天正年間もなかばを過ぎた天正18年(1590年)8月、秀吉は、小田原の北条氏を攻略し会津に入ってすぐ、奥州一円の検地を命じた。これは、モノサシやマスを統一し、全国の田畑の広さや土地の良し悪しを調べ、予想される生産量を全て体積である石高であらわした。また、耕地ごとに耕作者を定めて、それらを検地帳に記入した。これを太閤検地という。

 秀吉が検地奉行にあてた手紙には、次のようにしるされている。「百姓が検地の命令をきかないのなら一郷(村)でも二郷でもなで切りにしてもよい。そのために、耕作者がいなくなって土地が荒れ果ててもかまわない。山の奥まで、また、海は舟で行ける所まで、念入りに検地せよ」ということで、奥地であった秋田にも太閤検地はやってきた。

 秀吉の命を受け秋田県の検地を行った、上杉や大谷のやり方は、訴え出た百姓を見せしめのため斬り捨てるなど、非常に強硬だった。そのため、天正18年9月には、現在の仙北郡の関係者2万5千人が蜂起し放火して回ったが、上杉軍に鎮圧されている。

 秋田藩の総高は168,000石あまりで、そのうち、現在の仙北郡と平鹿郡、雄勝郡でその半分以上を占めていたとされる。これらの地域は、いずれもかんがい用の水を確保することが、比較的容易な地形となっている。つまり、この辺り一体は、水田開発が盛んで生産力が高かったことがうかがえるのである。

 新田の開拓やかんがい工事を行ったのは、ほかならぬ大名たちであった。県内の穀倉地帯である、現在の河辺郡と仙北郡とを治めた戸沢氏の領地と、県北部にある、現在の大館市周辺の耕地における土地の生産性を比較すると、1反当たりの収量は、戸沢氏の方が約2倍となっていた。