岩城氏は、関ヶ原形勢傍観の罪で岩城21万石を没収され、1623年亀田藩2万石へ。東は河辺郡大正寺と仙北郡大沢郷、西は日本海、南はおおむね子吉川支流の芋川、そして北は雄物川に囲まれた区域に位置した。

秋田市の南隣に位置する岩城町は、旧亀田藩二万石の城下町として栄えた。左の空撮は、その中心地・亀田にある史跡伝承の里「天鷺村」。田園と史跡が見事に調和した景観だ。
7月第2土日に、藩政時代をしのび旧藩祭りがにぎやかに行われる。 北部日本海側に多い片中門造りの農家。江戸後期の建築様式を継承している。


 第2代藩主の重隆は、寛文4年(1664)に治世を始めたが、11代続いた岩城氏の中で名君と言われている。剛毅な人で、新田開発や植林に励んだが、新田の開発にはとくに力を入れ、藩に納める米を6,000石増やし藩の財政基盤を確立した。

  年  号

 岩城氏の動静

 総  高(石)

 納  米(石)

左の増加率(%)

元和9年(1623)

亀田藩始まる

 19,689

 

 

寛永2年(1625)

第1回の検地

 19,689

 11,111

  100

寛文4年(1664)

2代重隆が即位

 24,169

 15,951

  123

享保3年(1718)

4代隆韶が即位

 20,053

 17,194

  132

延享2年(1745)

 

 26,053

 19,344

  174


・ 岩城から本荘市子吉川右岸は、地形が険しく、耕地も狭小で2万石には達していなかった。
・ 新田開発は、特に大内町の山間部と本荘市北部の原野に注目、ため池の築造や堰の開削によって大規模な新田開発を展開した。
・ 当時、生産、土木技術からして可能な限界まで新田開発が行われ、今日の村と土地利用の原型を作った。

(堰・ため池の築造と新田開発)
・ 御手先堤…1600年代、農業用水と屋敷内の景観保全のために築造。
・ 代内堰…藩の補助で代内川から8kmを通水し、田10余町歩の開墾に成功、新田村が誕生した。
・ 高花堤、松山堤…1655年、2つの堤を築造し、岩谷町村、岩谷麓村を開墾
・ 大野堰…1730年、衣川に堰を設け、大野堰を開削、岩城町赤平の新田開発を行う。
・ 菅谷地堤…1755年築造、大倉沢村、徳沢村を開墾
・ 蟹沢堤…1865年築造
・ 葛岡の堤と上野新田開発用水…1804年築造、60石の増
・ 六ケ村堤…1700年代、200haのかんがいため池として築造された。本荘市平岡、漆畑、中の目、女岡、畑谷、山田の6つの部落であったことから六ケ村堤と名付けられた。
・ 大覚堤…1700年代築造、川口、王谷村の開墾

 以後、新田開発は停滞する一方、貨幣経済が浸透し藩財政は負債をふくらませていくことになった。天明5年(1785)には、2,000石の上積みを藩から命じられていた農民たちが一揆を起こしたが、首謀者らは首を斬られさらし首にされた。この時期すでに亀田藩は、多額の負債を抱え農民への重税を繰り返していた。

 藩政末期の天保10年(1839)、農民以外が所有している田で小作を行うことを禁止し農民へ返還させるという画期的な政策を打ち出したり、藩内での内需を拡大させる規制を発したりと懸命に努力したが、ついに藩財政は好転しなかった。


 亀田藩では、学館を手始めに藩校を設け学問を奨励したため、学問尊重の気風が城下にゆきわたった。これが、その後明治になってから久野健次郎など多くの人材を生み出すことにつながった。