秋田県は、北は八森から由利の仁賀保にかけて大部分が砂浜であり、日本海からの強い西風が砂塵を巻き上げ、田畑や村に多大な飛砂の害を与えていた。
 栗田定之丞は、文化・文政期(1804-1830)に、海岸沿いの田畑や村を飛砂から守る海岸砂防林を完成させた人物である。

 栗田以前に、能代の町人越後屋太郎右衛門(船問屋)や越後屋久右衛門(商人・肝煎)が正徳3年(1713)から子孫の代までに30万本の松を植え、町を飛砂の害から救っている。こうした先人たちの努力によって、今日では幅1km、長さ14km、クロマツ700万本という日本最大級の松原となった。現在では、「風の松原」と呼ばれ日本五大松原の一つに数えられ、さらに「21世紀に残したい日本の自然100選」など5つの自然100選に選ばれている。

 栗田定之丞は、寛政8年(1796)、外国船の警備をする番人の職についた。彼は、外国船は見なかったものの恐ろしいものを見てしまった。
 飛砂である。
 以下、「秋田県散歩」(司馬遼太郎著、朝日新聞社)の記述を抜粋する。

 冬から春、日本海に吹き続ける北西季節風は、砂を飛ばし田畑をうずめてしまう。
 毎日、哨兵として沖を見続けている定之丞の両眼を砂が襲ったが、それよりも、飛砂が耕作地を侵しているということに、定之丞はおそろしさを感じた。
 「どうにかならないか」・・・
 (物書兼砂留役として)数十キロにわたる海岸砂丘を歩いた。砂地は年々面積を広げ、田畑だけでなく、家まで埋めている場所もあった。

 砂という飛ぶもの、動くもの、走るものこそ、かれの後半生を物狂いにさせた。
 が、藩は冷淡だった。・・・

 定之丞は、ただ一人で二十里の海岸砂丘をなんとかしようと思った。むろん人手が要る。定之丞は、村々の庄屋や世話役を訪ねてまわり゛ただで働いてくれまいか゛と頼んだ。
 「百姓は、夜寝るのみにて、身二つありても足りぬほどに忙しいものでございます」
 と嫌がられたが、定之丞はしつこく説いた。
 砂をとめて林にすれば薪にもなるし、堆肥にも役立つ。なによりも命の種の田畑が砂にうずめられなくてすむ。頼む、と言い続けるのである。そのさまが、子供がおんぶしてくれとダダをこねるようだったから、
 「だだ之丞」
 と呼ばれたりしたらしい。あるいは無料(ただ)にも掛けたあだ名だったかもしれない。・・・
 
 農民たちがいかに栗田定之丞を嫌がったかについては、
 火の病つきて死ねよ。
 とののしったと書かれている。火の病というのは伝染病の熱病のこと・・・
 火の病にでもかかって死にやがれ、ということである。しかし定之丞は「耳にも懸」けなかったという。
 彼は、砂の動くさまを知るために、寒中、ムシロをかぶって砂丘で寝ることも多かった。死にやがれと思いつつも一揆を起こすわけにもいかなかったのは、この熱心さだった。・・・

 定之丞は、さまざまに試行し、結局、確実な方法を見出した。・・・
 8,9年にして、それらの植物がみな勢いづいた。砂の上にも植物がはえることを、藩も農民も知った。
 藩は、わずかながら、定之丞の石高をふやして、その功にむくいた。窮乏していた藩財のなかで、たとえわすかでも加増などというのは、奇跡のようなものだった。
 農民の方も、無料でこきつかわれることに、やっと納得した。
 栗田定之丞の死後も、栗田方式の植林法によって、黒松がうえられてゆき、江戸末期には、数百万本の松原が、秋田藩領の長い海岸を砂から守るようになった。これらの松原こそ、秋田藩の長城というべきものだった。