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ミニ・コラム(平成21年度掲載分)

蝦夷(えみし)とは(第21

古代律令国家により名付けられた「非倭人・辺境の民」のことで、おもに東北地方に暮らしていた在地の人々のことをさすようですが、その実態は分からないことが多いのです。文献史学や考古学からは、単一的でない複雑な文化や人々の交流・融合の歴史があったことが分かりつつあります。「中央政権」からみた差別的な意味合いが色濃い言葉ですが、厳しい東北の大地に生きた人々の実際を明らかにしていく必要があります。

十和田の大噴火と陰陽師(第22回)

現在、小坂町と青森県にまたがる十和田湖は、火山の噴火によってできた湖です。最後の噴火は西暦915年といわれています。大噴火によって、火山灰が東北地方一帯に広く降り注ぎました。不吉な兆しとして、各地で陰陽師による儀式が活発になったかもしれません。そのような陰陽道で使われた遺物が県内のいろいろな遺跡で発見されます。

日本のポンペイ(第23回)

 ローマ時代、イタリアのポンペイという都市がヴェスヴィオス火山の噴火により埋もれてしまいました。それが発掘され、生々しい災害の傷痕を今の私たちに伝えています。じつはそれと似たような遺跡が、秋田県にもあります。北秋田市の胡桃館遺跡です。前回のコラムにあった十和田火山の噴火による火砕流・土石流により平安時代の集落が埋没しました。発掘調査で、当時の建物跡が私たちの目の前に姿を現したのです。

古代の鉄づくり(第24回)

砂丘地帯である秋田の沿岸部は砂鉄の宝庫です。鉄づくりの際には、この砂鉄が貴重な原料となります。古代秋田の沿岸部では、あたかも製鉄コンビナートのように、製鉄遺跡が多く見つかっています。10世紀後半には、さらに内陸の米代川上流へと製鉄技術が広がっていきます。鉄はあらゆる開発に威力を発揮したことでしょう。

エミシとは(第25回)

本来、エミシとは、東方に住む「勇猛な人」という意味合いがあったようです。それが5世紀代には「毛人」という漢字が当てられました。これは中国の地理書『山海経』に由来します。その後、7世紀代の「大化の改新」以降、小帝国を目指した日本は、中華(華夷)思想にもとづく「東夷・西戎・北狄・南蛮」にならって、「毛人」を「蝦夷」としたようです。

縄文時代の採掘活動@(第26回)

縄文時代の道具は、石を材料とした石器でした。縄文人は、かたい石を器用に打ち欠いて、矢じりやドリルなどを作っていました。秋田県では珪質頁岩という石がもっぱら利用されます。河原で拾える石ですが、質のいいものを見つけるのは難しいでしょう。縄文時代には、驚くべきことに珪質頁岩を採掘することもあったようです。三種町上岩川遺跡群では縄文時代の採掘址群が発見されました。

縄文時代の採掘活動A(第27回)

縄文時代の採掘活動が見つかった上岩川遺跡群では、石器づくりのときに出てくる石クズが7万点も出土しました。しかし、仕上げられたはずの製品がほとんど見当たりません。これはどういったことでしょう?おそらく、縄文人の集落は別の場所にあって、そこへと運び出されたのでしょう。石材の流通ネットワークがあったのかもしれません。

縄文時代の採掘活動B(第28回)

三種町上岩川遺跡群で縄文人が採掘した原石をみると、巨大なものがいくつも見られます。なかには大人のひと抱え分の大きさの珪質頁岩もあります。とても一人で持ち上げることなどできません。共同作業をしていた証でもあります。こうした三種町の珪質頁岩は飴色に光り輝いた半透明のもの、いわゆる玉髄質のものが特徴的です。とてもかたくて、実用的な石器づくりにはあまり適しているとはいえません。どうして、わざわざ採掘したのでしょうか?もしかすると、光り輝く石は「ブランド品」として価値があったからかもしれません。

縄文時代の採掘活動C(第29回)

三種町上岩川遺跡群は、縄文人が光り輝く頁岩原石を採掘した場所でした。作られた石器はどうやら集落へと持ち帰られたようですが、遺跡群からは失敗品がまとまって出土しています。それをみると長さ1020cmほどの石槍が特徴的にあります。石槍作りには、ある程度の大きさの原石が必要ですし、大変な労力もかかります。当時の縄文人は、豊富な原石が眠っている上岩川地区で、石槍作りを目的とした採掘活動を行い、流通させていたのでしょう。

鉄と出会った「蝦夷」たち@(第30回)

それまで鉄を知らなかった東北地方に住む「蝦夷」たちは律令国家の進出により、製鉄技術と出会います。鉄器はそれまでの石器と違って、農耕具や狩猟具として多大な威力を発揮します。また、石器では折れたり刃こぼれしたりすれば、最初から作り直さなければなりませんが、鉄器は鋳直したり、研ぎなおしたりして再生することができました。鉄との出会いがその後の「蝦夷」の生活を大きく変えることになったでしょう。

鉄と出会った「蝦夷」たちA(第31回)

三種町にある小林遺跡は、2000年に県により発掘調査が行われ、在地系住民(「蝦夷」)の集落跡であることが分かりました。遺跡からは竪穴住居のほかに、製鉄炉や鍛冶炉、炭焼き窯が数多く見つかりました。それらの遺構は無秩序に存在するのではなく、製鉄作業の効率を考えた配置となっていました。つまり、集落の外縁に炭焼き窯が並び、敷地内の斜面地や痩せ尾根地形に製鉄炉、平坦部に鍛冶工房という空間構成をとっていました。

鉄と出会った「蝦夷」たちB(第32回)

製鉄を営んだ在地系住民(「蝦夷」)の三種町小林遺跡は10世紀前半の時期に営まれました。前回のコラムで触れた、製鉄を組み込んだ計画的な集落設計は、「蝦夷」自らが編み出したのでしょうか。遺跡の一角からは、律令国家側の役人がいたと考えられる大きな掘立柱建物跡が、青磁や灰釉陶器の破片と一緒に見つかりました。製鉄技術のみならず、製鉄炉・鍛冶工房・炭焼き窯などの空間配置についても律令側の役人からの指導があったのかもしれませんね。

縄文の最後の華(第33回)

縄文時代晩期、今から3千年前〜23百年前に栄えたその文化は「亀ヶ岡文化」と呼びます。青森県亀ヶ岡遺跡にちなんだ名前です。この時期は東北地方を中心として、縄文時代最後の輝きを見せます。様々な形の土器、それを彩る装飾文様の数々、深い光沢を見せる漆工芸。秋田県にも亀ヶ岡文化の遺跡が数多く発見されています。しかし、その文化を担った人々の実態は、今のところあまり良く知られていません。これからの調査・研究の進展が期待されます。

考古学の楽しみ(第34回)

考古学はたいそうな実験室も必要なく、だれでも気軽に楽しめる学問です。楽しみ方は人それぞれで、本を読んで、展示施設で遺物を観ながら考えにふけるのもよし、アウトドア派なら実際に遺跡を訪れて体感するのもよし。お金をかけずに屋内でも野外でも知的好奇心を満たしてくれ、そこには必ず発見があるのが考古学の醍醐味です。考古学を学べば、いつもの風景もきっと違って見えるはずです。

籾殻圧痕〔もみがらあっこん〕(第35回)
米どころ秋田での稲作はいつの頃から始まったのでしょうか?開催中の企画展で展示中の地蔵田遺跡では稲籾圧痕の土器が出土しています。亀ヶ岡文化が終わり、西日本の影響を受けた遠賀川系土器が到達する頃には秋田にも稲籾はあったのでしょう。残念なことに確実な水田跡は未発見ですが、今後に期待されます。当センター収蔵品にも八郎潟東岸の家の上遺跡で出土した籾圧痕土器があります。最近、明治大学の高瀬克範先生が籾圧痕のレプリカを作成、分析されました。千年以上前、米どころ秋田にあった籾の形をミクロの目でご覧下さい。 籾殻圧痕
写真(撮影:高瀬克範氏)をクリックすると、赤丸の電子顕微鏡をご覧になれます。

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