関連ホームページ 菅江真澄研究会


 秋田の生まれではないが、半生を秋田で過ごし、秋田で生涯を終えた菅江真澄(1754-1829)は、秋田の文化を高めたひとりである。以下、「秋田県散歩」(司馬遼太郎著、朝日新聞社)の記述を抜粋する。

 真澄は、漂泊者であった。
 それも、永年東北を漂泊した。とくに秋田領内が気に入ったらしく、最後は領内角館郊外で病み、角館の知人宅に運ばれて息をひきとった。生前、自分のことは一切語らなかったから、正確な年齢はわからない。76,7だったらしい。

 菅江真澄を高く評価したのは、民俗学の創始者である柳田国男(1875-1962)だった。柳田は真澄を自分の学問の先覚であるようにして敬愛した。・・・

 柳田が、「菅江翁の淋しい一生」
 と書いていることに、私は、平素の柳田にはあらわれない感情を見た思いがした。・・・同行の亡き友を悼むような感情が流れていることに驚かされる。

 真澄は、三河では相当な家に生まれたらしい。
 その教養も、多様だった。国学の造詣がふかい上に、医学や本草学においても、たしかな知識をもっていた。
 画技のほうはしかるべき師についたらしい骨格があって、描写力にも富んでいた。かれは文章を書き、かつ風俗や景色を写生し、それを挿絵とした。
 内田武志氏によると、晩年、秋田の村里では絵師とよばれていたらしい。
 旅のさきざきで、求められるままにふすま絵や掛軸を描き、表具までしたという。真澄が漂泊者ながらなんとか食べてゆけたのは、一つには画技のおかげだったろう。
 また、その文章によると、旅先で病人も見、投薬もしている。本草と医術も、かれの漂泊をたすけたかと思われる。

 29歳のとき、漂泊の旅に出た。
 はじめは木曽路や信濃へゆき、しばらく滞留した。31歳のとき越後から出羽に入ったのが、東北の風土について病みつきのはじまりである。
 各地を歩き、35歳のとき、宿願の一つだった松前(北海道)にもわたって、山野を歩き回った。44歳のとき、津軽藩の藩校稽古館の薬物掛といういわば卑役にありついた。
 仕事は、津軽領内の山という山を歩いて薬草を採集することだった。これを4,5年もやって、どういう理由か、やめて秋田領に入った。だれにたのまれたわけでもなく、領内の山々をくまなく歩いた。歩く・見る・記録する、ということだけが、かれの人生だった。その膨大な文章と挿絵は、かれの死後、秋田のひとたちが大切に保存した。

 幸いにも、こんにちでは本になっている。平凡社の「東洋文庫」というシリーズのなかにある「菅江真澄遊覧記」全5巻と「菅江真澄随筆集」1巻がそれである。

 真澄が好んで孤独に生き、20代から70代の死まで一貫して漂泊の中で送ったといえば、性格に欠陥でもありそうに思われるが、どうもそうではない。
 文章を見ても、真澄のものやわらかな人柄だけでなく体温まで伝わってきそうだし、晩年の肖像画も、いまにも大きく笑みがこぼれそうな表情をしている。

 文化8年(1811)のとし、藩主佐竹義和にはじめて拝謁したのも、奈良家での逗留時代である。拝謁したとき、義和から、出羽6郡の地誌をつくってほしいと頼まれた。

 柳田国男は「真澄遊覧記を読む」の中で、真澄の日記を通しての感想をのべている。真澄は30代、奥州を歩きながら、ときに旅芸人ともゆうべき座頭と一座して、他家に泊めてもらうこともあったことに、つよい感動をもったらしい。

 柳田は、日記から真澄の全生涯を思い、以下のように書いている。

 天明8年といえば江戸でも京都でも、種々の学問と高尚なる風流とが、競い進んでいた新文化の世であった。然るにそれとは没交渉に、遠く奥州北上川の片岸を、こんな寂しい旅人が一人で歩いて居たのである。
左の写真は、二ツ井町きみまち坂の一本松付近からの眺望。真澄はこの七座山と同じ構図の風景を描いたのがが右の図絵。よく観察描写されているのがわかる。「秋田県立博物館蔵<写本>」