秋田藩政後期の元文元年(1736)から慶応3年(1867)までの132年間、天明期(1788)までは新田開発が停滞した。
 藩は、再検地を実施し村高を適正規模に見直したり、耕作が放棄されて荒廃した田の手入れを奨励したりしたが、藩財政は抜本的に改善しなかった。


 藩主義和は、財政難を打開するため大幅かつ大胆な改革を行った。その内容は、次のとおりである。
 藩内の人口増加に対応する石高(知行高)を確保する
 免税を行う。
 
名字を名乗ってもいいことにする。
 刀を持つことを許す。

 1つの村で、3石程度の新田開発については検地を省略する。
 享保12年(1727)以来停止されていた新田開発のやり方(「注進開」)を再開し、家臣や農民のみならず町人にまで許可範囲を広げる。
 村の有力者から農業経営の計画を出させて模範としたり、現在の山形県庄内地方から指導者を呼んで営農の指導を行う、など

 この結果、寛政元年(1789)以降、再び新田開発が軌道に乗ることとなった。

 しかし、18世紀後半になると、幕藩体制にほころびが目立ち始め、藩内でも百姓一揆や打ちこわしなど、不穏な動きが多発した。一方、藩財政は、武士の給料から借り上げることにより何とかしのいできたが、それだけでは間に合わず、大阪方面からの借金も年々増加してきた。そして、ついに藩政末期には万策尽きた状態にまで追い込まれてしまった。

 こうして、慶応3年(1867)11月、幕府の大政奉還により、266年間にわたった佐竹藩の幕が閉じられた。

秋田街道絵巻(萩津勝孝作、秋田市美術館蔵)
 全巻のうち土崎の部分は、コメ、木材などの集積地として港町の繁栄ぶりを描いて圧巻である。出入りする大小の船、立ち並ぶ蔵・商家・寺社に加え、船頭、人夫、船大工、商人、武士、旅人、婦人、農民など、一人一人の姿を生き生きと描き出している。
能代は、土崎港に次ぐ重要な港町で、米代川河口につくられた港とともに発展した。米代川を下る秋田杉の集散地であり、阿仁銅山をはじめ諸鉱出の金属を輸出する港であった。 八郎潟東南部湖岸の新関村・大久保村・虻川村の3村が見える。大久保村は、羽州街道の宿駅の村であった。湖岸には、街道を陸送しないで湖上を輸送する船渡しの荷船や漁船が見える。