20代の長きにわたり常陸の国を統治した、水戸城主佐竹氏は21代義宣が32歳のとき、すなわち慶長7年(1602)、突然家康により国替えの処分を通知された。秋田藩初代藩主・佐竹義宣肖像

 出羽の国のうち、当時の秋田と仙北への移封を命じられたのである。
 久保田の初代藩主となった佐竹氏21代義宣が慶長7年の秋9月に入城し、秋田六郡の「知行権」が与えられた。

 しかし、このときは領地を漠然と示されただけで、石高は示されなかった。このため、佐竹氏としては知行高を拝領することが必要であり、その前段として新領秋田の石高を一刻も早く把握する必要に駆られていた。こうして、その後検地が厳しく実施されたのである。


 基本的には、慶長8年頃(1602)から慶安2年頃(1649)まで、3回にわたり領内の一斉検地が行われた。これとは別に、新たに田が開かれたりすれば、そのつど部分的に検地が行われた。

 検地では、土地の面積と生産力、生産者である百姓を調べ、村の境界を確定してその石高を定めた。土地は田と畑、屋敷に分け、田畑についてはおのおの4等級に分類し、各農地の1反歩当たりの生産高と所在地、面積(縦と横の長さ)、百姓名などが「検地帳」に明示された。


 検地の進展に伴い、藩経営が軌道に乗っていくことになるが、そのことは逆から見れば、農民生活の窮乏を意味していた。というのは、検地が正確に行われれば行われるほど、徴税や賦役の割り当てが厳しくなっていったからである。

 2回目の検地、「中竿」では、元和2年(1616)頃から、女子供や牛馬を売る者が続出したという記録が残っている。


 検地と新田開発を奨励した結果、佐竹氏移封から60年後の寛文4年(1664)には、石高(表高)が20万石と決定された。

 この当時の農民の標準規模は5から20石であり、2石以下の零細農家はきわめて少なかった。5石以下の農民の過半は、屋敷を持たない新田を耕す者だった。

 耕地の構成としては、田が圧倒的に多く、享保6年(1721)では、田が71%、畑が29%となっている。
 特に、現在の平鹿郡に相当する所では、田が89%を占めていた。この田畑構成は、現在の秋田県農業の傾向と酷似している。

 佐竹氏が久保田藩に入る前からこの傾向は明らかで、圧倒的な米作り農業であったものと推測される。


農民のきまり--「慶安のおふれ書き」(1649年)

 江戸時代の農民は、年貢米を納めるだけでなく、山や川からとれる特産物にも税がかかり、藩の土木工事や新田開発の労働力、宿場への応援などかなりの負担をかせられていた。
 さらに「慶安のおふれ書」では、
 朝から晩まで、どんな仕事でも気を抜かないですること。
 麻と木綿のほかに着てはいけない。
 女は機織りに励みなさい。
 麦・あわ・ひえなどを食べ、米を多く食べないようにしなさい
 酒や茶を買って飲んではいけない。

 これではまるで牛馬のごとく扱いである。この時代もまた、農民にとっては風雪に耐え、凶作、飢餓と貧困にあえぐ歴史だった。農民への抑圧の歴史は「百姓も人間だ」と主張する秋田県大館市出身の安藤昌益という特異な思想家・社会活動家を生んだのである。