仁井田堰1  仁井田堰2

 満々と水を湛えて流れる仁井田堰(管理者:仁井田堰土地改良区・上村清助理事長、組合員921名、延長約15km、受益面積707ha)。水の流れの太さを見れば、堰というよりは、まるで一本の川のようだ。

 仁井田堰の起源は、今から約400年前までさかのぼる。当時仁井田、四ツ小屋、牛島一帯は、荒漠たる原野で、わずかに大野、仁井田部落あたりに三々五々農家が点在しているに過ぎなかった。佐竹家が久保田に移ってから、わずか14年後の元和2年(1616)、佐竹家の家老梅津憲忠は、藩命を受けて、仁井田原野の新田開発に着手した。これは、藩を挙げての一大プロジェクトだった。しかし、仁井田堰の開削と新田開発は、難工事が続き、完成まで梅津家四代、80年もの歳月を費やしている。その難工事とは、どんなものであったか・・・資料を収集して推理してみた。
 仁井田神明社正面の彫刻は、原野を開墾する様子が描かれている。「仁井田」という地名は、もともと開墾されてできた村で、「新田(ニエタ)」と書いていたが、その後「仁井田」に書き改められたと記されている。
 仁井田神明社・・・元和2年(1616)、仁井田堰開墾の祖・梅津憲忠が新田開発の成功を祈って、山形県湯殿山から舘岡兵部を別当として招き、村の祈願所としたのがはじまり。以来、仁井田地域の鎮守の森として崇敬されている。
 仁井田神明社の見事な彫刻・・・右上に描かれた彫刻は、四方を睨みつけるような形相をしている。恐らく、村を外敵から守る意味が込められているのだろう。
 仁井田堰開墾の祖・梅津家四代の碑・・・元和2年(1616)、初代憲忠にはじまり、二代目忠国は資金調達に努力し、三代目利忠は用水路開削、開田を再開、四代目忠宴の時に仁井田堰水利と新田開発の大事業が完成。岩見川から取水した全長15kmの仁井田堰は、広大な美田を生み出した。時に、着工以来80年後のことだった。

 この記録を見る限り、二代目忠国の時代は、工事を一時中断し、三代目利忠の時代に再開している。仁井田堰の資料によれば、資金を蓄えるためと記されている。しかし、藩の一大プロジェクトにもかかわらず、なぜ工事を中断し、数千両にも及ぶ資金が必要だったのだろうか。
 仁井田全景(昭和43年)・・・広大な田園が広がる向こうに雄物川が流れている。かつては、岩見川が合流した地点から下流の雄物川は、蛇行が著しく暴れ川そのものだった。かつて仁井田は雄物川が数年ごとに氾濫し、そのたびに川の流れが変わる沼地、低湿地であったと記されている。ということは、初代憲忠が利水と新田開発を行ったとしても、雄物川の度重なる氾濫によって濁流にのまれたであろうことは容易に推測できる。当時の記録によれば、洪水の被害は、仁井田だけでなく、久保田城下にも及んでいたという。つまり、この一大プロジェクトを完成させるためには、まず雄物川の治水を行わなければ不可能だったと言える。
 仁井田神明社には数多くの石碑がある。真ん中の石碑は、「月山、湯殿山・・・」と刻まれている。初代憲忠は、治水を行わずに利水と新田開発に着手したため、この難事業が容易に成功できないことを悟った。ついには、神仏の加護によるほかないとして、毎月2人づつ湯殿山と鳥海山に祈願を込めたという。水利に恵まれない笹原、沼地の開墾、度重なる雄物川の氾濫・・・当時の土木技術では限界で、最後は神頼みしかないと思わせるほど、困難極まりなかったことが伺える。憲忠は、事業半ばにして寛永7年(1630)に没した。
 南大橋から現在の雄物川下流を望む。右手が四ツ小屋、仁井田地区。

 「仁井田堰小誌」の沿革によれば「昔この迂曲していた雄物川は豪雨のたびに洪水を起こし、広野を泥海と化し、さては久保田城下にも浸水して驚異の猛を極めた」と記されている。藩主は、これを憂い、広大な原野の開墾を成功させるためには、この原始的な氾濫源となっている雄物川の改修をすべきであることに気付いた。早速、豊岩村小山から大野村まで雄物川を真っ直ぐに流れるように改修する治水工事を梅津利忠に命じた。利忠は、仁井田堰開墾の創始者・梅津憲忠の孫であった。彼は、この治水工事をわずか3年足らずで完成させ、次いで岩見川に水源を求めて、山麓伝いに仁井田に通ずる15kmの水路開削に従事した。つまり、治水から利水、そして開墾という手順を踏むことによって、はじめて広大な原野の開墾は成功に向かったと言えるだろう。 
 左:仁井田堰の由来を記した看板 右:仁井田堰の竣工記念碑

 三代目利忠は、二代目忠国の遺金3千両と家金千両を注ぎ込み、あらゆる困難に耐えて大成を図った。その偉業は四代目忠宴に引き継がれ、父祖四代にわたる仁井田堰の開削は、寛文2年(1662年)に完成。さらに仁井田の新田開発を含めて藩の一大プロジェクトが完工したのは、元禄8年(1695)のことだった。
 現在の仁井田頭首工。岩見川右岸より取水している。
 400年の歴史を誇る仁井田堰沿いに開墾された美田。写真奥の山際を仁井田堰が流れている。
 保量神社(四ツ小屋)の巨木が林立する傍を流れる仁井田堰。水と緑・・・歴史の重厚さを感じさせる空間が広がっている。
 保量神社・・・明和2年(1765)、先人・川村新吉翁が、末戸松本地内の開墾達成を期に神社を建立。開墾の際、折青石が出土し、その下から田に水を引くための泉が湧出した。この石をご神体として祀ったと言われている。
 川村新吉翁は、和田・黒沼地内の岩見川から山麓沿いに水を引き入れ、30余haを開墾した。当時の水田(みずた)に対して乾田法を用いて今のような美田を作った。さらに、小阿地村・川添・豊島の一部50余haを開墾。安政4年(1775)に逝去。村人はその偉業を永遠に伝えようと、碑を建立し、保量神社に川村新吉命を合祀している。
 仁井田堰大幹線分水門・・・右が仁井田堰、左が武左衛門堰(四ツ小屋幹線)に分水されている。水門が古く、木の板を使っている点に注目。
 武左衛門堰から望む田園景観

 四ツ小屋という地名は、寛文12年開墾の目的で雄物川の川岸にあった4戸の農家が移住したことからその名が付いた。四ツ小屋の「御野場」は、一面アシが生え、ウヅラが住む荒地だった。藩主が時々鷹狩りにきたことから「御野場」という名がついた。一面アシの荒地を美田に変えた偉人が高橋武左衛門翁である。
 左:高橋武左衛門翁の肖像 右:四ツ小屋神明社境内にある「遺愛之碑」

 高橋武左衛門は、寛保元年(1741)、平鹿郡下境に生まれる。抜群の才能と実践力が認められ21歳の若さで肝煎役(村長)となったほど優れた青年であった。天明3年(1783)、佐竹藩から「検田」を命じられ、四ツ小屋を視察。枯草ばかりの御野場の原野を眺めて・・・何とか開墾できないものかと考えた。享和元年(1801)、藩命を受けて荒地開拓の工事を起こした。
 上:佐竹義和公直筆、武左衛門を「先農ノ神」として祀り礼拝した。
 四ツ小屋神明社・・・四ツ小屋開発の守護神として寛永2年(1625)に社殿を建立。

 開墾で最も苦心したのは、水利の問題だった。最初は、豊島村小高の梵字川に水源を求めて水路を開いたが、夏には水量不足に陥り、失敗に終わった。新たに豊成から仁井田堰の水を引き入れて成功した。これが今なお武左衛門堰と呼ばれる四ツ小屋幹線用水路である。こうして60余haの美田を開いたが、翁は自分の財産を全部失ってしまった。藩主の義和は四ツ小屋村に来てその功を賞し、社堂を建て「先農ノ神」と書いてこれを祀って礼拝したというほど感激したと言われる。ここからの収穫を藩主の「納戸米(なんどまい)」として蓄えたため、八棟の倉に米が溢れたと言い伝えられている。 
 四ツ小屋神明社には、この地域の民俗と信仰にまつわる石碑がたくさん残っている。
参 考 文 献
「仁井田堰小誌」(秋田市仁井田堰土地改良区)
「秋田市の今昔」(今野賢三、秋田市案内刊行会)
秋田新都市の歩みと周辺地域の今昔(秋田新都市開発連絡協議会)
「仁井田村郷土誌」(昭和31年、仁井田村郷土史編纂委員会)
「高橋武左エ門翁」(四ツ小屋顕彰会)
秋田県土地改良史(秋田県土地改良事業団体連合会)
「秋田市民俗調査報告書(一)」(秋田市史民俗部会)

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