田沢疏水は語る 国営田沢疏水 第二田沢開拓 仙北平野 甦る田沢疏水
玉川毒水 田沢疏水と開拓T 田沢疏水と開拓U

(昭和15年〜44年)

仙北平野に入植した開拓者は、9地区323戸に及ぶ。
田沢疏水開拓に挑んだ人々が、鍬を握る手をペンに持ち変えて自ら綴った「疏水のながれ」(1985、現大仙市太田町公民館)には、現在の美田からは想像もつかない苦闘の歴史が隠されていた。・・・

「昭和34年ころ、ブルドーザーによって、やっと水田になりましたが、その間の苦労は私どもにとっては、知識もなくただ馬車馬のように働き、今その話をさせられると涙声になります。」(昭和31年入植 高橋イト子)

「フクロウがホウホウ鳴き、たまにはキツネ火が見えたりします。隣の方を見てもポッと仄かな灯が見えるだけで、怖くて震えていました。「考えが甘かった。こんな所へ来るんじゃなかった」と何度も後悔した。

…やがて大豆もアカシヤの林の後なので素晴らしい実をつけ収穫がたくさんありました。その時の嬉しかったこと。何度も手の平に上げて、撫でて喜び合いました。

…文章も字も下手ですが、今、自分たちの歩いてきた事を思い出し、何度も涙をぬぐいながら書きました。もっともっと書きたいことはたくさんあります。この辛い思いは、二度と子孫にはさせたくない思いでいっぱいです。」(昭和21年入植 野中キクエ)

未踏のジャングル

「入植してみると、やはりそこは想像以上の場所で昼なお暗く一面雑木林に覆われた未踏のジャングル地帯であった。白岩旧街道が真中を走り、その密林を左右に分けており、時折野ウサギが飛び出して来たり、キツネやムジナの生息地でもあった。

…ほっかぶりをし、網のついた帽子をかぶり、ナタとノコギリの小さいものを持って小さい松の根っこ切りと枝払いをする。たまに蜂に刺されて悲鳴をあげたこともある。これを一ヶ所二ヶ所に集めて焼き払う。後に根っこばかりの地面が現れる。それを一鍬一スコップずつ掘り起こし、今日は10坪、明日は15坪と毎日力を合わせて開墾に励んでいた。電気はなくランプの生活、これがこの世の生活であろうかと思われるほどの苦しい辛い日々であった」(昭和21年入植 竹 文静)
写真は、開墾で掘り出された石の山、昭和30年。開墾は、「石との戦い」でもあった。

「…開墾鍬を思い切り振り上げ、力任せに打ち下ろすと、この重い鍬が玉石に当たり火花を散らしてはね返り、今度は少しずらしてもう一度、またもはね返され今三度、またまた火花とともにはね返され、腹が立つより悔しく、最後は情けなかった。…くじける心を励まし励まし振りあげるが、やめようと思ったことは二度や三度ではなかった。
…昭和25年12月31日の大晦日の夜、あばら屋であるが神棚の前に大豆と交換した白米3俵を積んで家族4人で喜び祝った。子どもを一人ずつ抱いて、私も妻もいつまでも言葉が出なかった。出せなかった。ただただ嬉しかった。

…その後31年からのブルドーザーによる開田整理まで、私と石との戦いは続きます。私の開拓史は、石との戦いで終始しました。あの石カラが田んぼに変わったのです。石の上にも三年の諺以上に、十年もかかりました。私はとうとう石に勝った。」(昭和22年入植 泉 芳郎)
開拓地の抜根の山(新興にて)、昭和30年

あれは移住民の人だ、松の根っこの香りがする」(昭和26年入植 芦野ツタ)

「思えばこの土地に入植して43年余り、当時の私は夢多き青年であったような気がする。「気がする」というのは、あまりの苦労の連続で夢などすっかり忘れてしまったからだ。

…食べる米などあろうはずがない。夜は電気などむろんなく、松ヤニをたいて灯りにして夜なべ仕事をしたものだが、電気という文明の恩恵を受けた時は、松ヤニの灯りになれた目はつぶれるのではないか、と思ったほど明るかったのを思い出す。

…家の中の暖をとるため、囲炉裏に開墾時に掘り起こした松の根をたいて仕事をしたが、何しろ松の根っこであるからススが出る。真っ黒になりながらの生活であった。そのススのついたワラ靴をはいて、真っ白い雪の上に点々と黒い足跡を付けながら用事をはたしに歩いていると、山奥から下りて来たクマのように見えたであろう、そのために移住民と言われたこともあった。

それもこれも田沢疏水という水路が通ったことで、水田という夢にまで見た稲を植えることができたおかげで帳消しに出来たような気がする。」(昭和15年入植 中村春雄)


現大仙市太田町田沢疏水開拓の中心地新興地区の入植記念碑(昭和61年建立)

田沢疏水地区入植平面図
「幾千年の昔から稲を作り続けた日本農民の宿命として水を求めてやまない農民。地域社会の発展と営農の向上に努めた人々、また国営事業として盛り上げた先輩の努力はいかばかりか、誰か今日の美田3,000haの姿を想像し得たことか・・・」(鈴木孝治)

神代都野開拓 昭和28年

「・・・三坪ばかりの掘立て小屋を建て、兄と二人で背負った二背の萱を屋根に並べ、周囲にも並べ立てた。…「いかに貧しくとも、生活の見通しが暗くとも、これがおれの城だ。誰にも気兼ねなく自由だ。もし、生きられない時は死ねばよい、お前だって親父に抱かれて死ぬのなら幸福であろう。いや幸せと思ってくれ」と幼い子を抱きしめた。
…苦しい生活の中からも
幸福を見い出せる人は幸福である。」(昭和15年入植 高橋義志)

「入植当時、東京都の疎開者と言われた県外からの入植者の苦労は、地元出身者の者とは比較にならないが、食糧増産の国策のもとで「自家飯米の自給」を目途に、特に婦人たちは子どもを根株にしばり開墾する、文字どおりの困難辛苦の連続であった」(昭和22年入植  安達 好)


手作業による人力開田工事(新興で)

「五尺一寸四分の上半身を裸にして、腰にタオルを巻き、口に手拭いを濡らして噛み、思い切り大きく振り回す唐鍬などは、二日に一回は研いだ。日毎に疲れてきては、倒れることもありました。それでなくても小さい身体、それでなくても黒い肌、近くを通る人への挨拶に、声を出さずに、笑顔で振り向き白い歯だけを見せる。目は大きくて、気持ちが悪いと言われるようになりました。秋になっても着物は着られず、夕食後に来て掘り起こすのにも裸でやりました。」(昭和21年入植 石崎三郎)

「とにかく人間、食う物がないという事は、死ぬということです。妻が四人の子供に食わすための苦労は、口では言えない惨めなものでした。
…石を除き木の根を掘りて開墾の土を被りて妻と夕暮るる
入植の初期を暮らせし思い出を綴りて妻の苦労身に沁みる」(昭和15年入植 佐々木喜市郎)

昭和33年 台風の被害

「子供たちに菓子をあげることもできないし、遊ばせてやるオモチャもないし、毎日食べる米のことだけを心配するのが精一杯でした。…苦労して苦労して建てた台所の二階、あの頃は寝室にしていた部屋でした。その部屋の屋根を台風のせいで飛ばされてしまいました。建てかけていた作業小屋も、その時の台風でやられてしまいました。すぐに直す金もなく、秋が終わる頃まで屋根のないままの台所で使っていました。雨の日は、傘をさしての食事のしたく、なんとも惨めな、そして情けない毎日でした。」(昭和21年入植 永山ミツエ)

「冬は寒風や吹雪が激しく、家はあばら家なので吹雪の朝はフトンの上が雪だらけでした。それでも子どもたちは、風邪もひかないでがんばりました。寒中になると、ツルベの井戸水は切れ、男たちが中に入って掘ってもすぐには飲まれず、やむなくソリで役場通りまで水汲みにいきましたが、水はこぼれ家に帰ると半分くらいになり、その水を鍋に入れ、それに雪を入れ水を作って米とぎや洗濯をした。・・・」(昭和21年入植 湊谷沖子)
ブルドーザーによる開墾(第2田沢開拓建設事業)

相次いで結成された各町村の土地改良区が争ってブルドーザーによる開墾に突入したのは、昭和31年頃からである。ブルがあの巨体を数十台も乗り入れ、爆音もすさまじく、林、木の根、砂利、礫塊、湿地をものともせず、未明から暮夜にわたり、バリバリ拓くものすごさ。・・・ならされて次から次へと田んぼが出来あがってゆく。まさに驚異そのものであった。」(鈴木孝治)

「…33年からブルドーザーによる耕地整理が始まり、わが家の小さな田んぼも一反歩の田にできあがり、供出米も少しずつですが増えてきました。このブルがもっと早く来てくれたらなあーと・・・。父母をもう少しでも長生きさせることが出来たのではと思うと残念でなりません。」(昭和21年入植 高橋久一)

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