象潟は多くの入江に島を浮かべ、秀麗な鳥海山を水面に映す絶景の地であった。松島と並び俳人松尾芭蕉がめざした景勝の地であった。
 「江の縦横一里ばかり、おもむき松島にかよひて又異なり。
 松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし。
 寂しさに悲しみをくはえて地勢魂をなやますに似たり

 象潟や雨に西施(せいし)がねむの花」と「奥の細道」に記している。

象潟・九十九島の空撮 蚶満寺


 文化元年(1804)、鳥海山麓を震源地とする直下型地震により突如隆起する。いわゆる象潟地震である。これによって芭蕉が称えた景観は一変、約1.8m〜2.7mも隆起し、水面に浮かんでいた小島は、陸地と化してしまった。この後に、新田開発が始まるのだが、その顛末は「秋田県散歩」(司馬遼太郎著、朝日新聞社)に次のように記されている。
 
 江戸期、象潟も蚶満寺も秋田藩の領地ではなくて、六郷家という小さな大名(2万石)の領地だった。・・・江戸中期以降、貨幣経済がさかんになって、2,3万石の小大名は立ち行かなくなった。
 元来、大名というのは石高という米穀経済で食ってきた。ところがゼニ経済の大波に間断なく浸食されて、六郷家などは江戸への参勤交代の費用さえ事欠くようになった。
 参勤交代の行列では、しもじもに「下に、したァに」と声をかけてゆくが、お城下の大商人には「たのむ、たのむ」との経済で、金を借りに借り、大地震のあとの文化3年(1806)には、城下の小商人に至るまで52人から総額1772両借りたという。
 城下だけでなく、庄内(山形県)の大富豪本間家にたのみ、年貢さきわたしで金を借りた。いわば銀行管理になったのだが、その債務もこげつき、天保14年(1843)には本間家から手を切られてしまった。あとは農民をできるだけ搾ることと、城下商人からこまごまと借金してゆくしかなかった。・・・

 六郷藩も、江戸の中期ごろはまだゆとりがあった。そのせいか象潟の名勝を大切にし、島守などを置いていたらしい。九十九島は九十九森とも呼ばれ、島ごと松森だった。
 が、貧すれば鈍するというか、文化元年の象潟地震によって象潟一帯が隆起して泥と沼の地帯になると、六郷藩はこれを奇貨とし、水田にして、たとえ焼石に水であっても藩収入の足しにしようとした。
 これを新田にするには、島々の松を伐り、その土を低湿地に入れねばならない。つまり、九十九森をつぶしてしまう。
 六郷藩による森つぶしの「新田開発」は、地震の翌々年の文化3年からはじまった。
 ひとり反対したのは、蚶満寺第二十四世の覚林だった。が、藩は耳をかさなかった。・・・

 覚林は、策を講じた。・・・
 覚林は、京へのぼり、閑院宮家に嘆願して、蚶満寺をもって宮家の祈祷所に指定してもらったのである。
 文化9年のことだった。
 これによって宮家から「白銀参拾枚」が寄付された。その旨の宮家文書を、私は方丈で見せてもらった。文化12年となっている。
 覚林に法的な罪はない。しかし六郷藩はこれを憎み、じつにいやな-やくざのような-復讐をした。
 江戸に出ていた覚林を路傍で待ち伏せし、とらえ、俗名勘助ということにしてひそかに入牢させ、獄死させてしまった。かれらは武士というより無頼漢といったほうがいい。・・・

 覚林は死に、新田4、50町歩が開発された。しかし、島々をつぶすことはややひかえられた。
 いまも、田園のなかに60ほどの旧の島が残っているが、あるいは覚林の主張と死に、六郷藩がおびえた結果であるかもしれない。
 
 現在の美田・九十九島の風景。60あまりの島々が田園地帯に浮かぶ特異な景観には、近世農民の歴史が刻まれている。
 覚林が守ろうとした景観は、今なお保全され、名勝の地として人々の心を惹きつけている。