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