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ミニ・コラム
(平成25年度掲載分)
                  ■発掘調査報告会 (第76回)
 
 「平成25年度秋田県埋蔵文化財発掘調査報告会」を3月9日(日)に秋田県生涯学習センター(秋田市)にて開催しました。今回は資料報告のみの5遺跡分を含む県内11遺跡について、写真や図などを用いて報告を行いました。
 前半の報告は、平成25年度県内発掘調査の概要から始まり、縄文時代の食料貯蔵地や墓地と鎌倉時代の屋敷が存在したと推定される大川端道ノ上遺跡、縄文時代から中世にかけての集落跡で、縄文時代の遺構・遺物が多数確認されるとともに、県内では数少ない古墳時代の竪穴建物跡や掘立柱建物跡が発見された神谷地遺跡、奈良から平安時代の城柵官衙遺跡で、外郭西門の規模や門に取り付く区画施設、16世紀後半の墓と土塁が確認された史跡秋田城跡と続きました。
 後半は、平安時代の城柵官衙遺跡の払田柵跡から始まり、20年前に発掘した、第94次調査以降の調査成果を合わせた外郭南門(外郭線)の外側での施設の変遷とその性格について説明がありました。続いて、奈良から平安時代の集落跡である貝保遺跡では、集落を区画する溝跡や竪穴建物跡、井戸跡、出土した土師器・木製品等の様子が紹介されました。最後に江戸時代の本荘城下の蔵屋敷の遺跡である岩渕蔵遺跡の報告があり、掘立柱建物跡群や塀跡、土坑、大溝跡など蔵屋敷内諸施設の配置がわかった状況や、江戸時代の蔵屋敷以前に平安時代の窯が作られ、土器が多数出土している様子が紹介されました。
 報告の他に遺物や遺構の写真パネルや出土品の展示と考古学体験教室を行いました。体験教室では、石器づくりや縄文土器観察・縄文施文体験、文様染めが用意され、子どもから大人までそれぞれ興味関心を持って各種体験を楽しむ姿が見られました。当日は天気が心配されましたが、県外からのお客様も含め多くの来場があり、最終的に報告会には190名、考古学体験教室には80名を越える参加者数となりました。多数の方々にご来場いただきありがとうございました。
 なお、今回の報告遺跡を紹介する各種パネルは、「平成25年度秋田県内発掘調査成果展」と題して、県生涯学習センター1階玄関ホールにて、4月13日(日)まで展示しております。

報告会場の様子 展示の様子

考古学体験教室の様子(縄文施文体験) 考古学体験教室の様子(石器づくり)

                ■大川端道ノ上遺跡の石器 (第75回)
 
 昨年6月17日~10月17日に調査を行った大川端道ノ上遺跡の整理を現在行っています。
今回整理作業で分かったことを紹介します。
 大川端道ノ上遺跡は、JR奥羽本線峰吉川駅の南西約1.7kmの大仙市強首に位置し、雄物川左岸の自然堤防上に立地しています。この遺跡では、縄文時代後期(約4000~3000年前)と中世(鎌倉時代)の二つの時期の遺構が発見されました。
 その中でも、縄文時代の遺構から出土した石器について見ていきましょう。

 石器は、石を打ち割ったり、磨いたりして作られた道具のことです。約3万年前の旧石器時代から、現在でもアフリカのムブティ・ピグミーなどの狩猟採集民が使っている息の長い道具です。私たちの身近なものでは、包丁を研ぐための砥石が現在でも使われている石器の一つです。
 大川端道ノ上遺跡では、下の写真のような石器が発見されました。
① 石鏃(せきぞく) … 狩りの道具。弓矢の先端に付けた矢尻のことです。大川端道ノ上遺跡の石鏃には、根元に接着剤として利用したアスファルトと思われる黒い付着物が残っています。
② 石槍(いしやり) … 狩りの道具。槍の柄の先端に付ける穂先のことです。下半分は、折れて無くなっています。
③ 石匙(いしさじ) … 加工の道具。つまみが付いた万能のナイフです。つまみの部分にひもを付けて携帯し、動物の解体や木材の加工などに使われていたと考えられます。
④ 磨製石斧(ませいせきふ) … 木材の伐採、加工の道具。砥石で全面が磨かれている斧。大川端道ノ上遺跡の磨製石斧は、小形のため「手斧(ちょうな)」や「のみ」のような木材の加工具の利用が推定されています。
⑤ 打製石斧(だせいせきふ) … 大形の剥片〈石を割ったかけら〉を打ち欠いて作られた斧のような形の石器。土掘り具の機能が推定されます。
⑥ 磨石(すりいし)・石皿(いしざら) … 上石を磨石、下石を石皿と言います。ドングリやトチなどの堅果類を砕いた製粉具です。どちらにも、使用時についた擦った痕跡が残されています。

 
 

 このように、大川端道ノ上遺跡では、完成した石器が遺跡に少数だけ残されており、石器を作った痕跡はありませんでした。これは、縄文時代の人々が移動生活をしながら他の遺跡で石器を作り、完成した石器を大川端道ノ上遺跡に持ち運んで使っていたことを示しています。つまり、この遺跡は短期的な宿営地であったと考えられます。
 これらの石器に興味がありましたら、ぜひ埋蔵文化財センターにお立ち寄りください。


        ■今年度の埋蔵文化財センターの事業を振り返って (第74回)

 今年度、埋蔵文化財センターの緊急発掘調査としては、大川端道ノ上遺跡(大仙市)、貝保遺跡(八郎潟町)、払田柵跡第147次(大仙市・美郷町)の3件がありました。これに学術調査の払田柵跡第146次を加えても、発掘調査は4件という状況でした。緊急発掘調査事業量の減少は全国的な傾向で、この背景には、近年の全体的な景気の低迷や地方公共団体の財政悪化に伴う開発事業の縮小等が考えられます。ただ、今後景気回復が順調に進んでいけば、減少傾向に歯止めがかかるかもしれません。今後の動向を注視していく必要があります。
 一方で、埋蔵文化財センターでは、企画展「蝦夷と俘囚-古代の秋田人-」や講演会+座談会「エミシ・俘囚・エゾ」、古代発見!バスツアーなどの開催、セカンドスクール的利用や出前授業の対応など、埋蔵文化財を活用した普及事業も推進してきました。秋田市文化会館で開かれた講演会+座談会では260名余りの参加者が熱心に聴き入り、県民の古代秋田に対する関心の高さが感じられました。
 埋蔵文化財は、県や地域の歴史と文化の成り立ちを明らかにするうえで欠くことのできない県民共有の財産であり、地域の資産でもあります。このことをしっかり踏まえ、埋蔵文化財保護行政を取り巻く情勢は厳しいところですが、県民の理解を得て今後も発掘調査体制を堅持していくことが必要と考えます。また、埋蔵文化財の保存と活用は地域に根ざしてこそ意味があり、埋蔵文化財は地域に対する誇りや愛着の醸成に欠くことのできない存在でもあります。この貴重な地域の資産を将来も確実に守り伝えていくための工夫も求められています。

貝保遺跡 井戸枠の発掘現場 講演会+座談会「エミシ・俘囚・エゾ」

                   ■中央調査班の活動 (第73回)

  中央調査班は、栗田養護学校の向かいにある旧秋田養護学校の校舎を利用し、日本海沿岸東北自動車道建設事業などに伴う埋蔵文化財の発掘調査を担うことを目的に、平成22年に開設しました。
 中央調査班の業務は、大きく三つに分けることができます。一つは、発掘調査を行うこと。二つには、発掘の成果などを基に考古学的な研究をすること。そして、三つ目が教育普及活動を行うことです。このコラムでは教育普及活動について簡単に紹介します。
 発掘調査で見つかった土器や石器などの公開も教育普及活動の一環です。展示室では、平安時代の大規模な製鉄遺跡から出土した炉壁や羽(は)口(ぐち)、中世の小さな穴から出土した大量の古銭などを展示しています。入場料は無料で、資料の配付も行っています。
 先日は、にかほ市の方々が研修の一環で展示を見学していきました。また、栗田養護学校の生徒さんが、授業の一環で展示室の取材を行い、地域の方々に当班の仕事や展示の内容を知っていただく「ミニ新聞」を作成したこともありました。
 当班では、公的な機関による展示や、授業の教材のための遺物の貸し出しも行っています。高校の授業で是非、実物を用いて授業を行いたいという熱心な先生もおられます。この他に、縄文土器のキット、縄文時代の調理具のキット、縄文時代の竪穴住居跡復元キットと、歴史授業の教材も用意してありますので、気軽にお申し出ください。
 最後に、中央調査班では要望があれば出前授業にも対応いたします。昨年も、発掘を実施した地域にある学校と連携して、出土遺物や映像を用いて郷土の歴史を分かりやすく解説しました。地域の歴史講座などでも要請があれば、いつでも対応いたします。
 中央調査班が秋田市新屋に開設したのは3年前のことで、周辺地域をはじめそれ程知られている施設とはいえません。今後、多くの方に利用してもらえるように広報活動を広く行いたいと思っています。また、毎週金曜日(2月からは木曜日)には、「喫茶くりの木」が栗田養護学校高等部の皆さんによって開かれています。隣接する中央調査班展示室にも足を運んでもらえれば幸いです。

中央調査班の正面玄関 家ノ浦遺跡の古銭

                ■縄文土器の授業 Part1 (第72回)

 「みなさん、大昔の縄文人『がんたくん』が教室にやってきますよー。」縄文人の『がんたくん』が前かがみになって「ウォ-、ウォ-」と叫びながら、狩りをしている雰囲気で教室後方から登場する。「オッ!おいしそうなものを見つけたぞ。」『がんたくん』は見つけた植物を生で食べる。「ペッ、ペッ!苦くて食べられないよー。困ったなあ。そうだ!土器を使って食べよう。おいしーい。」

~出前授業の1コマである~

 「土でできた器(うつわ)を土器といいます。これが秋田県で見つかった縄文土器です。」教室の小グループに分かれた机上には縄文時代の深鉢形土器、浅鉢形土器、壺形土器、注口土器などが置かれている。県内で出土した遺物に触れる活動では、本物の縄文土器の形状や重さ、手触り、文様などを観察する。次に、縄文土器の文様を画仙紙に写し取る拓本体験、土器片を立体パズルのように接合して器形復元を体験する。縄文時代と現代の食生活を比較しながら考える場面では、縄文土器の用途を調理器具、食器、製塩、祭祀などと予想する意見が出された。「轆轤(ろくろ)を使わないで立派な土器を作って、縄文人はすごい。」と感想も聞かれ、縄文時代のくらしの豊かさや縄文人の知恵の素晴らしさを発見できたようである。
 縄文時代は、縄文土器の出現によって人々の社会が変わり、時代が変化していく。縄文土器の出前授業が、歴史学習の一助となれば幸いである。

縄文人『がんたくん』登場 縄文土器に触れる活動

               ■見学会無事終了!-貝保遺跡- (第71回)

 9~10月のおよそ2か月近くにわたった貝保遺跡の発掘が先日無事終了しました。貝保遺跡は八郎潟町の湖東総合病院の西隣、川崎にあります。平成13・14年度にも調査を実施し、遺物などから平安時代の遺跡であることがわかっています。今回は病院前の県道付け替え工事が行われることになったため、再び調査することになりました。
 調査期間中は台風の接近を含め、秋雨前線がたびたび通過しました。そのため調査区全体が水没することもありました。調査面積は1,210㎡で広いわけではないのですが、井戸跡が6基見つかり、大きさや深さを底まで掘って詳しく調べるのに時間がかかってしまいました。しかし、井戸跡以外にも竪穴住居跡、窯跡、溝跡など多くの遺構を確認でき、土師器や須恵器、鉄滓などが多数出土し、発見の多い発掘であったように思います。
 何より一番うれしかったのは、10月26日(土)に開催した遺跡見学会に65名の方々がおいでになったことです。見学会は雨こそ降らなかったものの、当日朝まで小雨がぱらつくあいにくの天候でした。しかし県内の考古学ファンの人たち以外にも、川崎地区の住民の方々が多数自転車で駆け付け、見学会を盛り上げてくださいました。準備しているときは、台風情報などが繰り返し報道されていたことから、どれだけの人が集まってくれるのだろうかと不安でいっぱいでしたので、出土した遺物の一部を展示したコンテナハウスが大勢の人でいっぱいになったときは感慨深いものがありました。今回おいでいただいた方々に、さらに詳しい調査結果お知らせできるように今後の整理作業に取り組みたいものだと思います。

見学会の様子(貝保遺跡)

             ■北秋田市にある藤株遺跡の整理作業 (第70回)
 
 昨年度、発掘調査を行った「藤株遺跡」は、平成24年度のミニ・コラムに3回取り上げられています。3回目のミニ・コラム「縄文時代の定住」のなかで、人々がこの地でどのような活動をしていたかについて述べています。今回のミニ・コラムでも、出土遺物(コンテナで約500箱)の整理過程で分かってきた、人々の活動の一端について考えてみます。今回の調査区からは、藤株遺跡に関連する近年の調査(昭和55年の発掘調査や平成元~3年の遺跡範囲確認調査)では見つかっていない遺物2例を紹介します。
 1つは貝殻で文様を刻んだ早期(約10,000~6,000年前)に作られた土器で、藤株遺跡での人々の活動の痕跡を、さらに数千年、遡ることができるようになりました。今回の調査区は藤株遺跡の南端の段丘縁辺部に当たります。縄文時代早期の人々が、ここで土器を使って、どのような活動していたのでしょうか。近くには沢があるので、水場を利用していたことも考えられますが、この時期の遺構は見つかっていません。詳しいことは不明ですが、調査区の周辺に集落があったのかもしれません。
 
縄文時代早期の土器

 もう1つは、縄文時代の砥石です。U字状の溝を持つ砥石も含め5点出土しています。U字状の溝を持つ砥石は勾玉などの玉類を磨いた可能性があります。今回の調査では玉類の出土は1点もありませんが、この北側で行われた昭和55年の調査では、お墓が集中した周辺で38点も出土しました。そこでは砥石の出土はなく、集落内の玉類の生産拠点は、今回調査した段丘縁辺部にあったものと考えられます。
 
U字状の溝を持つ砥石

 整理作業では、集計された出土遺物の各種データと遺構配置等の関連性を追求していますが、その成果を基に今後、藤株の地を活動の場にした人々の営みについて考えていくつもりです。藤株遺跡の整理作業は、今、秋田市新屋にある中央調査班で、平成26年度の報告書刊行を目指して進められています。整理作業や藤株遺跡に興味のある方は、是非、中央調査班においでください。整理作業の見学をしていただきながら、様々な遺物にも触れていただくことができます。
            ■払田柵跡調査最前線【第146次調査】 (第69回)
 
 払田柵跡調査事務所による学術調査は、平成25年度で40年を数え、146回目の調査を迎えました。これまでは(しん)(ざん)(なが)(もり)など丘の上を対象に、(せい)(ちょう)などの主要施設の実態解明を中心に調査を進めてきましたが、この5年間は、周囲に広がる(ちゅう)(せき)()(田んぼ)の調査を進めています。(がい)(さく)南門から入る南(おお)()に河川跡が復元されているように、周囲の田んぼには湿地帯が広がっていると考えられていましたが、調査の結果、丘の裾野に広がる比較的高い部分にも、役所に関わる施設が広がっていたことが分かってきました。
 今年度は、(がい)(かく)()(いじ)(べい)の外側に復元された、大路東建物南側の管理用道路を通行止めにし、道路の一部を撤去して調査を進めました。昨年度の調査で見つかった柱穴列の周囲を広げ、建物跡としての広がりを詳しく調べるためです。
 
調査の様子

 調査の結果、昨年度確認されていた3つの柱穴と、20年前の第94次調査で確認されていた2つの柱穴との間をつなぐように、新たに2つの柱穴が確認され、これらが一連の建物の柱穴列であることが確認されました。この付近は丘の裾野からの湧水が多く、そしてこの湧水が小川のように流れることにより、当時の地表面は30cmほどえぐられていました。そのため、後に開田する際には凹地が埋め戻され、今回確認された柱穴は、他の柱穴と比べ30cmほど低い高さに埋没した状態で発見されました。周辺からは多くの()()()()()()のほか、文字が墨書きされた(ぼく)(しょ)土器や(かわら)など、役所に関係する遺物も多く出土しました。
 今回確認された建物跡(SB1058)は、大路東建物のように東西方向に長いつくりではなく、南北方向に長い建物(南北棟)となります。また、東側にも小河川が迫ることから、建物の正面は西側であったと考えられます。
 
確認された建物跡(SB1058)

 大路東建物は、払田柵創建の9世紀初頭につくられ、「調米」木簡や「厨」墨書土器が見つかったことから、蝦夷の人々をもてなす際に使われた、儀礼的な建物と考えられていました。その際には、南側に取り付く(ひさし)の前が、広場として使われていたと考えられます。今回の調査により、9世紀後葉の建て替えにより建物が西側を向くことになり、建物正面の広場が南大路東側の広い平坦面へと移ったことが想定されます。隣接する厨川谷地遺跡の調査では、気候の変化により、9世紀の後半から河川が(ひん)(ぱん)(はん)(らん)し、洪水により数十cm単位で埋まったり、水流により浸食されたりを繰り返したことが明らかになっています。このような時期を迎え、建物より一段低く、小河川に近かった広場が使いづらくなったため、より高く広い平坦面を使用するために、建物の方向が変えられたのかもしれません。
 10世紀の初頭には、南大路の西側に南北棟の大型建物(大路西建物)がつくられ、以後10世紀後半代まで、ここに役所の建物が継続して置かれます。この建物は、同じ広場を対象としたまま、今回確認された建物が、西側に移転された結果である可能性も出てきました。
 
大路東建物とSB1058の建物正面広場の位置

 このように、現在では平坦な田んぼに囲まれた2つの丘が、払田柵跡の風景と考えられていますが、元々の地形は丘のすそ野にも役所が置かれ、周辺を幾筋かの小川が流れる風景であったことが分かってきました。これからも周辺の低い土地をどう使っていたかを調査していきたいと思っています。
                 ■空から眺めた遺跡 (第68回)

遺跡の調査は観察から始まります。発見した遺構や遺物の観察には、肉眼で十分事足りるでしょう。遺物をより細かく観察したければ、顕微鏡で覗くこともでます。しかし、広い範囲を見渡そうとなると大変です。調査担当者は脚立に登り、あるいはやぐらを建てて上からの視界をなんとか確保しようと努力します。鳥のように上空から、遺跡を直接眺望することで、地上では得られない情報を確かめるためです。空中写真は、まさにそのような「鳥の目」を提供してくれる非常に有効な資料です。今回は空中写真で確認できた土飛山館跡の事例を紹介します。

土飛山館跡は大館市豊町に所在し、米代川と長木川に挟まれた大館段丘地の北縁に立地しています。この遺跡は中世城館と考えられていましたが、平成17年に行われた調査では、わずか720㎡という狭い範囲に20棟に及ぶ竪穴建物跡のほか、空堀や柱列などが見つかり、平安時代の集落の一部であることが分かりました。空堀は調査区の端に僅かにかかり部分的な調査に止まりましたが、空堀の中まで隙間無く建物が建て込んでいたため、調査前にその存在に気づくことはありませんでした。調査を終えた後、米軍が終戦直後に撮影した空中写真を注文し、届いて見た瞬間、思わず驚きの声を上げてしまいました。そこには空堀の痕がくっきりと浮かび上がっていたからです。同時に購入した1975年撮影の空中写真と比較してみると、周辺の市街地化が進んだことが手に取るように分かり、空堀の中にすっぽりと建物が建ち並んだ様子も見て取れます。古い空中写真は、開発行為が進んで元の地形状況が分かりにくくなった日本の国土を、タイムスリップして眺めるには格好の資料と言えるでしょう。ところで土飛山館跡は平成18年にも空堀を含んだ範囲で調査が行われ、この時の出土遺物から10世紀後半から11世紀初め頃に空堀が機能していたと推定されています。ここまで中世の遺物が出土していないこともあり、空堀に囲まれた空間は、中世城館と言うより古代防御性集落である可能性が高まったと考えられます。

このように空中写真を利用して、地上での観察では成し得なかった発見に巡り会えることもあります。興味のある方は、まず身近な遺跡を空から眺めてみてはいかがでしょうか。なお、空中写真は国土地理院あるいは林野庁に問い合わせて購入することができます。詳しくは各所のホームページをご覧下さい。

1948年米軍撮影の空中写真 1975年国土地理院撮影の空中写真
                    ■7世紀の秋田(第67回)

  当センターでは、現在、企画展 「蝦夷と俘囚 -古代の秋田人-」を開催中です。秋田県内の7世紀から9世紀を中心とした時期の出土品を展示し、当時の人たちの暮らしや社会について紹介しています。
 この7世紀から9世紀かけての秋田については、古代の史料に蝦夷や俘囚の動向として記載されることがあります。例えば「日本書紀」の斉明紀には、越国守の阿倍比羅夫による秋田から北海道に至る遠征記事が掲載されています。この記事にある、7世紀半ば過ぎ(西暦658年頃)に、秋田(齶田)と能代(渟代)の蝦夷が朝廷に服属したことなどは、基本的に史実であったと考えられています。秋田、能代と言った地名が7世紀半ばまでさかのぼることから、当時、沿岸部に一定の土地に根ざした集団がいたこと、言い換えれば、蝦夷と呼ばれた人たちが沿岸部で地域社会を形成していたことが想定できるでしょう。
 また、比羅夫の遠征記事には、齶田蝦夷の恩荷は弓矢を使う狩猟民であるという意味の記述もあります。その真偽については、蝦夷を服属させた朝廷の権威を高めるために彼らを辺境の農耕を知らない「野蛮な」人々であると潤色して記述したとする考え、実際に狩猟民が存在したとする考え、狩猟民と農耕民とが土地の特徴に対応して斑状に住み分けていたとする考えなどがあり、意見が分かれます。
 実は、秋田市から男鹿市周辺や能代市周辺などでは、この時代の人々の暮らしぶりはおろか、遺跡そのものの存在が良く分かっていません。ただ、このことからは、当時の人々は痕跡の残りにくいテントのような施設に住み、一定の地域内を狩猟や採集をしながら遊動する生活を送っていたことが逆に想定できるかもしれません。
 一方、史料にははっきりと記述されていませんが、近年の発掘調査などによって、この7世紀半ば頃には東北北部では竪穴住居に定住して稲作などの農耕を行う集落が出現していたことが分かってきました。秋田県内でも、鹿角盆地や横手盆地などで当時の集落が見つかってきています。40年近く前に調査された旧平鹿町にある下藤根遺跡も、当時は想定外でしたが、今では7世紀中頃に出現した農耕集落であったと考えられているのです。
 冒頭に触れた企画展の関連事業として、9月14日(土)には秋田市文化会館で、「エミシ・俘囚・エゾ」と題して、講演会+座談会を開催します。当日は、東北古代史の熊田亮介先生(秋田大学)と文献史学・アイヌ民族史の児島恭子先生(札幌学院大学)に「蝦夷(エミシ・エゾ)」について御講演いただき、当センターの髙橋和成が古代前半(7~9世紀)の秋田県内の考古学的な調査成果を報告します。座談会では、早稲田大学の菊池徹夫先生にコーディネイターをお願いし、上述したような文献史料と考古資料との異同を比較検討することを通じて、大和朝廷や律令政府から蝦夷や俘囚と呼ばれた人々の生活や社会の実態に迫っていただこうと計画しております。皆様の御来場をお待ちしております。
 
下藤根遺跡の7世紀中頃の竪穴住居跡(南から)
 長軸9.2m、短軸8.4mの長方形の大型の竪穴住居跡です。床面には屋根を支える柱を据えるための柱穴12本が壁より少し内側に四角く並んでいます。北側の壁の中央にカマドが作られていて、外側に向かって長さ1mほどのトンネル状の煙道が掘られています。これらの特徴は、この時期の東北北部の竪穴住居跡に概ね共通したものです。竪穴からは、土器のほかに土製紡錘車も出土しました。
                  ■古代発見!バスツアー(第66回)

 埋蔵文化財センターでは、毎年「古代発見!バスツアー」を実施しています。これは、遺跡や史跡を見学し、郷土の歴史や文化財について理解を深めてもらうとともに、埋蔵文化財センターの活動を広く知ってもらおうという催しです。今年度も6月に秋田市発着で「県南の遺跡探訪コース」を2回実施しました。2回とも同一コースで、横手市の神谷地・小出遺跡発掘現場、湯沢市の長蓮寺遺跡、岩井堂洞窟、院内銀山異人館を見学しましたが、毎回定員いっぱいの応募をいただいています。
 車中を含め、全体の案内をセンター職員が行い、遺跡での解説は地元の教育委員会職員の方々にお願いしました。神谷地・小出遺跡では縄文、弥生、古墳各時代の竪穴建物跡などを見ることができましたが、発掘調査の真っ最中とあって、どのようにして遺構を見つけ、どういう手順で掘っていき、どんなものが見つかるのかがよく分かる見学でした。
 長蓮寺遺跡は県南では珍しい環状列石が発見されたところです。また、岩井堂洞窟は縄文時代の洞窟住居跡で、国指定史跡になっており、土器などの出土品が院内銀山異人館に展示されています。このような遺跡を巡り、「有名な遺跡や出土品に興味があるがどこにあるのか分からない、どうやって行くのか分からない、行ってみたがどんな内容か分からない」というようなことにできるだけお応えしようというのもバスツアーの目的の一つです。10月には「みちのくの古墳探訪コース」を実施します。詳しくはイベント案内をご覧下さい。
 
神谷地遺跡の見学
                  ■江戸時代だって考古学(第65回)

 江戸時代にもなると、文献資料が豊富で、当時の人々の暮らしも絵画資料からビジュアル的に理解することができます。遺跡をあえて発掘調査する必要もないと考えてしまいがちです。でもそれは大きな誤りです。
 これまで、秋田県埋蔵文化財センターで久保田城下を調査した地区が、4か所あります。その中の一つ、現在の秋田中央警察署が建っている場所で、平成17年に調査した古川堀反町遺跡についてお話します。
 秋田県公文書館が所蔵する城下絵図をひもとくと、遺跡の範囲に18世紀半ば頃から、家老職を代々輩出した1400石取りの小野岡氏が、幕末まで屋敷を構え居住していたことが確認できます。ちなみに、戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟から秋田藩はいち早く離脱しますが、当時の藩主義堯公の寝所に迫って、同盟の離脱を促したのが、当時の屋敷主である小野岡義礼なのです。さて、その屋敷跡の江戸時代後期と思われる最大幅4.2m、深さ1.75mもある大きなゴミ穴から、当時の陶磁器・木製品などが(かんな)(くず)とともに多量に出土し、その中から「小野岡大和様 (まめ)(さん)()(いり)(いっ)(ぴょう) 三梨村」と記された木簡が出土しました。これは農民が年貢を上納する際に、俵に差し込んだものと思われます。「菽=豆」を一俵納入した。年貢を納めたのは「三梨村」。現在の湯沢市三梨です。「大和」は小野岡氏が代々踏襲していた通称で、この「大和」と名乗る人物はゴミ穴の年代から義礼の祖父、義音の可能性があります。このことから、絵図の位置通りに、小野岡氏の屋敷があったことが証明されました。絵図だけでは、「屋敷があったらしい」ですが、これにて証明されたというわけです。またこの木簡とともに見つかった当時の生活用品からも、この屋敷に居住した人々の具体的なくらしぶりがうかがわれますが、それは次の機会にご紹介します。
出土した木簡です。 遺跡から、久保田城址の御隅櫓がよく見えます。
                    ■昔の食べ物(第64回)

 発掘調査をおこなっていると様々な遺物が出てきます。その中には当時食料にしていたと思われる植物の種子があります。昔の人たちはどんなものを食べていたのか、その一例を横手市大森町の『(かん)(のん)()(はい)()(あと)』から紹介します。
 『観音寺廃寺跡』の調査では井戸跡とトイレ跡と考えられる穴の中から植物の種子が出土しました。井戸やそれらの穴の年代測定の結果から、これらの種は平安時代に食べられていた植物のものと考えてよいものです。
 井戸跡とトイレ跡から出土した種子には、マタタビ、ブドウ、キイチゴ、エゴマ、ウリ、コメがあります。マタタビやブドウは山から採取してきたものだと思います(ブドウは鎌倉時代頃から栽培が始まったようです)。この2つは熟すと甘みが増しますので生食していたのでしょう。キイチゴは山野でよく見かけますが、日本では古代から室町時代頃まで栽培していたようです。エゴマは風味が豊かで昔から薬味として利用されていたようです。ウリですがこれは生食の他に漬け物にして日持ちを良くしていたようです。最後のコメは不動の主食ですね。上流階級もそうですが庶民も主食はコメでした。もっとも庶民はアワやヒエなどを加えて食べていたみたいです。
 『観音寺廃寺跡』の種子から平安時代にどのようなものが食べられていたかは分かりましたがどのようにして食べていたかはわかりませんでした。そこで『食べ物の考古学』から食材や調理方法をみていきます。野菜類は生で食べるほかに煮たり和え物にしてました。また塩・醤油・味噌・粕漬けに加工していたようです。魚介類ではイワシ、アジ、フナ、アユ、アワビ、ハマグリなどが干物や塩・酢・粕漬けにしていたようです。仏教の教えで肉食は禁じられていましたがキジやカモの鳥類やシカやイノシシは例外的に食べていたようです。こちらは煮たり焼いたりしていたようです。貴族階級では()(牛乳を加熱濃縮した乳製品)も食べられていました。
 遺構の中でも井戸跡やトイレ跡からは当時の食生活に関わる遺物が多く出土します。今後も文献に記された食生活が、遺構から出土した遺物によって裏付けられ、明らかになっていくことでしょう。

観音寺廃寺跡から出土した種子
1:メロン属  2:タデ属  3:メナモミ属  4:マタタビ属  5:ニワトコ   6:アカザ科
7:キイチゴ属  8:エゴマ  9:イネ  10:タラノキ  11:ブドウ属   12:ヤマグワ


〈引用文献〉
 秋田県教育委員会『土地改良総合整備事業(緊急生産調整型)に係る埋蔵文化財調査報告書-観音寺廃寺跡-』秋田県文化財調査報告書321集 2001(平成13)年
 木下 正史「万葉時代の食生活」 『食べ物の考古学』 学生社 2007(平成19)年
                    ■蝦夷と俘囚(第63回)

 平安前期、(がん)(ぎょう)2年(西暦878年)3月15日、秋田の蝦夷(えみし)()(しゅう)が、律令政府に対し反乱を起こしました。「(がん)(ぎょう)(らん)」です。蝦夷は、東北地方から北方に住むもともとの住民、俘囚は、古代律令国家に服属した蝦夷のことです。
 反乱側は、(かみ)()()()(ない)(すぎ)(ぶち)()(しろ)(かわ)(きた)(わき)(もと)(かた)(ぐち)(おお)(かわ)(つつみ)(あね)()(かた)(がみ)(やけ)(おか)の十二村で、秋田平野北部から米代川流域の全域です。律令政府に味方した俘囚の村は、(そえ)(がわ)()(わけ)(すけ)(がわ)の三村で、秋田平野東部、南部に位置します。当初は反乱側が優勢でした。律令政府は、(ふじ)(わらの)(やす)(のり)()(わの)(ごんの)(かみ)《出羽国の臨時の長官》、()(のの)(はる)(かぜ)(ちん)(じゅ)将軍《()(つの)(くに)()(さわ)(じょう)に置かれた(ちん)(じゅ)()の長官》に任命し、体制の立て直しを図ります。
 小野春風は、500人の精兵を率いて陸奥国から上津野村に入ります。一説に、春風は(よろい)を脱ぎ、単身、上津野の俘囚村に分け入って反乱俘囚を説得し、降伏させたと伝えられます。春風の父が陸奥国の官人で、幼少のころ陸奥国に同行し、現地の蝦夷・俘囚と交わって「()()」に(たん)(のう)だった、とも伝えられています。春風は、降伏した上津野村の俘囚の「(しゅう)(ごう)」7人(一説には「豪長」数十人)を引き連れ、反乱各村を降伏させながら、(あき)(たの)(たむろ)に至っています。その後、元慶2年の夏ごろには、戦況が逆転し、反乱俘囚の投降が相次ぎ、元慶3年正月、乱は終結しました。
 上津野村は、後の鹿角郡です。現鹿角市の大湯地区から(にしき)()地区にかけての台地上には、9世紀代の集落遺跡が集中しています。また、錦木地区では、(まが)(たま)(てっ)(とう)が出土した(かれ)(くさ)(ざか)()(ふん)(ちょく)(とう)が出土した(いずみ)(もり)(えん)(ぷん)4基を検出した(もの)()(ざか)(いち)遺跡が近接しています。これらは、蝦夷・俘囚の住む東北北半から北海道(いし)(かり)低地までの範囲に分布する7世紀から9世紀代の(ふん)()で、(まっ)()()(ふん)と呼ばれています。
 9世紀中ごろと推定される物見坂Ⅰ遺跡3号墳からは、(わらび)()(とう)(よう)(たい)()(どう)())が出土しました。腰帯具は、律令政府の官人が儀式や勤務の際に着用する礼服((ほう)())の帯に付けた飾り具です。、銅製と石製があり、それぞれ方形((じゅん)(ぽう))と半円形((まる)(とも))があります。出土した腰帯具から、3号墳の()(そう)(しゃ)は、律令国家から()(かい)を授けられた俘囚で、俘囚村の有力者であったと推定されます。
 小野春風が降伏させた7人の「俘囚の酋豪」のうち、少なくとも1人は、この錦木地区の俘囚の有力者だったのではないでしょうか。

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 平成25年度秋田県埋蔵文化財センター企画展「蝦夷(えみし)()(しゅう)-古代の(あき)()(びと)-」が開幕しました。
 蝦夷前史として、4世紀~6世紀の県内出土品をほぼすべて集めて展示しているほか、近年充実してきた7~8世紀の集落遺跡の出土品、9世紀の「元慶の乱」の各俘囚村の遺跡出土品、末期古墳の(ふく)(そう)(ひん)、集団墓が発掘された()(さわ)(えふ)遺跡の副葬品など、250点あまりの出土品と写真・解説パネルを展示しています。
 3世紀から9世紀の秋田の歴史を視覚的にたどる展示です。是非ご覧ください。
 
枯草坂古墳、物見坂Ⅰ遺跡が立地する丘陵
物見坂Ⅰ遺跡3号墳から出土した
腰帯具(銅銙巡方 悲恋伝説が残る錦木塚
錦木塚伝説の看板
              ■レプリカ(複製品)に色付けしました。(第62回)

  漆下遺跡から出土した猿顔土器とクマ形土製品のレプリカ(複製品)を、秋田県産業技術センター素形材プロセス開発部の協力で作ってみました。3Dプリンターで作られたハイテクな樹脂製のレプリカです。昔、石膏で型どりしていたことから考えると時代の変化に驚きます。でも、白い樹脂のままだと味気ないので、このたびはアナログに筆で色付けをしました。表面に土の雰囲気を出すために石粉を塗り本物らしくしてみました。いかがなものでしょうか?本物は現在地元の北秋田市が所蔵していますので、このレプリカを様々な場面で活用しています。今回は7月2日(火)から8月17日(土)まで、県立図書館で行われる出張展示に出品します。(リンク「出張展示」)
 クマ形土製品は、表面に縄文をつけたり、それを磨いて消したりして縄文土器のような文様が描かれています。毛並みを表現などはせず、縄文文様を描くとは・・縄文時代の人のデザインセンスは不思議です。それにしても、この形は可愛い。個人的には「豚の貯金箱」にしか見えないのですが・・8月11日に「クマと土偶とシャマンと」という題で県立図書館にて講演する当センター小林克主任文化財専門員が、「これは絶対クマだ!」と力強く申しておりましたので、そのへんのところは、ぜひ講演にお越しいただいてお聞きください。(リンク「ふるさと考古学」)
 
漆下遺跡出土の猿顔土器
 
漆下遺跡出土のクマ形土製品

 なお、県立図書館の出張展示では、「猿顔土器」や「クマ形土製品」のほか、埋蔵文化財センターの収蔵庫に保管している土偶や石棒などをまとめて出品します。笑っていたり、怒っていたり、口に出して言えないものなど不思議な造形がたくさん見られますので、ぜひお立ち寄りください。
 
図書館での出張展示を待つ土偶・石棒たち
 
                    ■大川端道ノ上遺跡の春(第61回)

 発掘調査の始まる季節です。
 大仙市強首にある大川端道ノ上遺跡でも、調査の準備が始まっています。

 大川端道ノ上遺跡は、平成23年の遺跡分布調査で発見された遺跡です。遺跡の内容を詳しく知るために昨年5月~6月に行った確認調査では、縄文時代後期(4,000~3,000年前)の土坑や土器が出土し、今年度発掘調査を行うことになりました。
確認調査で検出した縄文時代後期のフラスコ状土坑(断面土層)と縄文時代後期の土器片と石匙

 5月中旬、大川端道ノ上遺跡の表土除去作業を行いました。
 表土除去というのは発掘調査の第一段階で、近現代の整地のための盛土や、雑草などが積もった腐葉土を削り取って、昔の生活の痕跡が見えるようにする作業です。
 この作業をしていると、「発掘調査が始まるな」という実感が湧いてきます。

 大川端道ノ上遺跡の場合は、何年か前まで畑だった場所で、広い面積の耕作土を削り取る必要があるので、バックホウで作業することになりました。
 耕作土より下の土層からは、縄文時代後期の土器片や遺構が見つかります。遺物が残っている土まで掘ってしまわないよう、また、耕作土が残りすぎないよう、じっと土を観察し、バックホウの運転手さんに合図しながら削り加減を調整してもらいました。

 休憩時間にふと周囲へ目を向けると、ワラビやタラの芽などが芽吹いていて、春の到来を告げてくれていました。
 春の息吹が、発掘で現れる縄文時代の集落跡の姿を予感させます。
 芽生えの春に始まった大川端道ノ上遺跡の調査は、収穫の秋まで続く予定です。
 
表土除去が進む大川端道ノ上遺跡
 
                    ■秋田県の古墳(第60回)

 古墳とは一般的に、古墳時代(3世紀~7世紀)に造られた、墳丘を持つ墓のことを指します。墳丘の中には被葬者を納める埋葬施設があり、その中には鏡をはじめとする副葬品が納められます。ヤマト政権の支配と各地の首長の権力の象徴として、巨大な古墳が造られ、その支配は畿内を中心に東北から九州地方まで及びました。太平洋側では岩手県奥州市に北限の前方後円墳である角塚古墳があります。日本海側では山形県の庄内地方まで古墳文化が到達していますが、秋田県内では今のところ見つかっていません。
 646年に薄葬令が出され、古墳の造営に規制がかかるようになり、古墳時代は終焉を迎えます。その後、国の仕組みが整っていくなかで、8世紀になると秋田にも律令制の波が到達します。それと同時に、須恵器生産や製鉄の技術など、多くの文化が流入してきます。その中に墓造りも含まれていました。
 秋田県には、横手市雄物川の蝦夷塚古墳群や羽後町の柏原古墳群、五城目町の岩野山古墳群、鹿角市の枯草坂古墳群など、古墳と名の付く遺跡があります。これらはいずれも8世紀以降に築造されたものであり、古墳時代の古墳ではありません。このような古墳は「末期古墳」または「終末期古墳」と呼ばれています。
 この末期古墳の形態は、小規模な墳丘を有し、ほとんどのものが周溝を持っています。埋葬施設は中央の墓坑に木棺を直接納める木棺直葬と呼ばれるものが多く、墳丘を構築してから墓坑を設ける古墳時代の古墳とは異なり、前時代からの土坑墓をベースにしています。出土遺物には蕨手刀などの刀や鏃、馬具などの鉄器類、勾玉、銅鏡、石帯、須恵器などがあります。蕨手刀は律令制下に組み込まれた蝦夷である俘囚の刀と考えられています。また、律令官人が身につける石帯なども出土します。これらのことから末期古墳の被葬者は、在地的な人物でありながら、地方政治に関わりがある人だと考えられています。
 このように、末期古墳は中央からの文化との接触によって生まれた、この時期に特有な墓制であり、同様の古墳は北海道や東北地方北部に多く分布しています。
 秋田にある古墳に葬られた人々はどのような人物なのか、また、どのようにして律令制に組み込まれていったのか。この答えを明らかにすることができれば、当時の複雑な社会の様相を解明する糸口になるかもしれません。
 











柏原古墳群64号墳 実測図
 『羽後町文化財調査報告書第12集福島遺跡ほか発掘調査報告書 柏原古墳群・福島遺跡』より
 
岩野山古墳群出土遺物
『秋田県埋蔵文化財センター平成21年度第1回企画展パンフレット古代城柵と蝦夷-払田柵跡とその時代-』より
出土文字資料について(第59回)

 発掘調査をしていると、ときどき文字の書かれた遺物が出土することがあります。これを出土文字資料と言います。代表的なものとして、木簡や漆紙文書、墨書土器があります。
 木簡は、墨で文字が書かれた木の板のことで、古代(飛鳥~平安時代)に広く使われました。行政文書や伝票、メモ書き、漢字の練習、まじないなど様々な用途で用いられています。実は日本で最初に見つかった木簡は、昭和5年に払田柵跡で見つかったものであり、ここから日本の木簡研究がスタートしています。その後、昭和
30年代に奈良の平城京の発掘で大量に見つかったことから有名となり、研究が盛んに行われるようになりました。
 漆紙文書は、漆容器のフタに使われた古代の廃棄文書です。漆塗りに使う漆液は空気に触れると固まってしまうため、不要になった紙を容器のフタに用いました。この紙は漆液が染み込んでコーティングされるため、土の中でも腐りません。こうして残ったものが漆紙文書です。秋田城跡では戸籍などの行政文書や暦などが漆紙文書として見つかっています。
 墨書土器は、墨で文字が書かれた土器のことです。多くの場合、1~2文字程度の文字しか書かれていないため、その意味を正確に知ることは難しいのですが、用いられた場所の名前や、使っていた人の名前、まじないのための文字・記号などが書かれていることが多いです。文字ではありませんが、ユーモラスな人の顔が描かれた土器(人面墨書土器)もあります。
 発掘調査の進展にともなって、出土文字資料の数も増大してきました。これによって、歴史書などからは知ることのできなかった、当時の人々のリアルな生活の様子を知ることができるようになりました。漢字の練習をしたり、病気や災害から逃れるためにまじないをしたりする様子は現代の私たちとあまり変わりません。このような豊かな歴史の姿を知る上で、出土文字資料は欠かすことのできないものとなっています。

「得」の字を練習した木簡

「厨」と書かれた土器(厨=調理場で使われたものか)

(いずれも払田柵跡出土)

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