仁井田堰1  仁井田堰2

 ヤブレ沼・・・安政元年(1854)6月20日、前古未曾有の大洪水が四ツ小屋を襲った。雄物川と岩見川の大増水は、一挙に狸崎と下川原の両方から押し寄せ、武左衛門堰の土手を一瞬のうちに押し破り、青田一面が泥海と化した。洪水の時に土手が「破れ」てできた沼で「ヤブレ沼」と呼ばれている。
 昭和20年代の仁井田街道(仁井田村郷土誌)  昭和20年代の仁井田堰堰堤(仁井田村郷土誌)

 仁井田堰が1,300haの美田を潤すようになったのは、明治から大正にかけて、乾田馬耕に対応した耕地整理後である。世紀の大事業は、10aの乾田化と岩見川の石造堰堤工事、乾田化と開田に伴う用水の増加に対応した仁井田堰の大改修を行っている。この時、都市化される前の仁井田村及び四ツ小屋村の原型が完成している。
 仁井田堰400年の歴史を見続けてきたケヤキの大木が林立、その下を岩見川から取水した水がゆったりと流れている。周囲を散策していると、京都の「哲学の道」のように、何か思索にふけるにはピッタリの空間が広がっている。
 左:ケヤキの大木と仁井田堰 右:かつて馬の洗い場だった跡。段差はなく緩い傾斜がついている。
 左:白山・八幡神社(四ツ小屋)  右:樹齢数百年のケヤキの大木
 400年の長きにわたり美田を潤し続けてきた仁井田堰。鬱蒼とした森と豊かな水辺空間・・・仁井田堰は、農業用水、生活用水として利用されてきただけでなく、水辺に生きる淡水魚、両生類、昆虫、野の花々など、豊かな生物多様性を支え続けてきた。
 仁井田堰から分水した用水路と田んぼ。「春の小川は・・・」と歌われた「小川」は、実は田んぼの用水路だ。
 仁井田神明社にはも種々の石碑、道祖神が建っている。仁井田地区内には、地蔵尊が最も多く、庚申、七庚申、観音、二十三夜、金毘羅大権現、伊勢大神宮、馬頭観音、出羽三山がある。庚申信仰は、もともと中国から伝わった道教の流れをくむ信仰で、五穀豊穣や家内安全、病気治癒などを祈願した。これらの石碑は、藩政時代の開墾から近代に至る農村民俗と信仰を伝える歴史的な遺産だ。
 仁井田堰周辺の田んぼを彩る野の花・オオジシバリ・・・田の畦道など、肥沃で湿ったところに生える。昔から田園景観を彩る代表的な花である。
 仁井田堰に遊びにきたカモシカ。  仁井田堰を彩る草花
 ハナウド・・・やや湿った水路沿いに生えていた。
 武左衛門堰(四ツ小屋)の水路を利用した親水施設(平成6年設置)。四ツ小屋小学校では、地域の水環境を活用した体験学習を行っている。
 仁井田頭首工や仁井田神明社には、たくさんの記念碑が並んでいる。これらの石碑は、度重なる災害と老朽化に伴う仁井田堰改修の歴史でもある。

 中でも安政元年(1854)築土堤を破壊し泥沼と化した大洪水、明治42年融雪豪雨の大洪水により四ツ小屋堰決壊、大正2年の大修繕、大正13年岩見川大洪水による堤防土砂吐大破、昭和2年堰堤災害復旧、昭和11年本堰堤を守るための副堰堤工事、昭和22年水害堰堤復旧工事、昭和25年雪害、水害、昭和27年雪害、昭和30年堰堤大破、昭和33年雪害、水害・・・昭和37年から老朽化が著しい仁井田堰を県営事業で改修、昭和41年に竣工した。 
 老朽化した仁井田堰を歩いてみた。左の写真は、水路が沈下陥没している水路、右の写真は、水路の法尻から多量に漏水しているところ。こうした危険な箇所が多数見受けられた。県営事業で改修してから約40年、また水路の老朽化が目立ち、維持管理するための費用が年々上昇している。地域農業・農村を支え続けてきた大動脈・仁井田堰を維持するためには、一般には目に止まらない多くの労力と費用、苦労があることを知ってほしい。
 左:仁井田かまくら・・・悪魔祓いの儀式で道祖神の火祭りである。火焚きは、神仏を送迎するために行うもので、火勢による無病息災を願う伝統行事。

 右:四ツ小屋の鹿島祭・・・田植えが終わった早苗振り休みに、五穀豊穣、無病息災を祈る伝統行事。荷車二台を組み合わせ、その上に舟をつくり、舟の先に舵頭を立てる。鹿島大明神、五穀豊穣、無病息災などと五色の紙に書いた吹流し旗を舟に立て、各家から笹巻を背負った武者人形を出して舟縁に飾り、見るからに勇壮な祭りだ。神明社に祈願した後、雄物川に流す。
 秋田音頭の踊り(仁井田村郷土誌)   一世を風靡した仁井田大根(仁井田村郷土誌)
 秋田フキと仁井田おばこ(仁井田村郷土誌) 

 秋田名物の秋田フキは、仁井田地区で栽培されており、6月頃には6〜7尺に達する。盛りの時は、「フキ林」を見るようだったという。秋田フキの原種は、北秋の「長木沢村産」だという。

 天保の頃、佐竹藩士の梅津織之助が浪宅を構えて寺子屋を開いていたが、その隣の熊谷惣蔵の一家と親しかった。後に梅津氏が南部藩に移った。ある冬に、農家で「フキの塩漬け」をごちそうになったが、風味がよいので、南部領であった長木村産のフキの根を熊谷家に送ったのが秋田フキのはじまりと言われている。
 宅地化が進む御野場団地。「御野場」は、かつて一面アシが生え、ウヅラが住む荒地で、藩主が時々鷹狩りにきたという歴史をとても想像することはできないほど変貌した。
 秋田名物・秋田フキをバックに・・・取材にご協力いただいた仁井田堰土地改良区の皆さん。前列中央が歴史と文化に詳しい上村清助理事長、左から岡部弘樹技師、伊藤作一郎副理事長、堀井あけみ主事、伊藤清栄事務局長。

 かつて仁井田堰の受益面積は1,300haに及んでいた。しかし、県の農業試験場が移転された昭和37年頃から都市化が急速に進み、現在の受益は700haまで激減している。こうした都市化の波に呑まれて、仁井田堰と新田開発の歴史は、地域の人たちの記憶から次第に消え去ろうとしている。しかし、仁井田堰は、今なお地域を潤す大動脈であり、400年の歴史を誇る遺産として、後世に守り伝えることは、21世紀に生きる私たちの責務と言えるだろう。
参 考 文 献
「仁井田堰小誌」(秋田市仁井田堰土地改良区)
「秋田市の今昔」(今野賢三、秋田市案内刊行会)
秋田新都市の歩みと周辺地域の今昔(秋田新都市開発連絡協議会)
「仁井田村郷土誌」(昭和31年、仁井田村郷土史編纂委員会)
「高橋武左エ門翁」(四ツ小屋顕彰会)
秋田県土地改良史(秋田県土地改良事業団体連合会)
「秋田市民俗調査報告書(一)」(秋田市史民俗部会)

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