天保期の秋田地方は、天保の大飢饉の翌年・5年に、百姓一揆や村方騒動が集中して発生した。

 天保4年10月、仙北郡角館町では「傘型連判状」が作成され、全村民が盟約に加わって印判を押している。この連判状は、首謀者が誰であるかを隠すために、円形状に著名、捺印したものであり、秋田藩内では珍しい。

 主な要求や申し合わせは次のようなものである。
 借金の期限を5年延長し、返済は50年賦とする。質地の流出年季を3年延長する。

 貸主から催促にきた者を見つけたら、村中で皆が集まって追い返す。
 質入れの田地が取り上げられたら、その土地を村内の誰も耕作をしないこと。
 違反した者には、村の採草地の利用も郷山の薪を採る権利も与えない。
 借金の返済期間の約束を破った者には村内の借金全額を返済させる。
 など罰則を決めて村内の団結を申し合わせていた。

 天保5年1月26日、角館町以南の40数カ村から、5000人とも言われる農民が終結した。前北浦一揆である。農民たちは次のような要求をしたと伝えられている。
 1.飯米に困る農民から無理やり借上米を取ることをやめること。
 2.生活の苦しい農民に安い米を配給すること。
 3.生活資金を貸すこと。
 4.親郷肝煎の不正をなくすこと。

 同2月18日、奥北浦の西長野村の農民を先頭にした民衆は、阿仁鉱山への廻米を押さえて村内に保有米を確保しようと、蔵宿九石衛門宅を取り囲んだ。
 ほら貝を吹きならし、時の声を上げて近村の肝煎宅を襲い、飯を要求して回り、卒田村では肝煎宅を打ち壊した。
 一揆勢は、雲然村に入り、親郷肝煎宅の九吉宅を襲い、家・蔵の戸障子・家財道具まで打ち壊す乱暴を働き、その数は3000人となっていた。

 一揆後、藩主自ら仙北地方を巡回し、人心を鎮めることを決め、3月には実施された。一揆の首謀者は捕らえられ、牢につながれ、郡方の役人は処分された。大阪からの買米が港に着いた春以降は大きな騒動もなく、落ち着きを取り戻した。
 しかし、藩の中枢部は、農民の要求を権力で押さえつけられない新しい時代のうねりを感じ取らねばならなかった。