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 第9回
思い出の発掘
 冨樫 泰時(平成2年〜平成8年勤務)
 考古学を志してから多くの遺跡の発掘調査に参加させていただき、また自分で探し出して発掘した遺跡等その思い出は数え切れないほどある。
 最初に発掘調査した遺跡は三昧寺貝塚(町田市)であった。以来上ゲ屋遺跡・柳又遺跡・野尻湖湖底遺跡(長野県)、室谷洞窟(新潟県)、中沢貝塚(千葉県)、米島貝塚(埼玉県)、福井洞窟(長崎県)等が心に残る遺跡である。
 秋田県内の最初の発掘調査は小松遺跡(羽後町)で、その後下堤遺跡(秋田市)、米ヶ森遺跡(大仙市)、神沢遺跡(由利本荘市)等の調査を行い、また県教育委員会が主体となった金沢柵跡(横手市)、さらに脇本埋没家屋(男鹿市)等市町村が主体の調査にも多く参加させていただいた。 
 中でも自分で探し出した米ヶ森遺跡は最も思い出のある遺跡だ。発見のきっかけは長山幹丸氏の採集品の中に旧石器と思われる石器があったことである。そこで長山氏の案内で採集地点を確認に行った。場所は国道46号線沿いにあり、南側を荒川が西に向かって流れている。北側には標高313mの米ヶ森があり、その南麓台地一面が草地で、そこが遺跡であった。関係者から近い将来牧草地にする計画があると聞き、早速協和町教育委員会(当時)と協議して緊急に発掘調査をすることになった。これが秋田県では最初の旧石器時代遺跡の発掘調査となった。
 発掘調査は1969年(昭和44年)11月14、15日の二日間であった。その最初の調査で乳白色の頁岩製のナイフ形石器が出土した。まさに秋田美人に例えられるほど惚れ惚れする石器であった。以後、1970〜1976年まで5次にわたる発掘調査を行い、多大な成果を得ることができた。
 以上の結果を『米ヶ森遺跡発掘調査報告書』(昭和53年3月)として刊行した。この中で、遺跡に因んで名付けた「米ヶ森型台形石器」をその石核から作り出す技法を「米ヶ森技法」と呼び、また「東山型ナイフ形石器」及び「杉久保型ナイフ形石器」の中間型式として「米ヶ森型ナイフ形石器」があり、三種類のナイフ形石器が存在すること、ほかに掻器、彫刻器、石刃、細石刃があることなどをまとめた。
 「米ヶ森技法」を解明したのは昭和50年秋のことであった。この年の出土石器を小林達雄氏宅へ持参した時、「米ヶ森型台形石器」同士が接合すること、さらに石核にも接合することが分かり、「米ヶ森技法」の行程を復元することができた。
 あっ、そうだ。最初の調査の時、秋田駒ヶ岳が噴火し、それを見に行く車で46号線が混んだ事を思い出した。 
 第8回
国営秋田城跡発掘調査のこと
 岩見 誠夫(昭和56年〜平成元年勤務)
 文部省文化財保護委員会が昭和34年度から37年度まで4ヵ年計画で始めた7、8月の秋田城跡発掘調査は、秋田県にとって大湯環状列石以来の大規模な発掘調査であった。
 発掘施行責任者(団長)は大湯環状列石調査の文化財保護委員会斎藤忠先生で、内藤政恒、福山敏男、板橋源、三宅敏之、田村晃一、大川清、坂詰秀一、岩崎卓也、西野元、氏家和典先生等々のそうそうたる歴史考古学・古建築の先生が調査関係者として来秋、発掘調査を行ったのである。
団長の斎藤忠先生
 私は秋田県文化財専門委員の秋田大学半田市太郎先生のおともとして発掘調査に参加した。秋田城跡の所在する高清水丘陵は広大で、遺構の上には厚く飛砂が堆積しており、発掘地点は丘陵上に分散していた。そのため、砂の排除と各地点の連絡に陸上自衛隊秋田駐屯部隊と電信小隊が参加し、発掘調査に多大な便宜を供された。
 初年度は、護国神社南グランド地区の発掘調査に従事した。東西線上に設定された長い第1トレンチの表土の飛砂を、三班編成の60名から成る自衛隊員が、市販のものよりひとまわり大きいスコップを使い、10分交代でトレンチ外へ排出するその馬力に驚いた。トレンチ内からは13個の柵列の掘り方と建物の屋根の棟を葺いた「のし瓦」などがまとまって出土したことが記憶に残っている。
護国神社南側の発掘調査の様子
 次年度は、後年日本考古学協会会長に就任された東京教育大学の岩崎卓也先生の班(焼山地区担当)で御指導をいただいた。ここでは広い畑地一面から東西に長い倉庫と考えられる大きな掘立柱建物跡を検出することができた。真夏の砂地での調査は、強い日射のため発掘面がすぐ白っぽく乾燥し、遺構の確認がなかなか難しかったと記憶している。岩崎先生は昼休みを利用して、しばしば私達班員を他班の発掘の見学に連れていって下さった。大小路の田村晃一先生の調査地を訪れたところ、ここはトレンチ調査ではなく、畑一面に碁盤の目のように白い水糸でもって3メートル四方の方眼が組まれており、数箇所が坪掘りされていた。今で言うところのグリッド調査である。このような調査方法を採用するのは東大の先生に多いと岩崎先生が話されていた。

掘立柱建物跡の写真撮影をする岩崎卓也先生 焼山地区で岩崎班が検出した
掘立柱建物跡(19×10m)

 護国神社の北方にある伊藤永之助碑の近くの調査地では、トレンチ砂層の下に粘土で築かれた土塁状の高まりがあり、その急斜面に破損瓦が多数顔を出していた。東北の古代城柵でも築地土塀が造成されていたということが判明していなかった時代だったので、「破損瓦を埋め込んで丈夫に、堅固に造った土塁」という担当者の遺構の説明であった。
 高名な先生の発掘調査を実見し、学びの毎日であった思い出深い国営発掘調査の一端を紹介させていただいた次第である。
 

 第7回
杉沢台遺跡のこと
− 昭和55年の調査、いくつかの思い出 −
 永瀬 福男(昭和56年〜60年勤務)
大高博康さんのこと
 「そこを掘るな!」・・・妻から聞いた私の寝言である。多忙と緊張の中で仕事をしていた。でも、無事に調査を終え、報告書を完成できた。これは大高さん(補佐員)の存在が大きかった。彼は、全日本大口径ライフル選手権で数回優勝したり、ツキノワグマ・ウサギ・キジや北海道でヒグマ・エゾシカ等の狩猟をしていた。彼の行動力・緻密さ・明るい性格は発掘調査員に必要な資質である。報告書に掲載されている大型住居跡の実測図や縄文後期の壺形土器の展開図は彼の手による。

土器の盗難のこと 
 貯蔵穴の底部にあったほぼ完形の深鉢形土器が盗掘された。これは私の油断であった。見学者に迫力のある場面を見せてやろうと、貯蔵穴に土器を長く置いていたためである。遺物は記録したら取り上げるのが鉄則である。それにしても、持っていったあの土器はどうしたのだろうか。

貯蔵穴

新しい研究法の導入のこと
 二枚貝の貝殻の年輪から採取季節を推定するとは驚きであった。東京大学総合研究資料館小池裕子氏(当時)にお願いしたが、発掘調査に貴重な資料を提供していただいた。多くの研究法が開発されているので、機会があったら積極的に導入したいものである。

大型住居の用途のこと
 長軸31m、面積222u。この建物の用途をずっと考えてきた。今はこう考えている。サケの燻製を大量に作るため。この考えは、退職後、アイヌのコタンや資料館を見学して得たものである。チセ(家)の囲炉裏の上に数千匹のサケが吊されていたのを見たり、資料館の方から「アイヌの人は年間1人200匹ものサケを食べる」、「サケはアイヌの人の主食である」という説明を聞いてからである。食べ方は、サケの燻製を湯で戻し、コンブや山菜を入れた汁物にする。そこで大型住居の用途を4つのポイント(@立地、A多人数、B広い空間、C炉)から考えてみた。@について。貯蔵穴からサケ、ニシン、サバ等の海水魚、ウグイ、フナの淡水魚が出土しているので、遺跡は河口の近くにあり、サケ漁に適した場所であった。Aについて。住居を建造する(竪穴を掘る、丸太材を切る、運ぶ、上屋を組む)にも、魚体の大きいサケを短期間に大量に捕獲し、処理する(内臓を取り出す、血やぬめりを洗う、囲炉裏の上に吊す)にも、多くの人手が必要である。Bについて。冬期間だけでなく、年間を通して食べるには大量の燻製をつくらなければならない。Cについて。建物の長軸線上に1間ごとに地床炉があり、赤く焼けて堅固であった。建物空間の隅々まで煙と適度な温度を供給していたのであろう。
 地域の人々が力を合わせて大型住居を建造し、サケを捕獲し、処理し、燻製を作る。サケの漁期(晩秋〜初冬)には働き手たちの宿泊場所でもあったろう。ひときわ大きいこの建物は、地域の人々の連帯のシンボルでもあったと思われる。 

大型住居跡

 第6回
世界で唯一、木造建造物群と噴火災害遺産
−胡桃館遺跡−
 船木 義勝(昭和56年〜平成13年勤務)
 1967〜1969年(昭和42〜44)の3年間、3次(調査主体:秋田県教育委員会・鷹巣町教育委員会)にわたって行われた胡桃館遺跡の発掘調査がある。当時学生だった私は、最初と最後の調査に参加させていただいた。調査は、岩手大学生中心によるもので、鷹巣中学校冬期寄宿舎を合宿所にして夏期休暇中の期間に行われた。

 最も忘れがたいのは、トレンチを設定し、スコップで掘り始めたが、スコップが刺さるのは耕作土(表土)だけで、シラス層(十和田火山泥流)にまったく刺さらなかったことである。ツルハシもその先端が刺さるだけであった。コンクリートにスコップ、ツルハシを刺すと言えば大げさだが、まさにそんな感覚であった。ベルトコンベアーはあったが、現在の小型掘削機はなかった時代だったのであろう。乾燥下だとコンクリートのように堅いシラス層は、水に弱いというか脆い土質である。そこで消防団のポンプ車で水をまきながらシラス層に立ちむかったが、今度はツルハシを振り下ろすと同時に顔面に泥水を浴びることになる。また手と腕の疲労が激しく、食事の際、箸を握れないほどであった。こんな思い出も今はなつかしい。

 このような発掘現場であったが、シラス層(厚さ約1m前後)のなかから木造建造物が建った状態で顔を出しはじめた時はうれしかった。B2とCと呼ぶ建物の壁面は、なんと板の上に板をかさねる板校倉で、板と板を支える柱がなく、土台(土居)材をもつ平地式建物であった。大学の授業で教わった掘立柱建物とは、似ても似つかぬ構造で、まったく新しい建造物が見つかったのである。この時の衝撃はいまだ消えない。胡桃館遺跡(西暦900年前後〜915年)は、世界で唯一、当時の木造建造物群が建った状態で全域保存されている火山噴火災害遺産でなかろうか。

B2建物の発掘調査風景

 発掘調査の開始からすでに46年目をむかえ、この間、奈良文化財研究所による建物部材調査が行われ、木簡も再発見されて、新しい知見が加えられている。しかしながら、従来の通説に大幅な修正を迫るものであっても、古代北東北史の社会像に変更を迫るような展開を見せていないのは、どうしてなのだろうか。遺跡の出土品や建物群だけを対象化するのではなく、北東北地域の社会的状況・自然環境などを読みながら、造営者の心性のなかに入り、遺跡の生きた景観に立ちあい、そこで確かめるすべはないものか。

 胡桃館遺跡を語るには、9世紀後半から10世紀前葉にわたる北東北の軍事・治安維持状況、延喜の軍政改革、北方交易・交流、境界世界・河川交通など、複眼的な視座で取り組み、むろん想像的なのだが、造営者との対話をめざすことであろう。この思い出深い胡桃館遺跡との出会いから46年、調査に参加させていただいた一人として、そろそろ私なりの胡桃館遺跡論を語ってみようと思案するこの頃である。

写真撮影用のヤグラ

 第5回
『これまで自分が見たこともない遺跡です』
と報告をした二つの遺跡
 大野 憲司(昭和56年〜平成17年勤務)
 秋田県埋蔵文化財センターで実際に発掘調査現場を担当したのは、意外に短く15年間でしかなかった。しかし、この間に携わった遺跡の一つ一つには、その土地や一緒に掘っていただいた方々との深い繋がりがあり、自分にとってどれもみな大切にしたい思い出である。そのような中で今回は、調査中に県教育庁文化課(現文化財保護室)から状況を聞かれ、『これまで自分が見たこともないすごい遺跡です』と報告したら、『お前がそう言うのならすごい遺跡だろう』と応じていただいた二つの遺跡のことを話したい。

 一つは、協和上ノ山U遺跡である。現在の秋田自動車道協和IC全体がすっぽりと収まるこの遺跡は、広場を放射状に囲む大型住居群をはじめ、縄文前期後葉の土器や石器等の多さは当時としては群を抜くものであった。中でも、後・晩期のものと見紛うばかりの石刀や石剣・石棒は、国学院大学教授小林達雄先生(当時)から「これまでの縄文時代の常識を千年以上さかのぼらせる遺跡」と評していただいた。そして、出土例が本当に稀であった二つの石製品に、<燕尾形石製品>と<カツオブシ形石製品>という名称を付けることができた幸運は何と言って良いやら。
燕尾形石製品 カツオブシ形石製品

 もう一つは、県内でもほとんど知られていない森吉狐岱遺跡である。この遺跡は、森吉山ダム建設事業に伴って水没する水田の代替え地として農地造成される予定地にあり、自分はその範囲確認調査を担当した。対象地が東西約600m、面積12万u以上と広大なため、40mに1本、南北方向にバックホーで幅1mのトレンチを入れ、その後人力で調査することにした。しかし、調査が進むにつれ、これはとんでもない遺跡ではないかと思い始めた。長さおよそ100〜200mのトレンチの全てに竪穴住居跡等の遺構があり、遺物も多く出土したのである。竪穴住居跡や遺物は遺跡西端では前期後葉、東に行くにつれ新しくなり、東端は後期初めのものであった。何より驚いたのは、巨大な捨場と総延長約470mにも達する土堤状盛土遺構であった。捨場は遺物包含層の長さが200mで、厚さは2〜3mもあった。盛土遺構は高さ0.8〜1.5m、幅10〜20mもあり、盛土の中や下に竪穴住居跡があった。つまり盛土遺構は、周囲から土を集めて竪穴住居跡に土を盛り続けた結果できたものであることが分かった。竪穴住居跡は遺跡全体では1000軒をかなり上回ると予想された。当時、県外を含め比較検討できるような遺跡はまだ無く、狐岱遺跡と極めて似ている青森県の三内丸山遺跡が話題になり始めたのはそれから数年後であった。しかし、結局遺跡は土盛り保存されることになり、発掘調査は行われなかった。もし発掘されていたらと思うこともあるが、今は「秋田には三内丸山よりもすごい遺跡が眠っているんだぞ」と言うことにしている。

狐岱遺跡遺物包含層

 今年思いもかけず、約20年ぶりで発掘現場をやることができた。楽しくうれしい毎日だった。そんな中で、やっぱり現場は作業員さんに面白いと思って掘っていただくための段取りや説明などが大切で、同時に「今掘っている所は遺跡のごく一部で、そこから自分たちが知り、見ることができるのは、当時の暮らしの百分の一以下のごく僅かなんだ」と自覚することも大事だと思った。

 遺跡を残すかどうかで上司と言い合い、地元の役場職員から「首になったら、おれのところで引き受けるから」と言ってもらった幸せ。いつも何か忘れ物をした様な感じになってしまう現場最終日等々。思い返すと、ああ・・・きりがない。

 第4回
堪 忍 沢 遺 跡 の こ と
 熊谷 太郎 (昭和56〜平成20年勤務)
 昭和61年、鹿角市西山地区の遺跡調査を担当した。遺跡は山深いところのやや急な斜面下に広がる狭小な平坦地であった。調査開始後まもなく、斜面の裾部周辺から異様な程多量の鉄滓(製鉄過程において、原料としての砂鉄に含まれる不純物が溶融分離し、炉外へ排出されたもの)と焼け土が確認された。急きょ斜面にトレンチを入れると、これまた多くの鉄滓が出土し、焼土の他、加熱されてまっ赤になった粘土塊が大量に検出された。このため、当初予定外であった斜面も調査の範囲に加えることにした。斜面はなかなかに傾斜がきつく、かっては山林であったため伐根には苦労したが、今まで経験したことの無い性格の遺跡だけに、気持ちが高揚してくるのを感じていた。

 遺跡は古代の鉄生産遺跡で、時代は平安時代中期の10世紀頃と判明、13基の製鉄炉と付属する作業場、炉体の構築に必要な粘土を採掘した採掘坑等が検出され、周辺には原料とした砂鉄の路頭も確認された。製鉄炉は、操業の最終段階で粘土で構築された炉本体を壊し、炉底の鉄塊を採取した後のものと思われた。最初の確認段階では、炉は崩壊した炉体粘土が積み重なり、不整形な塊となっていた。これを不要な部分を取り除き、残存している原形を現すまでの精査が大変で、根気のいる作業であった。

 当時鉄生産関連の遺跡が全国的に確認され始めており、中でも古代に属する製鉄遺跡が注目されていた時でもある。しかし秋田では単体での製鉄炉が幾つか検出されてはいたが、鉄生産遺跡そのものが確認された例はなかった。初めての事例ということになる。
 調査終了後現地に立ち、現在は静寂そのもののこの山あいの地で、約一千年前もの昔、多くの工人が声高に叫び合い、忙しく動き回り、タタラがいたるところ煙と炎を吹き上げていた様を思い浮かべながら、何かしら感動じみた思いにとらわれたことを覚えている。

堪忍沢遺跡全景
堪忍沢遺跡製鉄炉

 第3回
茂屋下岱式土器群・円筒下層式土器発掘の思い出
櫻田 隆 (昭和56〜平成23年勤務)
 高校入学早々に旧田代町の赤川遺跡で、「今時の若者はスコップの使い方も知らん」とか「櫻田っ!細心の注意を払って、大胆かつ大胆に掘れっ!!」と奥山潤先生、高橋昭悦さん、板橋範芳部長から叱咤激励されつつ、円筒下層式土器の発掘調査に参加して以来、県内では旧田代町下茂屋(現茂屋下岱)、大館市芋掘沢・上ノ山T(現山館上ノ山)・萩ノ台U・池内と、茂屋下岱式土器群・円筒下層式土器出土遺跡の発掘調査に携わってきた。
 その中でも円筒下層式土器調査の原点となった赤川・下茂屋、通過点となった大館市上ノ山Tと萩ノ台U、集大成としての池内は忘れられない遺跡である。

 赤川では、トレンチ一面に完形の円筒下層式土器が重なり合いながら敷き詰められた状態を見て驚愕し、高校3年直前の春休みに調査した下茂屋では担当したBトレンチで円筒下層b式包含層の下位に円筒下層a式包含層があり、その下位に薄い砂層を挟んでまた円筒下層b式の包含層が見られ、「何でa式の下からまたb式が出てくるんだ?」と疑問に思ったものである。高校卒業前に、奥山先生から「山内清男先生からa式とb式の分類について再検討するように手紙をもらった。個々の型式とするより、十腰内遺跡の報告書のように群類にし、直前型式と下層a・b式を包括する土器群として『茂屋下岱式土器群』を提唱し層位学的な再検討・分類を指向する」と伺ったことがある。

 三内丸山遺跡の大発見フィーバーに湧いた時期と同じく調査した池内では、県北内陸部で初めて大規模な前期集落の大半を調査し、各種遺構が直線的帯状並行に配置されていたことから、「前期の円筒土器分布圏の集落は、環状構造ではなく直線的帯状並行(列状)配置構造である」と結論づけた。また、台地に開析された谷と斜面には、大コンテナ6,000箱分の土器、石器が厚い層を成して堆積していた。土の中に包含されるものもあれば、土を含まない土器、石器だけの遺物層も存在し、台地上部に竪穴住居や土坑を掘削した際の土が捨てられて厚く堆積しているのも確認した。
 谷の最も下の土器堆積層で、39年前に下茂屋で初見した「円筒下層a式の下位の下層b式」土器が多数横倒状態で出土し、層位的にも米代川上流域では円筒下層a式直前に円筒下層b式類似の土器が存在するのは間違いないとの思いを強くした。

 大館市上ノ山Tと萩ノ台U、池内では、重なり、敷き詰められた土器の出土状態を全て実測図化して、やはり山内清男先生分類のb式下位にa式、そしてその下位にb式が出てくるのを確認したものの、『茂屋下岱式土器群』の内容分析には至っていない。他の研究者より多くの良好な『茂屋下岱式土器群』出土遺跡に遭遇したにも拘わらず、力量不足のため滑落遭難した感じがする。

 第2回 平鹿遺跡の水田
児玉 準 (昭和56〜平成23年勤務)
 増田町の旅館に泊まりこんで平鹿遺跡の発掘を始めたのは、1982年の、まだ寒い風の吹きつける4月半ばのことであった。

 現場は成瀬川近くのリンゴ栽培も盛んな水田地帯である。調査が終わり次第、稲の作付けをするという一角が調査範囲内にあったので、真っ先にそこに手を付けた。深く掘り下げたので田植え機械は入れない。そこで手植えをすることになった。それには私も加わって、型枠を転がしてから作業員さんたちと並んで田植えをした。ぬるりとして冷たい泥田の中に裸足で下りて、よろめきながらも苗を植える作業を体験したのは、私の場合、後にも先にもこの時だけである (写真)
ヾ(´_`)ノ。

 遺跡の土層は、現在の水田の耕作土を剥がすとすぐに耕地整理前の畦畔や水路が現れる。何十年か前の水田で、瀬戸物のかけらも混じっている。かまわずに掘り下げていくと、縄文晩期の遺物包含層に突き当たる。耕地整理前の畦畔はあちこちに残っていて、深い水路は縄文晩期の遺構を容赦なく破壊していたりすることもあったが、精査していくうちに、妙なものが見えてきた。酸化鉄の沈殿による細く赤茶色の線が2本並んでいて、その間に縄文晩期の土器埋設遺構がある。赤茶色の線はやがて少しカーブしてから直角に曲がり、もう一本の線はその反対方向にカーブしてからこれも直角に曲がっている。これも水田だ。平行する2本線の間は畦畔で、土器埋設遺構はそこが耕作を受けなかったので壊されずに残ったものと理解された。しかし、それまでの水田とは少し趣が異なって、なんとなく古そうにも感じた。1枚ごとの水田はとても小さいが、調査範囲の北西部に、何枚かの水田がある程度の拡がりを持っているかのようであった。すぐ近くには平安時代の竪穴住居や土坑がある。それらの遺構の埋土には十和田a火山灰が堆積し、出土した土器からもその年代は9世紀末から10世紀初め頃であることがわかる。


 
1982年といえば、仙台平野で各時代の水田跡が折り重なって検出され始めた年であり、津軽平野の垂柳遺跡では前年に確認された弥生水田の本調査が始まった年でもある。しかし不幸にも、今自分が立っている遺跡の足下に、そうした古い時代の水田跡の存在を見通す力は、その時の私の頭のどこにもなかったのだ。少し毛色の異なったそれら何枚かの水田跡が、弥生時代や平安時代まで遡るものかも知れないなどということは、その時にはつゆ夢想だにすることもなく、ただ漫然と何十年か前の水田と一緒くたにして処理したのである!
((((;゚Д゚ ))))。

 垂柳遺跡の水田は平鹿遺跡の調査が終わってから見学に赴いた。担当の遠藤さんの説明を聞きタワーに登って眺めると、津軽平野に整然と並ぶ弥生水田が一望され、その堂々たる姿には心から感動を覚えた。だがしかし、それでも平鹿遺跡のあの水田とそれとを結びつけたり、検出された平安の竪穴住居と関連づけてみることは全く思いもよらない事であったのである。ああ、あの時のあの水田はもしかしたら古い時代のものかも知れないと、はたと思い至ったのは、それから何年か経ってからのことである。なんと間抜けで愚かなことであろうか
( ̄ω ̄)。
 平鹿遺跡では砂沢式期の土器も出ているが、それはごく少数で出土地点も限られているから、水田跡は弥生時代のものではないだろう。とすれば、9世紀末から10世紀初め頃の竪穴住居に住んだ人たちが営んだ水田か。

 2001年になり、由利本荘市の横山遺跡では竪穴住居の近くにある平安時代の水田や水路が検出された。平鹿遺跡の水田はそのあり方とよく似ている。年代も一緒だ。その後、大仙市の半在家遺跡でも同じ頃の水田が見つかったし、長く半世紀の間埋没家屋とされてきた男鹿市小谷地遺跡の遺構は、農業用の灌漑堰であることが新たな調査によって判明した。横手盆地や海岸部の平野において、平安時代に稲作農業がかなり定着を見せていたことは、今や秋田県の歴史的事実となって揺るぎない。発掘調査の面目躍如と言うべきである。
 しかし平鹿遺跡を掘っていたあの時に、そこで見たあの水田跡を、もしや古代のものかという少しの疑念を持って見ることができていたなら、あるいは、どこの人でもいい、その状態を正しく認識のできる誰かが現地を見てくれたなら、仙台と津軽の平野で古い時代の水田跡が続々と白日の下に姿を晒し始めたその年に、秋田の横手盆地では平安時代の水田跡が同じように日の目を見ていたかも知れないのだ
ヽ(゚∀゚)ノ。
 浅はかな予断を持って事にあたることがいかに危険か。そして、自分の目でよく土を見てじっくり考えること。同時に他の人からも見てもらって考えを聞くこと。当たり前のそれらのことがいかに大切か。そのことは、その後12年間担当した払田柵跡の調査でも否応なしに体験することになる。

 無知と偏見に基づく無様な失敗談を掲げ、真摯に遺跡の発掘に取り組む人たちのお笑い草に供したい。ああ、そういえば、泥酔した旅館の相客と、夜中の2時過ぎに、犬に吠えられながらパジャマ姿で増田の街を歩いたことがあった。それもセピア色に霞む、遠く懐かしい思い出話ではある( ̄▽ ̄)’。

平鹿遺跡の水田
 第1回
 柴田陽一郎 (昭和56〜平成25年勤務)
 東北縦貫自動車道の秋田県側は鹿角市から小坂町を通るルートで、自動車道建設に伴う発掘調査は昭和54(1979)年に鹿角市の八幡平地区から始まった。秋田県教育委員会は同年4月、花輪字古館に事務所を構えた。小生を含めた、本年度から採用された文化財主事5人を中心にして、調査補佐員・補助員約15人で基本的に5チームを編成し、朝はここをベースにしてそれぞれバスに分乗し、途中で100人を超す作業員を乗せながら現場に向かった。1現場の作業員が数十人と多く、かつ数遺跡同時に発掘するようになった大規模調査の始まりで、秋田の考古学史上の大きな画期である。職員も作業員もこのような調査は不慣れな点が多かったが、皆で知恵と力を結集し、この年は6遺跡、昭和55(1980)年には実に18遺跡の調査を行っている。小生は途中で藤株遺跡(縄文時代 旧鷹巣町)など他の県北地域の調査に移ったが、鹿角市内では昭和56(1981)年度までの3年間で縄文時代から中世まで34遺跡の調査が行われた。
 秋田県埋蔵文化財センターは昭和56(1981)年10月に設置され、それまで県内3カ所に間借りしていた発掘調査事務所から職員が集まり、東北縦貫自動車道などの冬場の遺物整理作業も当センターで行うようになった。ここで働いていた職員は、当時玄関で撮った記念写真によれば、総勢約70人である。発掘調査事務所時代の経験も生かし、作業に不足な知識・技術をお互いに教授・共有・伝達しながら能力を高めていくという気風と熱気があり、現場も含めて色々な意味で啓発されるものがあった。今思えば、花輪のころも含めてキラキラしていた時期であったように思う。
 昭和60(1985)年度に同僚と2人で、カウヤ遺跡(第2次調査 古代製塩遺跡 旧象潟町)、蝦夷塚古墳群(古代 旧雄物川町)、石名館遺跡(第2次調査 縄文時代 旧仙南村)の調査に携わった。7月から11月まで、間はややあるものの、準備期間を挟めばほぼ連続的であった。ただし、石名館遺跡は昭和61(1986)年1月後半から2月前半の厳冬期の調査もあった。この他、カウヤ遺跡に先立つ5月・6月に、小生は派遣されて下岩ノ沢遺跡(平安時代 旧仁賀保町)の調査に、同僚は黒倉B遺跡(縄文時代 旧田沢湖町)の調査に従事したりして、忙しく県南を動き回った感がある。
 これらの遺跡は遺構・遺物の多寡はあったものの、それぞれの時期毎に遺跡の評価ができるものであった。報告書はいずれも単年度刊行と厳しい状況ではあったが、それなりの内容に仕上げる必要があったので、整理作業は担当者で分担し、お互いに励まし合いながら調査後の整理工程どおり行い、何とか年度末までの刊行に漕ぎつけることが出来た。なお私事で恐縮であるが、この年(昭和61年)の3月30日に自分の父親が急逝してしばらく欠勤した時も、同僚の頑張りで報告書の検品・発送などの業務を滞り無く進めてもらえた事を今でも感謝しております。

※旧鷹巣町(現北秋田市)、旧仁賀保町・旧象潟町(現にかほ市)、旧雄物川町(現横手市)、旧田沢湖町(現仙北市)、旧仙南村(現美郷町)
昭和33年蝦夷塚古墳群出土玉類
(横手市教育委員会所蔵)


カウヤ遺跡出土製塩土器 同 製塩土器口縁部外側 同 製塩土器口縁部内側

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