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300年余の歴史をもつ山城堰


 上の写真は、秋田県の雄物川にある「山城堰」の、明治時代の古い写真です。こうして木杭や土俵、柴などで作られた堰を、「草止め工」と言力を合わせて新しく水を引くっていました。
 ここでは、300メートルもある川をせき止め、水田へ水を引き入れています。下流へ水を流す水路は17キロメートルにも及び、周辺の813ヘクタールもの水田を潤しています。

 春から秋にかけては下の写真のように川を全てせき止めていましたが、冬の間は当時の交通の主流だった船を通すため、上の写真のように一部を切り開いていました。

 そして、毎年春が来ると、切り開いていた部分や洪水などで流された部分を直すため、「草止め工事」をみんなでやらなくてはいけませんでした。これは、関係する農家から1日に200〜300人もの人たちが集まって用水を取り入れるための作業に挑戦し、毎年大変な苦労を重ねたものでした。

 「草止め工事」は、30,000俵もの土俵に土を詰めることから始まりました。この土俵は、水を使う農家に割り当てられ、農作業のない冬の間に各農家が編んだもので、毎年5月末までに川岸まで持ち込まれ、2人1組で土詰め作業を行いました。

 土俵がたくさんできあがると、川へ4.5メートルもの木杭を打ち込みます。これは、3〜4人が組になって小さな船に乗り込んで、「かけや(木でできた大きなハンマーで重さが10〜12キログラムもあった。)」で打ち込みました。20,000本もの木杭を打つこの作業が一番きつかったといいます。これには、作業に出てきた農家だけでは間に合わず、近くの村からも若者衆が駆けつけてくれました。

 

 この後、整然と打ち込まれた木杭の間に土俵を入れる作業が待っていました。船に60〜70俵もの土俵を積み込んで土俵を入れていきましたが、実際には雪解けで増えた冷たい水の中に腰まで浸かって作業をしなくてはいけませんでした。

 そして、最後に2000束の柴(「粗朶(そだ)」ともいいました。)で土俵を覆い被せると完成です。

 このような「草止め工事」は約1ヶ月かかっていましたが、9月になるとまた一部を撤去しなくてはならず、本当に多くの手間と苦労をかけながら農業用水を確保してきました。

 また、泥がたまった用水路を掘り上げたり、草刈り、崩れた部分の補修工事も、農家総出で行われていました。

 毎年大変な苦労を重ねながら「草止め工事」を行って水がまた流れるようになることは、農家にとって大きな喜びでした。また、こうして完成した「草止め」も、洪水が来ると流されてしまうこともあって、かんがい期間の無事を神に祈願しようと、「堰根祭り」が行われています。

 これは、「番屋」という「草止め」を管理する家に現在でも祀られている「佐竹山城守」に、かんがい期間中の安全を祈願するものです。

 明治期に入り、地主たちの組合によって管理がなされるようになると、花火が打ち上げられたり、近くの料理屋からお酌をする女性が呼ばれるなど、盛大に行われ、近くの本郷集落などは時ならぬお祭り騒ぎに巻き込まれたと伝えられています。

300年余りを経た現在も、通水の安全を祈願する気持ちは変わらず、当時の苦労を顧みながら「堰根祭り」を毎年春になると開催しています。
 また、この付近で春になると獲ることができる「くきざっこ」(「うぐい」のこと。)を堰へ放流し、川からの恵みに感謝もしています。

 そもそも、この「山城堰」の歴史は、江戸時代にまでさかのぼります。

 この地の開発に取りかかったのは、当時ここを知行地としていた佐竹分家東家5代目の佐竹山城守義賢で、元和19年(1619年)に藩の許可を得て以来、4代の佐竹山城守による58年にもわたる事業の末、延宝4年(1676年)にようやく通水したものでした。

 こうした開発の努力の結果、当時「五ヶ村」と呼ばれていたこの地域は、正保4年(1647年)には1,229石に過ぎなかったのですが、山城堰の開通によって59年後の宝永2年(1705年)には5,637石と、約4.5倍にも増えています。 

 山城堰が通水した後も、新田の開発、水路の開削、ため池の築造といった事業を続け、佐竹東家はその名の通り山城堰を守り続け、最後の当主となった19代義寿公はこの地で亡くなり、佐竹東家と密接な関係にあった大森町(現横手市)の大慈寺にお墓があります。

 また、山城堰の近くには、「山城神社」があります。

 これは、昔まだ測量技術があまり発達していなかった頃、馬が通った跡をたどりながら低い土地を求めて水路を作っていったと言われていることから、馬頭観音を祀ったこの神社がいつしか山城神社と呼ばれるようになったようです。

 文政7年(1824年)にはかの菅江真澄もここを訪れていますが、現在も水田のすぐ近くにありながらもこの神社の周りはうっそうと樹木が繁り、その昔山城堰を作っていた頃から時間が止まっているかのような穏やかな雰囲気に包まれています。

 現在の山城堰は、昭和27〜36年の用水改良事業と昭和51〜54年の用排水施設整備事業によって、コンクリート堰堤、鋼製ゲートそして3面装工の構造に生まれかわっています。
 そして、山城堰頭首工の下流にあたる大納川頭首工では、地元の中学校の選択授業でカヌーの練習場となっているほか、例年9月には全県のカヌー競技会が行われるなど、現在でも山城堰と地域とは生活の中においても密接なつながりを保ち続けています。

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