米どころ仙北の湯治場として最も古い歴史をもつ山の湯が鶴の湯温泉だ。1615年頃、既にこの湯は評判であったと言われ、およそ400年の歴史を誇る。一般の湯治客を相手に湯宿を開業したのが、元禄年代(1688〜1704年)。農閑期になると、近在の農家の人たちが、鍋釜、ふとん、米、味噌などを背負って奥深い山道を歩いてきたという。貧しい農民にとって、年に一度の湯治は最高の贅沢だった。

 古くから湯治場として栄えた鶴の湯は、今や素朴な秘湯として人気を集め、関東・関西から多くの旅行者が訪れる。高級旅館を目指すのではなく、「ふるさとのイメージをどれだけ残せるかが勝負」と語る鶴の湯温泉の経営は、農山村の活性化や環境に配慮した農業農村整備を考えるに当たって大きなヒントを与えてくれる。
 ブナの新緑に染まる鶴の湯温泉全景。
 1658年頃、奥地の名湯の名を聞き、藩主佐竹義隆が、久保田(現秋田市)から角館に出て、田沢湖畔潟尻から船で対岸の潟前に渡り、ここから馬で先達川をのぼり鶴の湯に入湯している。鶴の湯の玄関口にある木造りの門、その左手に茅葺きの陣屋と呼ばれる建物がある。これは、藩主が湯治の時に宿泊した由緒ある伝統建築物だ。

 古くは「田沢の湯」と呼ばれていたが、1708年頃の記録によると、田沢のマタギ勘助が傷ついた鶴がきて病気を治していたところから「鶴の湯」と呼んだと言われている。
湯治場で腰を折り曲げて踊る老婆(写真集「米づくりの村」井上一郎著より)
左:新婚湯治・田沢湖町黒湯  右:湯治の宴:鶴の湯(撮影:大野源二郎)

 湯治は、だいたい1週間から10日。農閑期になると、湯治場は農家の人たちの社交場として賑わった。収穫が終わると、湯治場でいたむ体の疲れを直すのが農村の年中行事だった。かつては、広場に舞台をつくり、湯治客が100人になると演芸会をやったという。客の中には、尺八、笛、三味線、踊りなどの芸達者な人や民謡のうまい人が多く、舞台に上がる人も見物客も一体となって、どぶろくを飲んでは歌い夜遅くまで騒いだ。年に一度の贅沢・湯治に集う人々の表情が底抜けに明るい。

 湯治場として栄えた鶴の湯温泉の歴史は、凶作になると経営がピンチに陥った。特に天明3年(1783)の大飢饉では、農民は木の実や雑草で飢えをしのいだり、仙北郡の農民1000名が一揆を起こす大騒動があった。天保の飢饉では、仙北郡の富農を襲う事件が発生している。食うや食わずの飢饉では湯治どころではなかった。

 昭和初期、山間寒冷地の田沢・生保内地区は6年、7年、9年、10年、11年と連続的な凶作に見舞われている。農民は、松皮やワラビ根で作った団子で飢えをしのいだ。農作物が凶作になれば、湯治客は激減した。
 ヤマザクラとブナの新緑が映える陣屋全景。石を積んだ土台の上に建てられた間口15間(27m)、奥行き3間(5.4m)の茅葺き陣屋は、江戸時代からの伝統建築物を継承し、明治時代に建て替えたもの。まるで時代劇映画のセットのようにも見え、どこから撮影しても絵になる。周りの自然と伝統的建築物が一体化してはじめて生まれる美しい景観・・・訪れる人は、その美しさに魅了され、必ずカメラを構えるほどだ。
 温泉客に人気の水車。沢から導水、逆サイホンで噴出した水を水車の上部に導水し、水力発電として利用していたもの。現在は、自家発電機を稼動させている。水車小屋は、杉の皮を葺いた屋根、支える木は雑木・・・全て地元産のものを使い、手作りの温もりが伝わってくる。
 左は、電話ボックス、右は駐車場の休憩所。こうした細かい場所にも、昔からの雰囲気を壊さない配慮が感じられる。
 客室には「本陣○」という名称の木札が掲げられている。中に入ると、畳の部屋に囲炉裏があり、その上にランプが吊るされている。かつて囲炉裏を中心に暮らした心安らぐ空間が広がっている。
 左:写真右側の入り口が事務所 右:事務所の入り口を入ると、すぐ右手に缶ジュースや缶ビールを沢から導水した水で冷やしている。冷蔵庫ではなく、自然の冷水で冷やす演出が素晴らしい。
 鶴の湯の中央を清冽な沢水が流れている。沢の右手に内風呂、露天風呂が並ぶ。白湯、黒湯、中の湯、滝の湯・・・泉質の違う4種の湯に入ることができる。沢沿いに、外で食事も楽しめる木製のテーブルと椅子、防護柵は、曲がりくねった雑木をそのまま使った素朴なもの。
 沢沿いの護岸は、自然石を空積みしている。  屋根の葺き換え用にストックされた杉の皮。
 素朴な秘湯のイメージを演出するランプや囲炉裏用の炭。
 地元産の山の芋と山菜を味噌仕立てで煮込んだ郷土料理「山の芋鍋」。ほの明るいランプの下、囲炉裏の炭火で焼いたイワナと山菜料理をつまみに地酒を飲む気分は最高だ。田沢町史の「食べ物」の項には「副食物は割合ぜいたくで・・・玉川の支流小沢等からイワナその他の雑魚がとれ、一方狩猟によってウサギ、山鳥などの鳥獣肉があり、さらに山菜、きのこなど豊富」と記されている。地元で採れた四季折々の食材を使い、地域に伝わる多彩な食文化を生かしている点が魅力の一つ。(右の写真はイメージとして添付。撮影場所は、田沢湖町刺巻)
 洒落た木造の茶室もある。  冬の間、欠かさず使う薪も軒下に保管されている。
 鶴の湯に向かって左の高台に立つ鶴の湯神社。この神社への奉納品のなかには、病気が治ったお礼に久保田城下の町人や女の名前を書いた花瓶などが残っている。江戸時代、藩主が入湯したことから、久保田城下でも名湯として有名であったことが伺える。
 鶴の湯別館・山の宿。
 鶴の湯温泉の事務所側から玄関方向を望む。残雪が残る山並み、手前に萌え出たばかりの新緑が映える。まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような景観だ。ブナを中心とした広葉樹の森、清冽な水、本陣の伝統的な建築物、食べ物、湯治場のたたずまいを残した浴場の雰囲気・・・湯治客が少なくなった現在も、時流に流されることなく昔の原風景をそのまま残しているのが鶴の湯温泉の最大の魅力であると思う。宿泊客から「鶴の湯には日本の原風景があり、うれしい」といった礼状がたくさん寄せられている。
 乳頭温泉郷で一番奥にある黒湯温泉。湯治場としての歴史は、鶴の湯に次いで古い。角館の殿様芦名氏やその家臣らが延宝2年(1674)に湯治したという記録が残っている。明治の中頃までは「亀の湯」と呼んでいたが、おそらく「鶴の湯」を意識し「亀の湯」という名前が付いたのであろう。昔から農閑期は湯治客で賑わった。明治27年の記録には、生保内から20キロの山道を歩いて湯治する人が、年間1210人もあったと記されている。

 黒湯も鶴の湯と同様、茅葺き家屋、陣割長屋が並ぶ素朴な秘湯として名高い。熱湯が至る所から噴出、湯量は乳頭温泉郷の中でも一番多い。
 乳頭温泉郷の一つ・孫六温泉。先達川と女乙石沢の合流点にある山の湯。明治年間に生保内石神の孫六という人が発見したため孫六温泉の名がついた。
 乳頭温泉郷一帯は、ブナの森、湿地には、至る所にミズバショウの群落を見ることができる。
 鶴の湯に向かう途中の湿地帯には、白のミズバショウ群落に一際鮮やかに咲くリュウキンカの群落があった。
 乳頭温泉郷周辺のブナの森。萌黄色に染まる新緑が眩しいほどの輝きを放っていた。
 「観光地は、まわりの環境も含めた全体の雰囲気が大事。いくら高級な旅館やホテルでも、そこに泊まり、窓を開けたときに洗濯物や車庫が見えたのではダメ」
 「雰囲気を損なわないよう、旅館のまわりの電話線は4年ほど前に地下に埋めた。県道から旅館に至るまでの林地の一部約33万平方mを10年ほど前に買った。近くに高原ホテルが建つとイメージが変わり、うちの商品価値が落ちてしまう。費用はかさんだが、魅力を保つための保険だと考えています」(鶴の湯社長・佐藤和志さん「朝日新聞秋田版」より引用)
参考文献
「鶴の湯温泉ものがたり」(無明舎出版)
朝日新聞秋田版 2002.1.21 秋田の観光政策は 「この人に聞く」
田沢湖町史
「ふるさと博物誌 田沢湖・駒・八幡平」(千葉治平著、三戸印刷所)

取材編集:秋田総合農林事務所土地改良課