「水土を拓いた人びと」(編集委員会、(社)農業土木学会編、農文協、5,200円)は、北海道から沖縄まで、わがふるさとの水と土に刻んだ先達を詳細に記した本である。

 「手を入れると、まだ少し冷たいと感じられる水の流れの中に、ゆらゆらとおたまじゃくしの卵たち。
 春の訪れでした。「春の小川は・・・」と歌われた「小川」は、田んぼの用水路でした。
 夏。照りつける太陽のもと、きらきら光る田んぼの水、風にそよぐ青々とした稲とその草いきれ。
 黄金色に輝く、あたり一面の田んぼの上を舞う赤トンボ。収穫の喜びと、豊作に感謝する、いつもより少しばかり華やいだ秋祭り。・・・

 日本人が持つ、ふるさとの原風景、原体験は、どのようにして獲得されてきたのでしょうか。われわれは、このことを、この「水と土を拓いた人々」で探ることを試みました。」(本書「まえがき」より)

 秋田の代表は、二宮尊徳と並ぶ「時代の子」と言われた渡部斧松である。
 
蹉跌の前半生 寒風山の「滝の頭湧水」 鳥居長根の開発と新村建設
八割五分の「辛労免」と「流し掘り」 藩全域にまたがる業績


 幕末の秋田藩において、農政に優れた足跡を残しながら、あまり知られていない人がいる。渡部斧松である。
 昭和の初め、その事績を調べ上げた研究者は、秋田藩における第一の開拓事業家・農業経営者、また、同時代の二宮尊徳と並ぶ「時代の子」と位置づけている。

新田開発に半生を賭けた渡部斧松(提供:渡部土地改良区)。水路の開削と新田開発で新しい村・渡部村を誕生させたほか、新田2,200町歩あまり、救った古田1,700町歩あまり。城下移住の命を拒否し、半生を開発と普請事業に捧げた偉人である。 寒風山北麓の「滝頭湧水」。
苔蒸した岩の間から、一日2万5千トンの湧水が湧き出す。「鳥居長根」と呼ばれる原野を開発するために、斧松は、この湧水に着目し、原野まで導水する計画をたてる。
湧水が湧き出る下流に湧水池がある。横150m、縦80m。周りを苔むした杉の古木が覆い、今でも、源流が湧き出す幽玄な雰囲気が漂っている。 その150m下流にある円形分水工。現在は、男鹿市五里合、若美町渡部の農業用水と男鹿市の上水道の3方向に分水されている。水は湧水だけに底まで透き通るような名水である。
当時の水路開削工事の模様を描いた想像図。山地と硬い岩石のため難工事の連続だった。雇った鉱山の鉱夫さえ恐れて逃亡したほどである。斧松は、その穴堰に自ら入って掘削したという。 太田新田村(現・鷹巣町)に導水するために掘った「太田堰」。取り入れ口を米代川支流の早口川に、隧道約1キロを含む1.8キロが築造された。
現在の「長根堰」。左後方が寒風山。一見、どこにでもある用水路だが、過去の歴史を探れば、難工事続いた苦難と開発に成功した歓喜の歴史が隠されている。われわれは、この苦難と歓喜の歴史に学び、未来を切り開くために、次の世代へ語り継ぐべき責務がある。 斧松は、今から150年前、何と八郎潟の干拓を計画していた。安政年間に八郎潟疎水計画をたてたが、財政や技術的な問題で実現には至らなかったが、戦後、斧松が抱いた夢は現実となり、新生大潟村が誕生したのである。
左は渡部斧松居宅跡(町文化財)。右は渡部村を拓いた斧松を祀る渡部神社(若美町)。斧松は、安政3年(1856)、64歳で没したが、村民はその業績を追慕し渡部神社を創建した。

 蹉跌の前半生

 数々の業績を裏打ちする知識や技術は、青年期に至る、どちらかといえば挫折の遍歴によって形成された、とみられる。
 斧松は、一七九三(寛政五)年、檜山(現・能代市檜山)に足軽の子として生まれた。父惣十郎は三人兄弟の末弟。次兄惣治が斧松の後半生を方向付ける。

 幼少時のことはよく判らない。
 藩校「明徳館」への入学を志すが、経済的理由で断念させられる。
 十七歳で夜叉袋村(現・八郎潟町)で、続いて毛馬内(現・鹿角市)で鍛冶師の修行をし、二十歳で檜山に鍛冶屋を起こす。
 打ち鎌の鍛冶師として、それなりの成功を収めるが満足しない。

 鉱山経営を思い立ち、田沢村(現・田沢湖町)の鉱山の下役になるが、それには莫大な資金が要ることを悟って諦める。後年発揮される土木技術は、ここで培われたとされる。

 秋田での行き詰まりを打開するため、婚礼九日の妻を残して江戸へ出奔。
 二十二歳。江戸町奉行根岸肥前守の仲間として住み込む。
 その才能が認められ、みるみる近習ivまで出世する。
 しかし、目指す旗本の出世につながる手柄の機会は巡ってこない。そうこうするうち、父の強い意向により檜山に連れ戻される。江戸における立身の夢は挫折した。二十六歳。

 寒風山の「滝の頭湧水」

 話は飛ぶ。
 寒風山は男鹿半島の顔である。
 三百五十五メートルの低山ながら、なだらかな稜線は美しく、頂上からの景観は壮大である。この地を観光された方なら、きっとその展望台にのぼり、東方に展開する雄大な八郎潟干拓地をご覧になったことだろう。

 が、観光客がまず注目することはない、山裾から干拓地にかけて広がる一帯(現・若美町渡部)の水田も、今から百七十年程前までは、「鳥居長根」と呼ばれる原野だった。
 幾度か開発は試みられたものの、用水確保の難題がその実現を妨げた。

 寒風山北麓の「滝の頭湧水」は古くから知られる。
 鮪川(男鹿市五里合)を通して日本海に注ぐこの湧水は、斧松の鳥居長根開発に深く関わる。

 最近になって、湧水のメカニズムにメスが入った。
 男鹿市では平成九年、その山腹の二十カ所に電気探査vを行った。
 その結果、集水面積は約九平方キロメートルで、山頂を挟んで反対斜面からも集水する。さらに、滝の頭の南西側に広がる基盤が盆地状にくぼみ、地中のダム湖の役割を果たす。
 地下水は一旦ここに集まり、溢れ出る形で滝の頭湧水となって現れる。
 湧水量は日当たり約二万五千トンとされる。

 その湧水池は、長径約百五十、短径約八十メートル。
 杉の古木が覆ってほの暗く、幽玄ですらある。
 現在、その百五十メートルほど下手の円形分水工から、男鹿市五里合、若美町渡部の農業用水および男鹿市上水道の三方向に分水されている。

 鳥居長根の開発と新村建設


 帰郷した斧松を触発したのは、叔父の惣治だった。
 船越(現・男鹿市)郡役所に勤め、見聞した知識から、鳥居長根の開発は滝の頭から引水すれば可能であろう、と斧松に話す。

 斧松はこれにはまる。

 四ツ小屋(現・秋田市)開拓を指揮する高橋武左衛門に付いて、その技術を学ぶ。そして、入念な現地調査の末、尾根越しに導水の可能性を確信する。
 一八二一(文政三)年、惣治名で藩へ開発願を出す。
 出願とともに、滝の頭が属する鮪川村(現・男鹿市五里合)と水利権分与の交渉を行い、一方で近隣集落との水路敷の用地交渉に当たる。
 最終的には、いずれも「換地」を提供することで同意を得る。翌年、開発は許可される。

 滝の頭から水路開削を開始したのは、一八二三(文政五)年。
 並行して、山麓の百川(現・男鹿市)から開墾の鍬を入れた。
 そして、百五十七間(二八五メートル)の尾根を貫く穴堰(隧道)を、半年程で開通させた。しかし、土質はほとんど砂質のため、何度も崩れ落ちた。

 この年、補修に係わって六名の犠牲者が出た。この殉難慰霊碑が、昭和五十年、斧松を祀る渡部神社の参道口に建てられた。
 いよいよ人夫たちは怖じ気づく。斧松はその士気を揚げるため、率先して坑内作業に当たった。
 こうした努力の末、一八二四(文政六)年、水源地から麓の樽沢村(現・男鹿市樽沢)まで、千八十六間(一九七四メートル)を開通させた。
 さらに工事を進め、約二里(八キロメートル)の堰を完了させ、長根谷地へ通水を果たしたのは一八二七(文政九)年のことだった。

 「若美町ふるさと資料館」に展示されている村井良八の絵図面(明治四十二年)に、この穴堰はない。その後崩壊を繰り返し、ついには開渠とされたのである。

 また、開墾の実効をあげるため、入植を前提として近郷から農民を募った。引越百姓といわれる。一八二六(文政八)年、藩は新村建設を許可し、斧松にちなんで「渡部村」と命名した。この時戸数は三十戸余りに達し、年を追って増加した。

 その村づくりは画期的である。村に市場、馬市などを開設するとともに、自ら筆を取ったされる「村法」を定めた。その趣旨は、共存共栄、相互扶助の精神を柱に、田地の小作および売買の制限、戸数の制限(百五十戸)、風紀、救荒備蓄、公休日(年間六十日余り)等に及び、二十二カ条からなる。一八五六(安政三)年建立の石碑が、渡部家前にたつ。

 八割五分の「辛労免」と「流し堀り」

 新村が許可された年、斧松は資金調達に窮し、開墾地の検地と「辛労免」高の下付を藩に願い出て、百分の八十五を保証された。
 この時期、藩に直営や補助の体力はない。
 藩では荒廃田の再興や新開を推進するため、それに従事するものに開発高の一部を与える注進開きとして奨励した。辛労免は、いわばその助成(報償)措置とされる。その割合は通常注進一対辛労免三とされたから、渡部村は相当有利な扱いを受けたことになる。

 厚遇により、分水路や開墾地はますます拡張した。
 これに伴い水量が不足し、堰改修が必要になった。
 これには「流し堀り」という工法が使われた。
 水路約一間(約一・八メートル)おきに人夫一人ずつを配置しておき、放流する水勢を利用して土砂を掻きながら拡張するもので、鉱山技術の一つとされる。
 これが功を奏し、開墾も順調に進み新村の経済も立ち行くようになった。
 そこで、約束の「換地」を実行した。水源地の鮪川村に約十九町歩、水路敷分として樽沢、浦田両村(現・男鹿市)にそれぞれ四十町歩が提供された。

 約三百町歩の開発面積からみて、流量の不足は否めない。
 現在の分水比から推測しても、平均流量は毎秒〇・一五立方メートル程度。水路の拡張に加え水源の安定を図るため「受け堤」の築造など、水源の完成まで二十数年を要した。

 この桜並木もあった受け堤も、耕地整理(昭和三十四〜三十六年)により、下谷地地区の水源を八郎潟干拓で淡水化された西部承水路に求めるに至って、町民グランドなどに姿を変えた。
 また、昭和五十六年から、小深見川からの揚水を樽沢地内の堰に注水することで、上谷地地区の用水安定が図られることになった。そして、斧松が手がけた長根堰も、時代の要請で徐々にコンクリート水路に姿を変えつつある。

 その恩恵が今も継承されながら、地元の人々の記憶は風化しつつある。そこで、若美町では平成九年、斧松など郷土の偉人の業績を後世に伝えようと、ユニークな漫画人物伝ixを刊行した。

 藩全域にまたがる業績

 藩はこの功績に着目し、一八二九(文政十二)年、斧松を近進並としたうえで、開発取締役加勢に登用する。
 この時三十六歳。
 この後、斧松は藩吏として藩全般の土木事業に関与することになる。
 直接間接に関与した開田は少なくとも二千二百町歩、かんがい等により復元したものは千八百町歩を下らないとされる。

 その事績が現在に引き継がれているものも少なくない。
 その二三の例を紹介する。

 斧松が設計したとされる「扇田堰」は、米代川左岸から取水し犀川に注水する水路で、犀川を経て「三浦堰」に導水され、大館市二井田地区をかんがいする。
 その取入口は、昭和五一年右岸取水の三堰とともに、新たにその上流に設置された米代頭首工に統合された。
 二井田地区は、昭和三十九年から四十四年にかけて、全県に先がけて三十アール区画ほ場整備が実施されたことでも知られ、大館市農業の中核地ともなっている。

 また、秋田市旭川の穴堰水路。かつて、外旭川村笹岡(現・秋田市笹岡)など六百七十町歩をかんがいしたとされる。
 都市化の進行でかんがい面積は半減したものの、濁川村(現・同濁川)との境に設置された穴堰は今も健在で、旭川からの清水を今も通水し続ける。
 
 斧松が建設した、もう一つの新村、「川井村」(現・合川町川井集落)も今に残る。横呑沢築堤に水源を確保し、六十町歩を開田。新たに四十戸を移住させ「斧松村」と命名したとされる。平成五年、川井集落では住民から寄付を募って、「開田開村百五十年記念顕彰碑」を建立した。

 逆に、難工事のすえ築造されながら、時代の変化の中で放置されたものも多い。
 例えば、自ら指揮した「北秋田・山本二郡にまたがる疏水」。
 合川町羽根山の阿仁川に堰を設置し、二ツ井町切石から能代市富根、鶴形まで、延々二十キロメートルに及ぶ水路は、六万七千人余りの人夫を要し、一八三二年に完成した大事業とされる。

 しかし、昭和の初め、富根地区の米代川に揚水機が設置されてから、その堰筋は人々の記憶から徐々に失せた。今、地区の長老にも定かなことは判らない。

 また、太田新田村(現・鷹巣町太田)に導水する「太田堰」は、取入口を米代川支流の早口川に、隧道約千メートルを含む千八百メートルが築造された。
 昭和四十一年、紆余曲折を経て、坊沢堰、鷹巣堰等と合同して、米代川の鷹巣三堰揚水機へ統合された。今は、長坂隧道がかつての難事業をうかがわせる証として残る。

 一方で、果たせなかった構想もある。
 その最たるものは八郎潟疏水計画と小阿仁川の分流計画である。

 前者は、潟と日本海の最も近接した現・八竜町浜口付近に水路を掘割って、湖面を埋め立てる計画であった。これは昭和三十二年から始まる世紀の八郎潟干拓事業に引き継がれ、現在の完成をみる。

 後者は、萩形村(現・上小阿仁村)の小阿仁川から馬場目川へかんがい用水を分流する計画である。これは昭和四十一年、萩形ダム(多目的)完成によって、発電放水と主旨を変えて実現された。

 実践家斧松の事績は、水利・開拓・河川事業にとどまらず、蚕業・漁業・植林・産馬などの殖産事業、新村建設や農村の復興救済事業に至るまで、広範多岐にわたる。
 晩年ぎりぎりまで藩開発方の先鋒となって、片や渡部村での小領主的な豪農として、一八五六(安政三)年、六十四年の生涯を終える。

 幕末に近づいた時代は各藩とも、各方面に行き詰まった時代とされる。そうした時代が、斧松や尊徳などの人材を輩出した。「時代の子」とされる所以であろう。
 

 【参考文献】
・村井良八『渡部斧松』(大正4年、那波宗七発行)
・西岡虎之助『近世における一老農の生涯』(昭和53年、講談社学術文庫)
・飯塚一雄『一老農の生涯』(日立1985、技術史の旅106)
・秋田県土地改良史(昭和60年9月、秋田県土地改良事業団体連合会)
・『若美町史』(秋田県若美町)
・今村義孝『秋田県の歴史(県史シリーズ5)』(昭和50年、山川出版)
・秋田県の歴史散歩編集委員会『秋田県の歴史散歩』(1984、山川出版)
・原田伴彦他『人物日本の歴史14(豪商と篤農)』(昭和50年、小学館)
・『若美町の石造遺物第2集』秋田県若美町教育委員会)