田沢疏水は語る 国営田沢疏水 第二田沢開拓 仙北平野 甦る田沢疏水
玉川毒水 田沢疏水と開拓T 田沢疏水と開拓U



昭和44年〜60年

田沢疏水の開田が進むにつれて、扇状地の地下水位が上昇し、上堰、下堰掛りの各所に地下水が噴出、農地や宅地に被害を与え、開田が進むにつれてその被害は次第に大きくなった。

一方、玉川を水源とした昔からの堰は、7ヶ所。いずれも、洪水の度に流され、カネのかかることで知られていた。さらに大曲市(現大仙市)の中心部と藤木、飯田地区では、雄物川からポンプ取水していたが、莫大な電気料金を要した。堰やポンプ取水を維持するための莫大な費用と労力、慢性的な水不足、排水不良・・・

これらを一挙に解決するために、昭和44年、国営仙北平野農業水利事業がスタートした。用水の受益面積8,760ha、排水改良を加えると1万haを超える大事業である。

千畑村(現美郷町)検地絵図(湧水掛、1767年)
仙北平野を潤す水路は一朝一夕にして造られたものではなく、藩政以前からつい最近まで脈々と続けられてきた長い歴史を持っている。

天正18年(1590)の検地目録帳の記録によれば、当時から相当の開田が進められていたことがわかる。慶長7年(1602)頃までは、沢水の近くや湧水池の近くで開田が行われ、藩政時代になると、玉川の水を10数kmも引水して新田開発が行われた。

水を確保すれば開田が進んだが、また水不足という繰り返し。だから水事情は常にギリギリだった。

中仙町(現大仙市)水神社の鳥居


県内唯一の国宝「線刻千手観音等鏡像
(中仙町(現大仙市)水神社所蔵)

1673年頃、玉川の水を引くため下堰を開削中、古い鏡(右上の写真)が出土した。この古鏡は、御神体として中仙町鎮守の神として、今も水神社に奉られている。


上堰水路


昔のなごりをとどめた下堰頭首工

古くから中仙町と太田町(現大仙市)を潤してきた用水の動脈として上堰(1677年着工〜1679年完成)と下堰(1677年着工〜1715年完成)があった。いずれも玉川左岸から取水、延長10km以上の長大な用水路である。
菅江真澄が描いた長楽寺村(現大仙市)「ラッパ清水」
仙北平野は、扇状地帯特有の湧水が多く、古くから農業用水、生活用水として利用されてきた。
「・・・しかし、年を追って水量が減っていく不安定な水源にいつまでもしがみつくわけにはいかなかった」(高橋敏雄・仙北平野土地改良区事務局長:取材当時)

下堰水路の木造水路橋(小滝川横断地点)、下堰は、東西に流れる河川を横断していたため、水路橋や底樋、平面交叉などで多くの木材が使用され、その維持管理は大変だった。
完成した玉川頭首工
左:仙北平野幹線用水路 右:排水路

「昭和59年5月10日「水路をスイセンの花が彩るころ、国営仙北平野農業水利事業の動脈である一号幹線用水路の通水式が行われた。国営事業としては、田沢疏水、第2田沢に続く仙北平野の゛生命線゛。

国、県、地元土地改良区の人たちの脳裏には、この50年、半世紀にわたる水への挑戦の経緯がよみがえったはずである。水不足をカバーするための血のにじむような営為の集積が一つの結果に到達した日だった。」(昭和59年6月15日、秋田魁新報「水を語る」仙北平野3)


仙南から六郷に広がる美田


大堰開削と白子姫

今から300年前の昔、玉川の水を引くため2本の大堰用水路が通された。その大堰開発の成功を祈って人柱となった肌の白い美しい乙女(白子姫)の供養柱を奉っている。

昭和56年4月27日、かつての大堰が、玉川頭首工に生まれ変わった日、地域関係者が一同に会して、入魂祭を開催した。長い歴史の中に埋もれていた白子姫を祭る祠は、水に苦闘してきた農民たちの、「完成した施設を末永く加護してもらいたい」との熱い願いが込められている。

田沢疏水は語る 国営田沢疏水 第二田沢開拓 仙北平野 甦る田沢疏水
玉川毒水 田沢疏水と開拓T 田沢疏水と開拓U