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ミニ・コラム
(平成26年度掲載分)

    
今年度の埋蔵文化財センターの主な事業を振り返って(第94回)

 今年度、埋蔵文化財センターが実施した主な緊急発掘調査としては、西板戸遺跡(大仙市南外)、峰吉川中村遺跡(大仙市協和)、小勝田館跡(北秋田市脇神)、貝保遺跡(八郎潟町)などの調査があります。学術調査としては、払田柵跡調査事務所が行った払田柵跡第148次調査です。発掘調査の概要は、これまでミニコラムやHP上に掲載されておりますので、ご覧いただければと思います。今現在、上記遺跡の整理作業及び報告書作成に向けて取り組んでおります。
 また、保管活用事業の中では、特に払田柵跡調査40周年記念事業として開催した記念講演会及び企画展が大成功を収めました。講演会では、新野直吉先生、岡田茂弘先生を講師に迎え、約340名の聴衆が熱心に聴き入っていました。また、企画展は充実した内容で、新聞の社説やコラムにも紹介され、県内外から見学者が訪れました。
 平成26年10月に文化庁から示された『適正な埋蔵文化財行政を担う体制等の構築について』の中で、「埋蔵文化財を包蔵する土地として地方公共団体により周知されている場所(以下「周知の埋蔵文化財包蔵地」という。)は、約46万か所(平成24年度文化庁調査)あり、全国に存在している。これらは、その土地に生きた人々の営みを示す遺産であり、土地に刻まれた地域の歴史そのものである。埋蔵文化財を発掘調査し、その価値を住民が共有することは、地域のコミュニティーを構築し、郷土愛を醸成することにもつながるものである」と記されています。このことを、当センターの各種事業を通して県民や地域の皆様に伝え実感していただけるよう、今後とも埋蔵文化財保護行政に取り組んで行きたいと考えます。その取組の一つとして、3月8日(日)に県生涯学習センター発掘調査報告会が開催されます。たくさんの県民の皆様から報告会に御参加いただき、県内の各発掘調査の成果を御理解いただければ幸いです。
   
井戸跡底から出土した曲物(峰吉川中村遺跡)  縄文土器が埋納された土坑(小勝田館跡) 
   
払田柵跡調査40周年記念講演会の新野先生  満席となった講演会場の様子 
         秋田県で見つかった古代絵馬(第93回)
 全国各地の神社や寺を訪れると、合格祈願や家内安全などを願った小さな絵馬を見かけることがよくあります。絵馬は、願い事をかなえたりそれが達成されたお礼として寺社に奉納するのが本来の在り方ですが、最近はお守りや装飾品としての価値もあるようです。古代では、小さな板に馬を主題にした単純な絵を描いていましたが、室町時代の終わりから大型化すると共に図柄も増加し、やがて江戸時代頃からは馬以外の多種多様な画題も主題として扱うようになってきました。
 さて、絵馬の製作はいつ頃から始まるのでしょうか。岩井宏實氏によれば、1970年代初めまでは、実物は室町時代末期のものが最古例として知られ、『本朝文粋』の「色紙絵馬三匹」の記述から平安時代中期の存在も推定されていました。ところが1972年、静岡県浜松市の伊場遺跡で奈良時代の層から、馬を墨で描いた絵馬が見つかり、今のところこれが最も古いようです(岩井1974『絵馬』法政大学出版局)。
 そもそも絵馬は、神社に生き馬を奉納する代わりに、板に馬の絵を描いて奉納したのが始まりです。『続日本紀』などの国史には、国家的な事業として降雨の祈願には黒毛の馬を、大雨を沈める祈願には白毛の馬を奉納した記事が散見します。農業や生活の順調な営みが期待されていたのです。また「神馬者河之精也」の記述も見られることから、古代には馬が水と関係し神の依代(よりしろ)であったと考えられていたようです。絵馬は、神に捧げる生き馬の形代(かたしろ)だったのです。
 秋田県でも、1989年に秋田城跡の土取り穴から横18㎝、縦11.5㎝の墨で書いた斑(まだら)模様の馬を、1997年には払田柵跡の外郭北門付近から横18.5㎝、縦9.6㎝のこれも墨で書かれた斑模様の馬を描いた絵馬が出土しました。秋田城跡の絵馬は、上部が破損して馬の頭部が欠落していますが右下に絵の痕跡が見られます。払田柵跡の絵馬は、右の半分近くが破損していますが、鞍の下の障泥(あおり)や手綱がしっかりと描かれています。この絵馬には、中央上部に紐を通した小さな孔があり、絵馬を確定付ける確かな証拠と言えるでしょう。どちらも板の大きさが同じくらいで、それに占める馬の在り方から、二つの絵馬の右下には何らかの図柄があったと考えられます。
 都から遠く離れた秋田城跡や払田柵跡で、都と同じ習俗の絵馬が見つかった事は驚きです。しかも秋田城跡の絵馬は日本最北端の例であり、払田柵跡の例は前足の動きなど秋田城跡の馬の描写と類似し、手綱・障泥が明確に表現されています。現代では個人の願いが託される絵馬ですが、古代には国家的な祈願に使われたことが秋田城と払田柵という城柵の出土から知られます。全国的に見ても再評価されるべき貴重な絵画資料と言えるでしょう。
   
秋田城跡の絵馬 
 
現代の大きな絵馬(上)と小さな絵馬(右下)
                (湖東八坂神社)

払田柵跡の絵馬 
 
払田柵外郭北門は、なぜ低地に造られたのか?(第92回)
 平成25年、払田柵跡の管理団体である大仙市は、外郭北門を立体復元しました。これで長森丘陵にある東西南北の外郭4門は全て復元整備されました。北門を除く3門は、丘陵上の地盤の安定した場に造られています。ところが、北門は現在でも雨が降ると水溜りとなる低地にあるのです。門が造られた時代には地盤が安定していたのでは?と思われるかもしれませんが、発掘調査の結果、門柱(クリ材で径70~80㎝)は当初据えた位置から1.35mも沈下していることが確認されたのです。しかも北門は三度建て替えられますが、いずれもほぼ同じ所に再建されるのです。なぜ沈下して倒れてしまうおそれがあるにもかかわらず同じ場所に造り続けたのか?その答えはピンポイントにこの場である必要があったからに他ならないと考えられます。では、この場である必要性とは何なのでしょうか。
  復元整備された外郭北門
写真右奥の一段高い平坦面が払田柵の中心施設のあった政庁跡です
 平成20年、大仙市教育委員会は払田柵跡の北西側に位置する半在家(はんざけ)遺跡を発掘しました。ほ場整備事業に伴う調査で、現在の水田下から古代(9世紀後半~10世紀前半)の水田跡とともに、その周りから大小の畦畔(けいはん)も発見されました。古代の水田跡は、由利本荘市横山遺跡(県史跡)と横手市(旧雄物川町)大見内遺跡でも確認されています。
 水田と畦畔、そういえば昔、教科書で「条里制」って習いませんでしたか?条里制とは、古代の土地区画制度です。耕地を6町 (約 654m) 間隔で大きく縦・横に区切り、その内部をさらに1町(約109m)間隔で区切ります。1町四方の区画を「坪」といいますが、秋田市にある「泉一ノ坪」は、条里制の名残の地名とされます。また現在、横手市役所(分庁舎)の所在地は“条里一丁目”ですが、ここには古代とされる「条里制遺跡」があることから、以前は“前郷字下三枚橋”であった住所を変更した経緯があります。
   半在家遺跡の水田と大畦畔
 水溜まり部分が水田、大畦畔の基部での幅は1.5m程度、高さは約0.3m、中央奥で十字に交差しています
 写真は北側から撮影していますので、払田柵跡は左奥にあたります
 話は大きくそれてしまいましたが、半在家遺跡の畦畔が条里制に基づく地割りによるものとすれば、その基準となる原点がどこかにあったはずです。ここに払田柵の外郭北門が登場するのです。
 地図を広げて見てみると、上の写真にある大畦畔の交点とは、外郭北門を起点として、西に24町(約2616m)、北に24町の位置にあたるのです。大区画である6町の倍数とも合致します。単なる偶然の可能性も否定できません。しかしながらです。水田が造られた時には間違いなく払田柵が巨大な威容を誇っていた時期と重なることを思えば、単なる偶然とは・・・・
 
 ぜひ、皆さんも整備された外郭北門の地に立って真偽の程を考えてみてください。ただし、今は降雪期。遭難のおそれがありますので、雪が消えてからとしてください。それまでは、埋蔵文化財センター展示室で企画展『払田柵跡-巨大城柵の実像に迫る-』をご覧いただいた上で、外郭北門=条里制の起点とすれば、北門はランドマークとして“その場にあり続ける”必要があったとする一担当者の説に「それは本当だろうか」」思い巡らせてみてはいかがでしょうか。
           土偶は遮光器を着けていた?(第91回)
 このホームページを御覧いただいている皆さんの多くは「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」を御存じでしょう。巨大な眼が強烈な印象を与える相当に異様な顔付きをしていて、まるで(実際に本物を見たことはありませんが)「宇宙人」をモデルにしたような土偶(粘土をヒト形に成形して焼きあげたもの)です。さらに、遮光器土偶の「遮光器」とは眼を覆う部分に狭い覗き穴を開けた一種のゴーグルで、雪国の人が雪に反射する太陽光で眼を痛めないために使うもののこと、そして土偶顔面の大半を占める巨大な両眼に見えるものが、実は顔に装着した遮光器を表現しているものだという考えから、この種の土偶が遮光器土偶と呼ばれるようになったということを御承知の方もいらっしゃるでしょう。
 この、言わば「遮光器装着説」を主張したのは、明治から大正初期に活躍した(東京)帝国大学人類学教室の初代教授であった坪井正五郎博士(1863年~1913年)です。博士は、当初、この種の土偶の顔付きが一般の人とは大きく違って奇異に見えることから、人ではなく神とか鬼とかの想像上のものであろうと考えました。しかし、実物を詳しく観察した結果、土偶の眼部の周囲には二重の輪郭があって眼部全体が凸形になっており、覆面のようなものを当てている様子とも考えられることに気付きます。さらに眼部中央の横線は覆面様のものの眼の部分に設けた隙間と考え、この覆面様のものこそが、シベリア東北部や北アメリカ極北地方の住民あるいはノルウェーの北極探検家であったフリチョフ・ナンセン(1861年~1930年)などが使用している遮光器と同じものだと確信するに至るのです。
    左図 遮光器土偶頭部
下段は秋田市の御所野地区からの出土品。右上は青森県の亀ヶ岡遺跡出土品ですが、後で紹介する土製仮面かもしれません。

右図 遮光器の実例
上段はシベリア東北部住民の獣皮製品、中段は北アメリカ極北地方住民の木製品、下段はナンセン氏が使用した木製品。

斎藤忠(編)『坪井正五郎集-上巻』日本考古学選集2 1971年 築地書館(刊)から引用
原典は、坪井正五郎「貝塚土偶の面貌の奇異なる所以を説明す」『東洋学芸雑誌』150号1894年   
 坪井博士のこの考えについては、遮光器を着けているのではなく眼の表現が次第に巨大化したものだとする反対意見もありましたが、この種の土偶を「遮光器土偶」と呼ぶことは土偶のイメージが浮かびやすいこともあってか定着していきます。今日、遮光器そのものと考えられる資料はいまだ発見されていませんが、遮光器土偶を含めた土偶の出土例は大幅に増加しています。そして、土偶に施された文様や一緒に見つかった土器の検討などから、土偶の顔付きや体形、文様などの変遷が明らかとなりつつあります。遮光器土偶についても、縄文時代晩期(今からおよそ3200~2500年前)の初め頃から中頃にかけて東北地方で盛んに作られたこと、そして遮光器様の眼部は実はそれ以前のより写実的な顔付きをした土偶の眼部表現から次第に変化していったことなどが分かってきています。

 ここでは、当センターの発掘調査によって発見された遮光器土偶や関連する出土品をいくつか紹介し、遮光器土偶の顔がどのように変化していったかを見てみたいと思います。
 
  縄文前期の土偶
(旧協和町上ノ山Ⅱ遺跡出土)
 高さ10.8cm
 頭部や腕と思われる部分はありますが、顔面はまだ表現されていません。現在のところ秋田県で最も古い土偶の一つです。
 
   
 
縄文後期初め頃の土偶
(旧田沢湖町潟前遺跡出土)
左:高さ8.3cm 右:高さ10.4cm
 秋田県を始め東北地方では縄文時代前期から中期の土偶は少なく、顔面を表現したものもあまりありません。縄文時代後期になると土偶は増加し、顔面も表現されています。
 左の土偶は顔の輪郭が楕円形で眉と鼻は「Y」字形に粘土紐を貼り付けて表現しています。鼻には2個の小刺突による鼻孔もあります。眼と口は小さな円形の刺突です。頬の線は入れ墨でしょうか。右の土偶は眉と鼻を表現した「Y」字形の粘土紐が剥がれています。より面長で顎が尖っていますが、左のものと目鼻立ちはよく似ていたと言えるでしょう。
 
  縄文後期中頃の土偶(旧象潟町ヲフキ遺跡出土) 高さ15.4cm
 頭部から額にかけて髪を大きく結ったかのように粘土紐が貼り付けられています。額の直下には円形の刺突ではなく、2本の短い横線を加えて小さな眼を表現しています。粘土を貼り付けた鼻には一対の鼻孔もあります。口ははっきりしません。
 
  縄文後期中頃の土偶(旧増田町八木遺跡出土) 高さ7.3cm
 頭頂部から左眼側にかけて欠損していますが、かなり大形の頭部です。額には縄文を施した水平な隆線が巡ります。鼻は高くて一対の鼻孔があります。右眼は全体が横長の楕円形にかすかに盛り上がり中央に横線が入ります。眼を閉じている様子でしょう。口は欠けて残っていません。耳には耳たぶに開けた穴に滑車形の耳飾りを装着した状態が表現されています。全体の顔付きはきわめて写実的ですが、眼の表現は後の遮光器土偶の表現の祖型と言えそうです。また、このような土偶の顔付きは、例えばデスマスクといった仮面を被ったものだとする考えがあります。
     
  縄文後期後半の土偶
(旧象潟町ヲフキ遺跡出土) 左:高さ7.5cm 中:高さ5.9cm 右:高さ6.2cm
 顔の輪郭や顔付きにはバラエティがあり、右のように異様な容貌のものもあります。一方、顔面の表現方法は共通していることから、いずれもほほ同じ時期のものと考えられます。眉と鼻は「Y」字形に粘土を貼り付けて表現し、一対の小さな鼻孔もあります。眼は楕円形の小粘土粒を貼り付けて中央に短い横線を入れて、口は同じく楕円形の小粘土粒の中央に短い横線または円形の刺突を加えてそれぞれ表現しています。眼が少し強調されてきているようです。
   
  縄文後期終末の土偶
(左:旧山内村虫内Ⅰ遺跡出土 右:湯沢市堀ノ内遺跡出土)
 左:高さ9.7cm 右:高さ10.9cm
 二つの土偶は顔付きが類似し、ほぼ同じ時期のものと考えられます。眉から鼻筋の粘土紐は「Y」字形と言うよりも逆「人」字形に変化しています。やや丸味のある鼻の頭にはやはり一対の鼻孔があります。眼や口の表現方法は前時期とほぼ共通しますが、眼の周囲にはヘラでなぞったような縁取りが加えられ、遮光器土偶の眼に近づいています。左の土偶は頭に櫛やかんざしを挿した様子を表現しているようです。右の土偶の頭頂部には粘土が剥がれた痕跡があり、同様な表現があったようです。
 
※矢印は鼻の位置
(JPG画像→
  縄文晩期初め~晩期中頃の土偶
(左・中:旧山内村虫内Ⅰ遺跡出土 右:旧森吉町向様田D遺跡出土)
左:高さ18.0cm 中:高さ16.2cm 右:高さ13.4cm
 写真の3体の土偶はいずれも眼が大きく強調されていて、遮光器土偶と呼べるでしょう。このうち、左の土偶が遮光器土偶の出現期である縄文晩期初めのもので最も古く、右の土偶が縄文晩期中頃の最も新しいものです。3体の顔を比べると、丸顔から横長へ、さらには扁平へと顔の輪郭が変化し、これと連動するように顔面全体の中で眼が占める範囲が広がっていることがうかがえます。眼部の表現方法では左の土偶は前時期の後期終末のものと共通しますが、中央と右の土偶では正に遮光器のように粘土紐で眼の周囲を縁取りするようになります。また、眼が拡大することによって押し上げられたかのように、鼻が顔面を上昇していきます。鼻の形も中央の土偶では横長の粘土粒に2個の浅い凹みを加えた豚鼻様のものになり、さらに右の土偶では双瘤の粘土粒に変化して鼻孔の表現が無くなってしまいます。一方、口は前時期の楕円形から幅が狭まって円形となり、顔の扁平化と連動してか両眼の間に押し込まれるようになります。右の土偶では、両眼周囲に巡る粘土紐の縁取り上にある丸い凹みに変化しています。
 このように遮光器土偶の顔付きの変化自体は、縄文後期中頃の土偶の顔付きからかなりスムーズに辿ることができます。残念ながらこれらの変化の根本的な原因は明らかではありませんが、鼻の表現が本来の形から変わってしまっていることなどを見ると、縄文時代晩期になって、突然、遮光器を装着した顔面を写実的に表現したという訳ではなさそうです。
     
  縄文晩期中頃の土偶(秋田市戸平川遺跡出土) 左:高さ6.1cm 中:高さ4.3cm 右:高さ6.8cm
 3点は上で紹介した遮光器土偶よりも少し新しい時期のものと考えられます。左の土偶は両眼の周囲が粘土紐で縁取りされ、遮光器状の表現を受け継いでいます。この時期より後は、このような遮光器状の表現は見当たらなくなるので、最後の遮光器土偶の一つと呼べるかもしれません。ところが、額には鼻の痕跡と考えられる双瘤の小さな粘土粒が残っているにもかかわらず、両眼の縁取りの中央下端に突然一対の鼻孔が新たに出現します。さらに口は丸から横一文字に変化し、眼の縁取りよりも下方に位置しています。このような変化は、それまでの遮光器土偶の顔付きの変化とはスムーズにつながりません。
 また、中央と右の土偶は大きく顔付きが異なっています。右の土偶は人間離れした容貌ですが、中央の土偶はかなり人らしい目鼻立ちになっています。眼は大形楕円形で中央にやはり横線が加えられていますが、粘土紐の縁取りは無くなります。眉から鼻筋が逆「人」字状の粘土紐を貼り付けて表現され、幅広の鼻の頭には一対の鼻孔がきちんとあります。これらの土偶の顔付きも前時期の土偶の顔付きにその祖型を直接認めることはできません。ただし、中央の土偶には眉・鼻や鼻孔、さらには口などの表現がよく似ていて、モデルとなったと思われる出土品が存在します。次に紹介する土製仮面です。おそらく左の土偶の鼻孔や口の表現も土製仮面の表現を新たに取り入れたものでしょう。
 
  縄文晩期中頃の土製仮面
(秋田市戸平川遺跡出土) 中:高さ9.0cm
 土製仮面のうち大形で眼の部分が開口したものは直接被る仮面として、写真のような小形で開口部が無いものは木製などの面の額辺りに付けて、いずれもシャーマンのような特別な人がマツリで使用したものではと想像されています。逆「人」字形の粘土で表現した眉と鼻や一対の鼻孔ななどは、戸平川遺跡の縄文晩期中頃の土偶だけでなく、先に紹介した縄文後期終末のものともよく似ていて、まるで先祖返りしたかのようです。 
     
  縄文晩期後半の土偶(横手市前通遺跡出土)
左:高さ5.7cm 中左:高さ5.8cm 中右:高さ6.2cm 右:高さ9.1cm
 終末に近い時期の土偶です。両眼や口はほとんどが横長の楕円形粘土粒の中央に横線を加えて表現されますが、眼はかなり小さくなります。また、容貌は再び人間離れした様子が顕著になります。これらの特徴は、上で紹介した縄文後期終末の土偶から縄文後期後半の土偶へとさらに遡って先祖返りしたかのような印象を与えます。ただし、右端の土偶のように顔が少し上を向いているのはこの時期の特徴です。土偶はこの縄文晩期後半以降減少し、弥生時代には一部の遺跡を除いて無くなってしまいます。

 ここでは秋田県埋蔵文化財センターが発掘した資料をもとに、土偶の顔付きの変遷を簡単に紹介しました。もちろん今回紹介したものは、多様な特徴をもつ土偶のうちのごく一部に過ぎません。ただ、ここで見てきたように、遮光器土偶の顔面表現は、縄文時代後期の中頃あたりから眼の表現が強調され、次第に巨大化するのと連動するように顔面全体が変化しながら成立したことがうかがえます。既に触れましたが、遮光器土偶は遮光器を装着した様子を直接表現したことによって出現したという訳ではなさそうです。
 ところが、実は遮光器に限定しなければ、仮面などの被り物を装着していると考えられる土偶は意外と認めることができるのです。遅くとも縄文時代後期初め頃には、仮面を装着した状態を表現した土偶が確実に存在します。代表的なものには、国宝に指定されている長野県中ッ原遺跡出土土偶があります(「仮面の女神」で検索してみてください)。先に触れたように、八木遺跡の縄文後期中頃の土偶も仮面を被ったものという考えもあって、仮面を装着した土偶から次第に遮光器土偶へと変化していった可能性も否定できないと思います。また、遮光器土偶の終末頃には、土偶の鼻や口などの顔面表現に土製仮面からの影響があったことがうかがえます。さらに、ここでは紹介できませんでしたが、遮光器土偶より後の時期には、大形の土製仮面を顔全体に装着した状態を表現した土偶もあります。前通遺跡の少し上を向く土偶は、あるいは小形の土製仮面を額に着けた状態が元々のモデルだったのかもしれません。土偶と仮面にはかなり密接な関係があったと考えられるのです。
 土製仮面はこれまでに見つかった数は全国で100点ほどときわめて僅かで、上で触れたようにシャーマンのような限られた特別な人がマツリで被って使ったものかと想定されています。一方、土偶は、土製仮面に比べるとはるかにたくさん見つかっていて、より多くの人たちが使ったものでしょう。想像を逞しくすれば、特定の限定された時季や場所でしか執り行われなかった土製仮面(場合によっては木製や皮製などの仮面)を用いる特別なマツリ、おそらくは秘密のマツリを、各地でより多くの人が再現、あるいは擬似的に体験するために土偶が使われたことがあったのかもしれません。
 いずれにせよ、遮光器土偶を始め土偶については、その製作の目的、使い方、無くなる理由などなど謎だらけです。土偶の謎は、その変遷や見つかった状態の検討、広くほかの時代や地域の出土品との比較などを行いながら、地道に解明していく必要があるでしょう。 

           峰吉川中村遺跡の調査を終えて(第90回)
 6月中旬から3か月余りにわたって、大仙市の峰吉川駅近郊にある峰吉川中村遺跡の発掘調査に従事しました。この遺跡は20年前まで旧中村集落として人が住んでいましたが、雄物川の築堤計画に伴って集団移転し、現在は荒蕪地になっていました。今回の発掘調査終了後には工事が始まり、旧中村集落の上には堤防が築かれる予定です。
 さて、発掘調査を行う上で、作業員さんの力は欠かせません。今回は調査予定面積が8,000㎡以上とかなり広いこともあり、作業員さんの数は60名に近い人数になりました。このうち数人の方が旧中村集落の出身でした。今回発掘調査が行われるということで、自分の住んでいた場所からどんな遺構が見つかるのか、またどんなものが発掘されるのか、という興味もあって参加されたそうです。
 私は、作業員さんたちから往時の様子などを聞き、きちんと調査をしなければと、気合いを入れて発掘調査に従事することができました。また、作業員さんたちは、調査が進むにつれて自分の住んでいたところが歴史ある場所であり、昔住んでいた人たちの様子がわかる遺構や遺物が発見できたことを大変喜んでいました。
 現在、発掘調査報告書の刊行に向けて整理作業を行っています。また、来年の3月8日(日)に秋田県生涯学習センターで行われる発掘調査報告会では、峰吉川中村遺跡の調査結果について報告します。興味のある方は、是非聴きにいらしてください。
作業風景 遺構の位置に立つ作業員さんたち
  小勝田館跡の発掘から「星に願いを」?(第89回) 
 環状列石が見つかっている伊勢堂岱遺跡の、すぐ隣りにある小勝田館跡の調査が終了しました。数ある遺構の中で、底面にまるで星の瞬きを思わせるような形の溝がある、縄文時代後期のフラスコ状土坑が見つかりました(写真①)。他に食料などを貯える貯蔵穴として掘られた土坑が、調査区の東側の縁から4つ出てきています(写真②)。表層に近いところから掘られている点や、付近では昭和の始め頃までそうした穴を掘っていたという住民の話などから、それらは近世~近代のものではないかと考えられますが、底には特別に手を入れた痕跡は見られません。3,500年以上の時の隔たりがありながら同じ用途の土坑が作られたのは、この台地が縄文時代から現代まで食料貯蔵に適した環境が続いているからなのかもしれません。星形の溝の目的としては、食料を腐らせる水分を取り除くためという説や、種類の違う食料を貯えるのに“しきり”を設けた痕跡だとする説などが一般的です。加えて興味深いことは、それが掘削しやすい四分割や八分割ではなく、敢えて星形のような五分割にしたところです。県内の類例では、底面を三分割した溝の例もあるようです。伊勢堂岱遺跡や漆下遺跡(どちらも縄文後期前葉~後葉、北秋田市)から出土した土器には、口縁部の突起の数が3や5という奇数になっているものが見られます。「3」や「5」という数に特別な意味が込められているのでしょうか?貯蔵穴底面にある星形の溝、いっそうロマンが広がる発見でした。
写真① フラスコ状土坑 写真② 東側の土坑
               うるし・漆の話(第88回)
 「うるし」には、発掘調査を行う者の誰もが、遺跡現地で気を使っていることでしょうが、やむなく触れてかぶれてしまった方もいるでしょう。この強烈な毒性があるにもかかわらず、英語ではジャパン(japan)が漆器をあらわすほど、その光沢のある美しさが日本を代表する工芸品として世界から高い評価を与えられています。また、「うるし」の語源は、漆木の紅葉と漆自体の「うるわしい」からきているとも言われているそうです。
 さて、日本の漆工技術の歴史は、今のところ北海道垣ノ島B遺跡のお墓の副葬品から、縄文時代早期前半(約9,000年前)まで遡ることが知られています。現代の漆工技術は仏教とともに多様な装飾技法が伝来し、従来の技術に受容され飛躍的に発展を遂げたと考えられています。
 秋田県でも、五城目町の中山遺跡から漆濾布や漆塗櫛が、秋田市の戸平川遺跡からはほぼ完全な形の籃胎漆器が出土するなど、縄文時代の技術の高さを裏付ける資料が多く見つかっています。特に中山遺跡では漆濾布など製作工程を示す道具が出土しています。
 たまたまこの両遺跡の調査に携わることができたというわけではないのですが、1998年の秋に川連漆器の里、湯沢市川連町をブラブラ歩き、木地師や塗り師の方を訪問し、縄文時代の漆工芸についていろいろなお話をうかがうことができました。
 川連漆器の製造工程では下塗りや仕上げ塗りの際には“馬の尾”を利用した刷毛を使用するとのこと、縄文時代にはこの刷毛の代わりにどんな道具を使用していたのでしょうか。漆器の仕上げには塵や埃を遮断した、湿度の高い密閉した狭い部屋を使用します。凝固しやすく溶解する薬品のない漆を縄文人はどのような具合に管理していたのか。現在と比較しながら縄文時代の漆工技術に益々興味を覚えたものです。
 これまでのところ、縄文時代の遺跡からは漆塗りに用いられた動物の毛の刷毛などは見つかっていませんが、いずれ低湿地遺跡などから発見の報が届くものと思われます。その日を待ちながら、今宵は川連漆器の朱杯で地酒をほどほどに・・・。

 写真は川連町を訪問した際に木地師や塗り師の方からいただいた品々である。
粗割り→木地挽き ナタ・チョウナなどによる荒挽き
   
木地挽き  地塗り→中塗り 
  北秋田市藤株遺跡の調査報告書ができました(第87回)
 平成24年度に発掘調査した「藤株遺跡」の整理作業が終了し、報告書が刊行されました。これまでにも報告会やコラムなど、速報としてお知らせしてきましたが、この報告書の内容が正式なものとなります。報告書には、過年度調査で得られた成果も加えて、今回の調査で明らかになったことを詳しく記載していますので、県内在住であればお近くの図書館で直接に、県外の方でも秋田県埋蔵文化財センターのホーム・ページから「遺跡資料リポジトリ」のリンクをたどって、PDF版をご覧いただけます。是非、興味ある方はご覧下さい。藤株遺跡報告書PDF版はこちら。
内容の一部を紹介します。遺跡では、縄文時代の後期(約4,000~3,000年前)の壁沿いに小さな柱穴が円形に並ぶ竪穴建物跡が7棟見つかりました(写真①)。また、同様に小さな柱穴が円形に回るものの、壁が捉えられず炉も確認できなかった建物跡(円形柱穴列建物跡)が10棟見つかっています(写真②・③)。写真②のような建物跡は同じ時代の大湯環状列石でも見つかっています。藤株遺跡の東約4kmには大湯環状列石同様のストーン・サークルで有名な伊勢堂岱遺跡がありますので、これら藤株遺跡の建物跡は伊勢堂岱遺跡とも何かしらの関係をもつものかも知れません。小さな柱穴が円形に整然と並ぶ構造の建物跡は、本県では縄文時代後期の県北部米代川流域に多く認められますので、大湯環状列石や伊勢堂岱遺跡など、環状列石が営まれた時代の人々の住まいであったと考えて良いのかも知れません。
 当センターでは、報告書の刊行に合わせて、11月1日(土)に沢口公民館(北秋田市脇神)で、11月21日(金)には生涯学習センター(秋田市山王)で、藤株遺跡の報告会を実施します。報告会では、報告書の内容をスライドで分かりやすく説明する予定です。詳しいことは当センターのHPか、中央調査班(018-893-3901)にお問い合わせください。お待ちしております。
写真① 写真②
   
写真③   
              「秋田の古代を掘る」(第86回)
         ―3史跡連携による新たな取り組み―

 今年度「秋田の古代を掘る」として、放送大学の面接授業に取り組む機会が得られましたので、紹介します。
 この授業は、秋田市秋田城跡・大仙市払田柵跡・横手市大鳥井山遺跡という3つの国指定史跡の発掘調査成果について、実際の史跡調査にあたっている調査員が担当し、また史跡秋田城跡を見学して出土遺物などに触れることにより、秋田県の古代について理解を深める主旨で行っています。
 秋田城跡は733(天平5)年に出羽柵が秋田高清水岡に移転し、後に「秋田城」と呼ばれるようになりました。また、横手市大鳥井山遺跡は前九年合戦(1051年~1062年)・後三年合戦(1083年~1087年)の頃に、清原光頼・頼遠の親子が拠点とした「大鳥山」である可能性が指摘されています。
 秋田城跡や払田柵跡は古代城柵と呼ばれ、律令国家が東北地方経営のために設置した、政治と軍事の拠点となった役所の跡です。払田柵跡は、9世紀初めに造られた東北最大級の城柵遺跡であることが、調査により明らかになっていますが、「払田」という地名をとって払田柵跡と呼ばれています。昭和5年に当時の文部省により発掘調査され、翌年には秋田県初めての国史跡に指定されました。しかし文献に記録が残されていないため、「無名不文の遺跡」と報告されました。以後、様々な学説が示されていますが、文献に記録が無い以上、その実体を明らかにするためには、考古学的な研究手法に頼らざるを得ないとして、秋田県は昭和49年に払田柵跡調査事務所を設置し、その実体を明らかにするため学術調査を進めています。
 このように払田柵跡では、文献に記されない城柵の実体解明のため調査を継続しています。いっぽう秋田城跡では、発掘調査成果をもとに、記された歴史記録を具体的に裏付けるため、また大鳥井山遺跡では、清原氏の拠点として記された「大鳥山」かどうかを検証するため、調査を進めています。記録に残らない史実を明らかにし、文献記録を補完することが目的であり、そのための計画的な調査がそれぞれに進められています。
 この3史跡の発掘調査成果をもとに秋田の古代について取り上げ、来年度以降もこのような機会を継続できればと考えています。
発掘された外柵南門から長森をのぞむ(平成4年) 史跡公園としての整備が進む払田柵跡と
発掘調査のようす(平成25年)
              使えるものは最後まで(第85回)
         ―古川堀反町遺跡出土陶磁器から―

 江戸時代の遺跡を掘ると様々な遺物が出土しますが、その主なものは陶磁器です。この時代、肥前(佐賀県・長崎県)や瀬戸(愛知県)、美濃(岐阜県)などで大量生産され、日常雑器として全国的に使用されていました。秋田県では、特に日本海経由でもたらされるため肥前産のものが多く流通していました。
 その出土陶磁器のいくつかには、一度割れた後、再度接着して使用されていたものがあります。接着剤としては、漆や白玉(鉛ガラス釉薬)を使用しています。白玉を使用した修繕を焼継といいますが、その技術は寛政年間(1790年前後)からはじまり、焼継師という専門職人がいたことも分かっています。焼継の技術は、新しいものを買うよりも安価であり、陶磁器の売り上げにも大きく影響を与えていました。ちなみに焼継以前は漆を接着剤にした漆継が用いられ、蒔絵師が行っていたそうです。この焼継ですが、割れた部分に白玉を溶かして接合するため 、接合部分にはガラス質の跡が残ります。また焼継の際に、職人が自分たちの仕業であることが分かるように、赤釉で印や名前を付けたりするそうです。
 さて、現在の秋田中央警察署(秋田市千秋明徳町)にあった古川堀反町遺跡(秋田藩の家臣であった小野岡家・根本家等の屋敷跡)でも、これらの焼継を施した陶磁器がいくつか確認されています。その一つをここでご紹介します。
 写真①・②の鉢は18世紀末から19世紀半ば頃に生産されたものです。写真①下にある高台内の赤い印のようなものは、焼継師の印でしょうか?その他、焼継したガラス質釉で別の文字も見られます。写真①の高台内には「長町」と「い●(●は解読不明)」、写真②の高台部付近には「女 キノ」がありました。長町は古川堀反町遺跡の遺跡名になった古川堀反町と対面片側町の「土手長町」に由来するものと考えられます。焼継師がお客さんの住所を入れたものかもしれません。すると、「女 キノ」はお客さん?ここで秋田県公文書館に行き、古川堀反町遺跡に居住した方々の系譜を調べてみました。残念ながら、古文書に「キノ」という女性の名前は記されていませんでした。となるとこの「キノ」という女性はどんな人だったのか?もし武家の出であれば、焼継師も呼び捨てにはできなかったでしょう。となると、屋敷の奉公人の可能性も出てきて、想像もふくらんできます。こうした古文書に残らない人々の存在に気づくことも、考古学のおもしろいところです。この鉢が、こんなに破損していても使用されていたことを思うと、所持した方の鉢に対する思い入れが伝わってくるような気がします。
写真① 写真②
           さあ、学校を飛び出そう!(第84回)
     ―「発掘調査中の遺跡へ」「埋蔵文化財センターへ」―


1 「発掘調査中の遺跡へ」行ってみませんか。
(1)発掘調査中の遺跡の見学
 実際に発掘調査を行っている遺跡で、昔の人々の生活の跡を見てみませんか。調査中の遺跡で、発掘調査の方法を学んだり、調査で分かった遺跡の内容について、調査員の解説を聞いたりします。8月28日(木)には発掘調査中の西板戸遺跡を大仙市立南外小学校5・6年生39名が見学しました。カマド状遺構、井戸跡、掘立柱建物跡および出土品を順次見学し、「トイレはどこにあったか?」「建物は1階建てか2階建てか?」「柱はどうやって立てたのか?」「どうしてそこに建物があったとわかったのか?」「遺跡は発掘した後どうなるのか?」「お墓に入れられたお金は現在のお金でどれぐらいの価値か?」など、活発に質問が出され、調査員が適切に応答しました。(写真1)
 ※「大仙市立南外小学校西板戸遺跡見学資料」こちら
(2)発掘作業体験(夏休み自由研究、職業体験、インターンシップ等)
 発掘調査中の遺跡で移植ベラなどを使っての発掘作業を体験します。現在、発掘調査が行われている遺跡の情報については、埋蔵文化財センターホームページの発掘調査情報をご覧ください。
※各遺跡の作業環境や調査の状況など、条件によっては体験できない場合もありますので、希望日時を埋蔵文化財センター(電話0187-69-3331)までお問い合わせください。

2 「埋蔵文化財センターへ」行ってみませんか。
 本ミニ・コラム「埋蔵文化財センターのセカンドスクール的利用」(第82回)で埋蔵文化財センターで活動できる主なメニューについて掲載しています。ここでは、出土品の整理作業体験について紹介します。
(1)出土品の洗浄
 土器や石器についた土を洗い落とし、元の姿を取り戻していく作業を体験します。
(2)拓本どり
 画仙紙という紙に、土器の文様を写し取る作業です。(写真2)
(3)土器の接合・復元
 バラバラに割れた状態の土器片を繋ぎ合わせ、元の形に復元していく作業です。

写真1 西板戸遺跡見学(大仙市立南外小学校) 写真2 インターンシップ
整理作業体験「拓本どり」(大曲工業高校)
 
                小勝田館跡発掘調査その2 (第83回)

 5月下旬に調査を開始してから、はや3か月が過ぎました。1万㎡以上もある調査区も半分以上調査が終わり、秋を迎えていよいよ後半戦です。
 今年の北秋田市の夏は雨続きで困りました。すぐ近くを流れる米代川も、何度か氾濫しそうな濁流になりました。現場で雨が降っていない時でも、近隣では局地的に土砂降りになっていることもありました。最近の異常気象は、野外で活動する私たちの発掘調査にも大きく影響するので困ってしまいます。
 さて、調査の方では縄文時代の落とし穴が2基見つかりました。幅0.3m、長さ3.2m、深さ0.6mほどの細長い溝なのですが、とにかく幅が狭い!そして深い!。これが、掘りにくいんです。頑張れば底に手が届きそうな微妙な深さなので、苦労しつつもなんとか掘り下げています。どうして、縄文時代の人はこんなに幅が狭い落とし穴を作ったのでしょうか。うさぎなら落ちれば脱出できないな、とか、鹿なら足を取られて身動きできなくなるな、などと想像しているところです(写真1)。
 遺物も数は少ないですが、いろいろ見つかってきました。近くの伊勢堂岱遺跡と同時期の板状土偶の下半分や、磨製石斧、石鏃、石槍、石匙などの石器も出土しています(写真2)。
 これらは、来る9月27日(土)に実施する現地見学会において公開いたしますので、ぜひご来場ください。お待ちしております。(詳しくは「小勝田館跡現地見学会のご案内」をご覧ください。)
写真1 落とし穴を掘っています。 写真2 出土した石器と土偶
埋蔵文化財センターのセカンドスクール的利用 (第82回)

 平成26年度が始まって間もなく4か月。センターでは、遺跡発掘調査が本格的に始まっています。一方、資料の普及・活用の取り組みも始まり、さまざまな活用事業も始まっています。また、学校からのセンターでの見学対応や出前授業などがあり、セカンドスクール的利用として取り組んでいます。これまで、小学校を中心に24校、677名の利用がありました。ありがとうございます。センターでは、主に次のような活動を行っています。
 1 センター内の見学
 センター展示室には県内の遺跡から出土した土器や 石器などが多数展示されており、原始から古代を中心に学ぶことができます。また、出土した土器や石器等の復元や実測等の整理作業、収蔵の様子を見学します。

 

 
 展示室の見学  収蔵庫の見学
 2 土器・石器体験
 遺跡から出土した土器や石器に直接触れて観察する体験です。写真でしか見ることのできなかった本物の遺物、しかも県内の遺跡から出土した遺物に触れる貴重な機会です。どんな使い方をしたのか、どのようなくらしをしていたのかを出土品を手に取りながら考えます。また縄文土器の模様の付け方も体験できます。

 
 石器の観察  土器の観察
 3 石器づくり体験
 槍や弓、ナイフなどに使われた石器はどのようにしてできたのか。旧石器・縄文時代と同じ道具・石材を使い、実際に石器をつくりながら考えます。
 
 石器づくり
 4 出前授業
 センター職員が学校にお邪魔して出土品をもとにしながら歴史や総合学習の授業のお手伝いをします。一番の特徴は、県内の遺跡から出土した本物の土器や石器を間近で見たり、触ったりしながら歴史を学べることです。センター見学が難しい場合には出前授業で対応できます。

 
 出前授業の様子  出前授業の様子
 5 古代体験キットの貸し出し
 住居復元や土器、狩猟・ 漁労の用具、縄文時代の食材採集や調理についての実物や模型のキットを教材として活用できます。本物に触れることで興味・関心を高め、教科の授業や総合的な学習の時間での活動を充実する一助となります。

 
 土器資料キット  狩りと漁キット

 このような活動をとおして、実物に触れながら、「高度な加工技術を持っていたことがわかった」、「昔の人々の生活の知恵や思いを知ることができた」といった感想をいただきました。 
 当センターのセカンドスクール的利用では、学校教育支援の役割を担っており、実物や本物に触れる感動を味わうことができ、学校における教育活動とは別の形で学習への動機づけや学習内容をさらに深めることができます。以上のような活動をとおして、教科書では知り得ることのできない秋田の歴史、身近な歴史を少しでも伝えていくことができればと思います。なお、セカンドスクール的利用や体験キットの貸し出しは随時受け付けております。ご利用ください。

                古代発見!バスツアー (第81回)

 今年度前半は、「春の古代城柵探訪コース」と銘打って、古代「由理柵(ゆりのさく)」推定地とされる由利本荘市内の遺跡の見学を行いました。秋田市発着で同じコースを2回実施しましたが、各回定員を上回る応募があり、抽選させていただきました。
  「由理柵」とは、平安時代に出羽国の庄内地方から秋田城に至る途中にあったと考えられる古代城柵で、『続日本紀』の宝亀十一年(780年)八月二十三日の条に「由理柵は、賊の要害に居りて、秋田の道を承く、宜しく兵を遣わし相助けて防御せしむべし」という記述があります。大正時代に由利郡南内越村谷地集落で耕地整理の際に柵木が発見されたり、昭和60年に旧西目町で水路工事の時に墨書土器が多量に出土したりしたことで、由利本荘地域では古代「由理柵」の可能性が以前議論されてきました。
 近年この地域では、ほ場整備事業や日本海沿岸自動車道建設に伴う発掘調査で古代の集落跡や水田跡、大量の祭祀遺物などが見つかり、再び「由理柵」との関連が注目されるようになりました。こうした中、有志の研究団体「由理柵・駅家(うまや)研究会」が発足し、「由理柵」を明らかにする発掘調査が行われています。
 今回は、この「由理柵・駅家研究会」の方々に御協力をいただき、墨書土器や掘立柱建物跡が見つかっている旧西目潟東岸の井岡遺跡・客殿森遺跡、大型の掘立柱建物跡や祭祀遺物が出土した南内越地区の上谷地遺跡・新谷地遺跡、古代の水田跡が発見された横山遺跡の3か所を探訪して回りました。特に、井岡遺跡では、研究会が6月に実施したばかりの発掘現場を見学でき、見つかった土坑や土師器など実際に古代の遺構や遺物を目にすることができました。
 参加者のみなさんには、遺跡の解説を聞いたり、現地を踏査したりしてもらいながら、どこに由理柵があったのか自分なりに分析し、推定していただくツアーとなりました。
 お忙しい中、今回のツアーに全面的に御協力をいただいた「由理柵・駅家研究会」の方々に深く感謝申しあげたいと思います。

 
 井岡遺跡の見学

                小勝田館跡の発掘調査 (第80回)

 北秋田市小勝田館跡では、6月から発掘調査を始めました。
 調査区は畑や林だった場所なので、立木を伐採した後の切り株がたくさんあり、セミの抜け殻がついていたり、カエルが張り付いて一休みしていたりしています。
 これらの切り株は、切られた後から変化のないものと、切られた後に脇芽が次々と育って青々とした葉を茂らせているものとが入り混じっており、その生態の違いは観察していて興味深いものがあります。
 切られた後から変化のないものはスギの切り株で、縦に長くはがれる特徴的な樹皮からひと目でそれとわかります。太く立派な幹をしており、植樹されて丁寧に手入れされていた木々だったようです。
 秋田県内ではスギの植林が目立ちますが、スギ自体は自生していた木です。平安時代に、大仙市払田柵跡では柵木として用いられていました。また、小勝田館跡と同じく北秋田市内にある胡桃館遺跡では、2007年度の調査で、建物の建築部材として西暦900年頃に伐採されたスギが使われていることがわかっています。古代から中世の遺跡として、森吉山ダム建設事業の際に調査された地蔵岱遺跡では、出土した木製品の9割以上がスギを素材としています。このように秋田を代表する木であるスギは、古くから盛んに利用されてきたのです。
 一方、脇芽が青々と葉を茂らせていく切り株には、シイやクリ、ニセアカシアなどがあります。幹を倒されても新芽を出す生命力や、芽を出したクリの実があることなどから考えて、これらは自生していたものと考えられます。小勝田館跡の南にある伊勢堂岱遺跡を始めとして、県内各地に営みの痕跡を残した縄文時代の人々は、こういった植物の生命力の恩恵を受けて生活していたことでしょう。
 現在小勝田館跡では、胡桃館遺跡と時期が近い平安時代の竪穴建物跡と、伊勢堂岱遺跡に時期が近い縄文時代後期(約4,000年前)の土器埋設遺構が見つかっています。小勝田館跡がそれぞれの時期にどのような姿をしていたのか、調査はまだまだ続きます。

出土した大黒天の土人形 お金の出土状況
スギ(手前)とニセアカシア(奥)の切り株
芽を出したクリの実
 出土した大黒天の土人形   お金の出土状況 
 平安時代の竪穴建物跡   縄文時代後期の土器埋設遺構 

                西板戸遺跡出土の土人形 (第79回)

 現在、大仙市南外にある西板戸遺跡の発掘調査を行っています。遺跡は集落跡で、主な時代は鎌倉時代ですが、室町~江戸時代の遺物もいくつか出土しています。
 その中から今回とりあげるのは、江戸時代の土人形です(写真左下)。袋をかつぎ、米俵の上に乗った姿から七福神の1人である大黒天であることがわかります。もともとは色が付けられていたようですが、風化してほとんど残っていません。
 そもそも土人形とは、江戸時代からたくさん作られるようになった素焼きの人形です。元祖は京都の伏見にある伏見稲荷でお土産として売られていた伏見人形で、人々の交流によって全国に広がっていき、江戸時代の後半には全国各地で土人形作りが行われるようになりました。
 県内でも数箇所で土人形作りは行われていたようで、秋田市の八橋(八橋人形)や横手市の中山(中山人形)では現在も土人形が作られています(厳密には中山人形の始まりは明治初期)。
 今回、土人形が出土した場所からは、江戸時代のお金(銭形平次でおなじみの寛永通宝です)も数枚出土しています(写真右下)。お金の下からは、ボロボロになった板状の木の破片が見つかっており、周りは浅い穴になっていました。
 土人形とお金は、どちらも江戸時代の墓に副葬品として納められることが多いものです。また、江戸時代には桶などに亡くなった人を入れて土葬するのが一般的であることから、見つかった木の破片は棺として用いられた桶などの底板で、土人形とお金は副葬品と考えられます。
 今回見つかった土人形は大黒天でしたが、大黒天といえば食物・財福を象徴する神様です。亡くなった人が、あの世で食べ物やお金に困らないよう、棺に納めたのでしょうか。土人形には江戸時代の人々の祈りが込められているようです。

出土した大黒天の土人形 お金の出土状況
出土した大黒天の土人形
お金の出土状況

                震災南三陸町派遣レポート (第78回)
 
           新井田館跡の発掘調査
 宮城県本吉郡南三陸町は、宮城県の北東部に位置します。東は太平洋に面し、三方を山に囲まれた自然豊かな町です。志津川湾を囲む沿岸部は、リアス式海岸特有の美しい景観が有名で、蛸をはじめ、牡蠣、帆立、鮑、若布、雲丹、銀鮭など、海の幸の宝庫です。
 この豊かな恵みの海が、平成23年3月11日、突然大津波となって町を飲み込み、死者・行方不明者が800人以上に達し、役場庁舎を含む町内の建物の約60%が全壊しました。
 あれから3年、町中で復興の工事が進んでいます。「職住分離、高台居住」を基本に、津波に襲われた旧市街地は標高10m程度まで盛り土をして商業・産業区とし、居住区は周辺の山地を切り崩して造成した高台に移転するというものです。現在、48地域、計2,195戸の仮設住宅で暮らす町民の多くが、高台に造成される防災集団移転宅地や災害公営住宅に期待を寄せています。
 志津川中央地区では、中世城館の新井田館跡の全域が造成工事で消滅することになり、遺跡を記録として残すために、平成25年3月から平成26年3月まで発掘調査が行われました。発掘調査は、全国から南三陸町に派遣された3名に加え、宮城県教育委員会に派遣された6名など、計10名の調査員が担当しました。(交替者等も含む。発掘現場は常時7名体制。)派遣元それぞれの技術や方法、各自の経験を持ち寄り、正確で迅速な発掘調査を行うことができました。新井田館跡の発掘調査成果は、こちら(南三陸町のHPの現地説明会資料)をご覧ください。
 発掘調査に当たり、約60名の町民の皆さんに発掘作業員をお願いしました。毎日一緒に仕事をしながら、震災のこと、震災前の生活のこと、これまでの人生経験、発掘への思いなど、たくさんのお話を伺うことができました。少し紹介します。
 最高齢82歳の女性は、津波で農地が冠水する被害があったそうですが、それにもまして津波で住宅が流された被災者の役に立てれば、という思いで、バスなど3本を乗り継いで毎日発掘現場に通ってくれました。
 やはり82歳の男性は、南三陸の歴史や津波の体験を子々孫々に語り伝えなければならないという使命感から、平日は発掘調査で働き、遺跡の中で館跡や板碑のことを考え、休日も板碑探索や震災の語り部として忙しく活躍しています。
 発掘調査後に造成される宅地で我が家の再建を目指す人もいました。77歳の男性は、3年前に建てたばかりの総檜造の家を津波で流されてしまいましたが、再び総檜造の家を建てようと、所有する山林の手入れを怠りません。仮設住宅で別々に暮らす孫たちと一緒に暮らし、この場所の発掘をしたことを孫に自慢したい、と話していました。
 発掘調査が終了する平成26年3月、50歳代の女性から、もっと発掘現場がないかと聞かれました。一日中仮設住宅の中で過ごしたくない、外に出ていろいろな人と一緒に働きたい、という強い思いでした。発掘に出ていたこの1年間は、初めての仕事でたいへんだったけれどとても気が紛れたのだそうです。
 仮設住宅団地の地区会長を務める70歳代の男性は、災害公営住宅や防災集団移転分譲地が早く完成してほしいという仮設住民の思いを背に、そのために少しでも力になれば、と発掘調査に参加してくれました。震災前、避難所、仮設住宅団地、そして高台移転後とめまぐるしく変化する地域コミュニティーの現状と課題を教えてくれました。
 60歳代の男性は、震災当日は、大型船に乗船して漁をしていたので、地震も津波も直接は体験しなかったそうです。陸に戻り、惨状を目の当たりにして、別の国に漂着したのかとさえ思ったくらいでした。その後、町の復興のためにどんなことでもやろう、と決意し、海の男が陸の発掘調査で働いているんだ、と語ってくれました。
 住宅、日常生活、産業、地域コミュニティーなどの復興はまだ先が見えない状況でありながら、町民の皆さんの真摯で前向きな思いにふれ、逆に元気づけられた思いでした。
 平成25年11月23日、発掘調査の成果を公開する現地説明会を開催したところ、県内外から300人以上の人が来訪しました。新井田館跡の雄大な姿、当時の巧みな技術に、町民からも消滅を惜しむ声が聞かれました。復興成った後も新井田館跡発掘の記憶が受け継がれていくことを期待したいと思います。

新井田館跡の全景(写真提供:南三陸町教育委員会) 空堀を発掘調査している様子
・新井田館跡の全景。室町時代の山城全体を発掘調査し、全貌が明らかになりました。
・奥は志津川湾。館跡の主廓からも一望できます。
・左側の平地は新井田地区。右奥の平地は志津川市街地。どちらも津波で被災し、建物は皆無。
写真提供:南三陸町教育委員会
・空堀を発掘調査している様子。
・右側は主廓で、堀底から高低差約8mの急斜面が切り立つ。この急斜面は岩盤を削って造り出した切岸。

現地説明会の受付をする発掘作業員 平成26年1月の調査風景
・現地説明会の受付をする発掘作業員。左から2人目が最高齢82歳の女性。 ・平成26年1月の調査風景。主廓の縁辺の土塁を掘削しています。
・太平洋側の冬は、降雪は少ないが、気温は氷点下10度以下。土は固く凍り、掘削は困難を極めました。
・造成工事に影響が出ないように発掘調査を急ぎ、通常は行わない冬期間も発掘を行いました。
                  震災宮城派遣レポート (第77回)
 
   山元町の発掘現場から -人々を励ます古代からの贈り物-

 宮城県の山元町は、福島県境の町です。冬は温暖で「宮城の湘南」と呼ばれていますが、夏は涼しいところです。特産品には、ホッキ貝(名物ホッキ飯)、いちごなどがあります。 山元町は、震災で大きな被害を受けた町の一つで、700人近い方が犠牲となりました。現在は、常磐道、海岸堤防、除塩作業等の工事が行われ、全国各地(沖縄も)から集まったダンプカーが行き交い復興景気に沸いているような印象を受けますが、人口減少率は県内でも高く、大きな問題となっています。山元町は、仙台市の通勤圏内で、壊滅的被害を受けたJR常磐線が通勤・通学に果たした役割は非常に大きかったようです。その常磐線の内陸側移設に伴う発掘調査が昨年度から始まりました。工事に遅れが出ないよう多くの派遣職員が配置され、調査は順調に進んでいます。     
 月に調査が始まって間もなく、「坂本」という当地の地名が記された古代の土器が出土し、歓声があがりました。古くからこの地が坂本(現在は坂元)と呼ばれてきたこと示す貴重な遺物です。その後、福島の内陸部の人々がこの地に移ってきたことを示す内容が記された東北最古級の木簡が出土し、大きく報道され注目を集めました。ほかにも様々な発見があり、明らかとなった古代の郷土の姿に驚く人も決して少なくありませんでした。これらの調査成果は人々の郷土愛を育み、それが復興の原動力の一つとなっています。このタイミングで、しかも遺跡のごく一部を縦貫するにすぎない狭い鉄道用地から貴重な発見が相次いだことについては、不思議な運命を感じずにはいられません。まるで古代からの特別な贈り物のようです。
 町民にとって常磐線の復旧は悲願です。復旧の暁には車窓から、仲間や作業員さんと過ごした日々を懐かしみたいと思います。


工事中の海岸堤防 調査員の説明に郷土愛が呼び起こされる
工事中の海岸堤防 調査員の説明に郷土愛が呼び起こされる

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