天明3年(1783)は、秋田藩はもとより、東北諸藩を大飢饉が襲った。農書を書き残した秋田郡七日市村の肝いり・長崎七左衛門は、この惨上状を次のように記している。

 「幼児は捨てられ、父母を探し迷う姿は、まるで地獄である。路上での追いはぎ・強盗の様は修羅道と言える。かわいそうにと幼児の手に食物を握らせると、その親が奪い取って自分で食べてしまう。全く親子兄弟の情もなく、畜生道という有り様だ。

 秋田県立博物館にある「不納別帳によれば、天明4年(1784)の下仙道村(現、羽後町)では、前年の凶作のため、年貢を納めることができない農家が21戸もあり、その数は全村の4分の1を占めた。

 天保年間(1830-44)に入っても、3年、4年、5年、6年、7年と5年連続の凶作。中でも天保4年が大凶作で、巳年であったことから、秋田では「巳年のけかち」と称されている。

 この年の天候は特に異常であった。
 田植え後に冷気が続き、いつもなら草取り作業は暑さのためつらい作業となるのだが、何と寒さのため綿入れを着て作業を行い、作業の合間には、ワラを燃やして暖をとらないと手がかじかんで作業ができなかったという。
 南部でも冷気が強く、稲の開花期には暴風が続き、例年より積雪期も早く訪れるなど、異常気象であった。当時の農民は、その約半数が5月以降になると自家飯米もなくなり、この秋の収穫も良くて半作、被害の大きいものは皆無であった。

 右の絵は、天保飢饉の様子を記した「天保凶飢見聞記」であるが、「倒れた馬にかぶりついて生肉を食い、行き倒れとなった死体や狼や鳥が食いちぎる。」この記録は、現在の北秋田郡鷹巣町地方の見聞であり、天候、豊凶、物価、世相などを記している。

 翌5年になると、飢えた農民は食料を求めて浮浪し、城下町などへ集まった。久保田では、4ヶ所に救い小屋を建てて救助に当たった。春から6月にかけて、飢えて衰えた身体に疫病が襲い、多くの死者が出た。「秋田飢饉誌」は、城下の様子を次のように記している。

 「通町橋から6丁目橋の下まで、橋の下は集まった浮浪者で一杯となった。死人をムシロに包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどり着いた親など様々であった。通町橋など午前10時ころになると、200人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であった」

 天保4年、秋田藩の人口はおよそ40万人、うち死者が10万人出たとの説もある。天明、天保の大飢饉によって百姓一揆は急増していった。