秋田県の県南部に湯沢市がある。町中を南から北へ縦貫する1本の水路が、「湯沢大堰(ゆざわおおせき)」である。約400年の歴史を持つこの水路は、時代と共にその姿を変え、今、四代目となる。軒先の大堰では、採れた山菜を話題に道行く人との歓談が始まる。400年変わらない風景である。時の流れが、近い将来湯沢大堰五代目を作り出す可能性もなきにしもあらずである。

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生い立ち
(湯沢大堰できた頃)
今の姿の意味
(4代目ができた頃)
母なる雄物川
湯沢大堰は学習の舞台

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このページの作成は、秋田県雄勝総合農林事務所土地改良課(現雄勝地域振興局農林部農村整備課)です。
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生い立ち
(湯沢大堰できた頃)
絵図は、(社)秋田県経営者協会湯沢雄勝支部主催の「湯沢大堰探勝健康ウォーキング会」資料から転用しました。
尚、元図に対して湯沢大堰の位置を青色で強調修正しています。                               



         湯沢大堰誕生秘話 

時は慶長18年(1613年)・・・388年前
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 天正から文禄年代ヘ、さらに慶長への長い歳月にわたる戦国時代の大戦乱が、関ケ原の戦(1600)を最後として、漸く徳川政権に落付いたので、国内に平和が甦った。佐竹一族は遷封されて秋田の地に落付いた。
 当時、民心安定の第一歩は、長い戦争のあとであるから、なんと言っても食糧の増産である。これは、世界中、昔も今も変らない。そのためには、米殻増産即ち水田の開発が先決であった。
 湯沢の町並の大部分は、田町を除いて、東側の谷合いから流れ出してきた鉦打(かねうち)沢川と、松沢からの土砂の堆積による扇状地の、小高い丘の上にある。1km程西方を北流する雄物川の流れとは、20m程の高低差があり、山裾にへばりついた高台にある市街と、低地を流れる雄物川との間には、数百ヘクタールの肥沃な平坦地があった。

 この平坦地を開拓し、農耕地にしたいのは当然のことである。そのためには、雄物川の上流から潅漑用水を導入するためには、大堰を開削することであり、大堰を通すことによって、物資の輸送にも大きく寄与することができるからである。

常陸の国の先進技術
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 佐竹氏の先の領地常陸国には、平坦な土地が非常に多く、気候にも恵まれているから、古くから国内随一の米産国であった。このことは、8〜9世紀にかけて東北地方の蝦夷征伐にあたり、常陸国から大量の食糧と兵卒が調達動員されていたことからも明らかである。その頃、米殻の輸出先は、主として人口の多い京浜地方であった。米を江戸方面に輸送するためには、木造船に積んで太平洋を南下し、犬吠崎即ち銚子沖から房総半島の突端を迂回して、東京湾に入ったのであるが、房総半島を巡るとき、船は太平洋の横波を受けて沈没することがしばしばあった。この災害から逃れるため考えだされたのが、内陸水路による輸送である。

  常陸国には、海抜0〜5m程度の低地帯が広がり、霞ケ浦や北浦と呼ぶ大湖沼をはじめとして、小湖沼が散在しており、加えて豊満な水量をほこる利根川が、国の西側を南流してから南側を東方に流れている。さらに、そのすぐ西方には、利根川から分流した江戸川が南流して東京湾に注いでいる。これらの湖沼や河川を人工による水路即ち運河で連結することによって、江戸への輸送の便が、極めて安全に拓かれたのである。この様な運河の開削は、古代中国をはじめとして、世界各地に発達した物資輸送路であり、交通路であり、潅漑用の水路でもある。特に、豊臣時代には、国土開発のため奨励した方策でもあったという。近来、陸上輸送の発展に伴ない、運河輸送は著しく後退し、埋没されたものも多いが、茨城県内には、かつて掘削された人工水路は、いまでも数多く残っている。

 佐竹南家の湯沢初代殿様佐竹義種からの命により、慶長18(1613)年、家老の荒巻十蔵が常陸国に派遣され、当時の土木技術者であり運河開削の経験者である「次郎左衛門」が、この湯沢の地に連れてこられたのである。

次郎左衛門、湯沢入り
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御囲地町のお稲荷さん
大堰沿いにそびえる
ご神木の杉の木

佐竹義種は、湯沢に移った次郎左衛門に対し、大堰開削を指示したのである。当然の事ながら、次郎左衛門は現地を委細に亘って調査したことだろう。その結果として、伝えるところによれば、次郎左衛門は、「殿のお望み通り大堰を立派に完成いたします。万一、失敗した場合は、殿の前で切腹して責任を果たします」と、殿様に誓の言葉を申し述べたと言い伝えられている。

 次郎左衛門は、佐竹南家の水利土木方として、大堰開削に取り掛ることになり、その第一歩として、現在市内御囲地町の大堰の傍らに鎮座している、通称御囲地町のお稲荷さんに「願(がん)」をかけ、大工事の完成を期して祈りを捧げ、精進を重ねて精励したと言い伝えられている。そのためには、同神社の大権宮であった高階氏のご祈祷を受けたことは当然である。

工事にあたり、最も重要な水平測量には、暗夜に線香を使用したと言われている。この線香測量法は暗闇の中、大きな桶に水を満たし、その両端に線香を水面から同一の高さに立てて燃やし、この二本の線香の明りと明りを通し、その数メートルか数十メートル先に、二本の線香の明りと同一高度を見出す水準測量法だろうかと言われている。

きつねの足跡
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 水路の路線選定にあたっては、お稲荷さんの御利益(ごりやく)により、お稲荷さんの使者であるきつねがつけた足跡の通りに掘削したら、立派に出来上ったという伝説が残っている。こうした足跡伝説は、以外と多い。


湯沢大堰の特徴
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 雄物川から大堰への取水ロ(頭首工)は、市内関口字土樋(ここは土だけの土地に掘った樋の様な水路であるから、工事完成後に土樋と称する字名が附けられたことだろう)地内で、御囲地町の西側、田町の東側即ち八幡坂の下を通り、大町・柳町及び前森一丁目の西側を過ぎ、古舘町にて鉦打沢川に合流する人口水路である。
 この延長およそ4.5km、水路の幅員平均約4.5m、市内を南から北へ貫流している。

この大堰の特徴は、取水口も終点も標高95m前後を、僅少な高低差で流下し、その途中には逆勾配の個所さえある。水は高きより低きに流れるという大原則はあるが、樋に上流から水を流入した場合、ある程度高いところへ押し揚げられて流れるということを、うまく利用した設計である。また、この路線を選定するにあたり、自然の段丘の肩をうまく利用し、西側の田圃への分水流下を容易にし、加えて工事費の低減を計ったことなどは、この人工水路の大きな特徴であると称したい。
 この大土木工事の施工には、殿様の指示は言うまでもないが、町の内外から多数の労務者が掻き集められ、おそらく人海戦術の様相を呈して進められたことだろう。


湯沢大堰の効果
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 この湯沢大堰完成によって、町の西方は言うまでもなく、北方の杉沢新処から森地域にかけての広大な平坦地250ヘクタールに、立派な田園が開拓されたのは勿論であるが、この水路の完成によって、物資の輸送路、即ち運河としての機能を大きく果たすことになった。そのうちの主たるものは、町内で消費される丸太などの建築資材や薪炭材などは、管流(くだながし)しによって、上流の産地である秋の宮や高松方面から流送されてきたので、御囲地町には「木山方(もくざんかた)」と称する藩営の御材木場並びに御払所が設けられていた。
 これらの材木や薪炭材の雄物川から大堰への水路輸送は、明治の中頃に陸上輸送が発達するまで続き、小船も上下して各種の物資を輸送していたから、大堰は前後300年間にわたって運河としての役目をも果たしたのである。

現に、明治戊辰戦役に際し、慶応4(1868)年8月6日の戦火によって、湯沢市街の大半が焼き払われた。その復旧のために秋の宮から伐り出された丸太木材は、両木口(こぐち)にのみで穴を掘り、藤や山葡萄のつるを穴に通して数本を結び、役内川から雄物川を流下し、これを大堰に入れて運んだ記録も残っている。薪材も、高松や秋の宮の深山で伐採され、同様の方法で流送してきた。
 大堰での最終陸揚場所は、浦町界隈の大堰端通路であり、ここで商談が成立し代価が支払われたのである。川流しをした山師や人夫達は、水切れのよい麻の着物に鳶(とび)一丁で、毎日流れの中に入って働いたことだろう。山師(山で働く人達の親方)には、年一回の仕事が終わって、まとまった金銭が懐に入ったから、慰労の盛(も)っきり酒を振る舞ったことだろう。浦町には古くから暖簾(のれん)掛けの茶屋が建ち並び、次には料理屋が軒を連らね、紅灯の巷として繁昌したのも大堰があったからであり、そしてこの地は県内第二番目の女郎屋町へと発展したのは慶応二年と記されてある。

大堰の開削工事が首尾よく完成し、初期の日的が達成されたので、次郎左衛門は、殿様の前で切腹しないで済んだことは、誠に仕合せなことであったばかりでなく、大堰開削の功労者として、殿様から「富津清毘古命(とみつきよひこのみこと)」の神号を授げられた。この神号の碑は、市内大工町の神明社の登り口左側に建立されてあったが、近年この碑は見当らない。

 湯沢大堰完成してから400年程を経たいまも、大堰の流れは昔と変ることなく、湯沢の市街を南から北へと、流々と流れつづけている


        
※本文は、富谷松之助著「富谷家の系譜と余話」から引用させてもらいました。

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