藩政の初期には、山林と鉱山が財政を潤したが、乱伐と乱掘の結果それらの資源が減少し、寛文末期(1670年代)から財政難が表面化し、その後悪化していった。

 他藩では通常収入増加策の本命となる新田開発も、藩が直接関わることは少なかったため、石高の増加は停滞的であった。

 また、貞享期から元禄期、宝永期までの27年間(1684から1710)のうち、15年間が凶作だったことや、たび重なる火災が発生したことにより財政赤字の状態が続いた。
 この結果、18世紀に入ってから農民の生活は窮乏し、荒廃した田が増加した。中には、村の戸数が半分以下になったり、8割近くの農家が藩から貸米や球米を必要とするにいたった。


 寛政6年(1794)には、藩の石高(当高)が31万石台へとピークから約3万石減っている。石高が減少した村は、平地の単作地帯に立地していたものと予測され、耕作を放棄した田が享保期(1710年代)以降表面化した。

 原因としては、土地生産力が停滞し米穀流通が滞ったことやいろいろな負担が過重になったことが挙げられ、中農に多かったと推察される。

 土地生産力の問題は、無計画な新田開発による採草地の減少と、水利用の方法を整備しないまま新田開発を進めたことが原因と言われている。
 水の利用については、水源がないというよりも、水を農地まで引っ張ってくる水路が不十分だったことが挙げられるが、根本的には手入れが不足していた。

 つまり、水路の土手を破り水の取り入れ口を広げて勝手に水を使ったり、水路を定期的に整備する「堰普請」に対し助成が行われなくなったりした。

また、藩内で廃田が生じた理由として米価の下落があるが、これは、藩の経済政策は別として、米の単作地帯という生産構造から起こったものである。これにより、農業労働力が減少し、一部の地主は経営を縮小し没落していった。

久保田(現秋田市)のにぎわい。街の小店や立売りの様子、町と町との境に設置された町門などが注目される。通町・大町は、ともに他国の旅人も通行する街道筋であったため、藩は旅人から城が見えないように2階建ての家造りを強制した。「秋田風俗絵巻」秋田県立博物館蔵。 在町の市の様子を示すジオラマ。売られているのは瓜、豆、木綿などが中心だが、身欠ニシン・塩引き・古着・瀬戸物など、遠くから運ばれてきたものもある。秋田県立博物館蔵。