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ミニ・コラム
(平成27年度掲載分)

さらなる連携を目指して
~小学校から中学校・高等学校へ~(第114回)


 「14,172」・・・・この数字は、今年度の埋蔵文化財センターへの来館者数(2月末現在)を表しています。次の表(年度別来館者数)をご覧ください。
年度 平成21年度 平成22年度 平成23年度 平成24年度 平成25年度 平成26年度
人数 4,938 3,961 5,280 8,837 7,709 8,691
 今年度の来館者が近年ではとても多かったことがわかります。これまでの事業の成果が、少しずつ実を結んできているように感じています。
 さて、このHPやミニコラム等でも紹介しているように、今年度も埋文センターとして各種の事業を展開してきました。その中でも、活用事業については「セカンドスクール的利用」ということで、のべ32校730名の小学生の皆さんに当センターを活用していただきました。遺物や施設の見学、土器や石器に触れる体験、意表をついた鋭い質問など、小学生が来館するたびにその元気な声でセンター内も活気づきました。また、大学との連携という点においては、秋田大学との連携事業として、歴史遺産(払田柵跡など)を活用した地域活性化策についての大学生の発表会を開催したことも含めて、今年度は県内外の大学生が例年以上に多く訪れた1年でもありました。ということで・・・・小学校・大学との連携の次に考えられることは、やはり中学校や高校との連携ではないでしょうか。小学生のあの興味・関心の高さを、歴史を本格的に学び始める中学生そして高校生にも広げていきたいものです。
 私はこれまで地歴公民科の教員として、県内の高校生に日本史を教えてきましたが、いかにして高校生に日本史への興味・関心を持たせるかについては苦慮していました。そんな数年前のある日、このHPで「出前授業」なるものがあることを知りました。内容を確認しようとためしに電話してみたところ、当時の所長さんが「それでは私が出前(授業)いたしましょう。」とのこと。その後順調にことが運び、『室町時代以降の郷土の歴史 ~洲崎遺跡(人魚供養札)を例に~』というテーマで女子高生に授業をしていただきました。いつになく真剣で、しかも楽しそうな生徒たちでした。このようなところからも連携できるものだと思います。そのためにもPRの方法などもさらに検討し、小学生時代センターに来て楽しかったと感じた児童が、中学生・高校生となってもまた訪問してみたい、と思えるような「埋文」にしていきたいものです。
 

『シタ(下)-・イェ(家)-ズ フォームの覚醒』(第113回)

 映画ファンにとどまらず、世界的にもブームを興している『スター・ウォーズ フォースの覚醒』。今回は映画にひっかけた標題『フォームの覚醒』にしてみました。
 2月23日といえば「富士山の日」。言わずと知れた日本一(ひのもといち)の御山ですが、古来より人々を魅了する理由の第一は、何といっても稜線の形(フォーム)の美しさではないでしょうか。別名「○○富士」と呼ばれる山々が数知れずあるほど、元祖のフォームの素晴らしさは誰にも異存がないところです。そして、大館市比内町で見つかった片貝家ノ下遺跡の竪穴建物跡。この遺跡は秋田県教育委員会による試掘調査で平成27年3月に発見され、遺跡の概要を知るための「確認調査」が同年9月から11月に実施されました。
 確認調査は遺跡の一部に幅1~2m、長さ数十mの試掘溝(トレンチ)を掘り、その中で見つかった遺構・遺物や土の堆積状態を調べて遺跡の時代や性格、さらには広がりなどを把握するものです。その第4トレンチで見つかった6棟の竪穴建物跡のうちの一つ(SI03)が、屋根の傾斜が確認できる例としては日本で唯一のものと今話題になっているのです。
 この竪穴建物跡の写真撮影のために、上面や断面をきれいにする作業を行いましたが、間近で見る屋根跡の美しさと言ったら! まるでコンクリートのように硬く固まったシラスを移植ベラでガリガリとけずりながら、そのなだらかなフォームのすばらしさを目の当たりにし、あたかも富士山の稜線に触れているような錯覚を覚えました。当時の在り様を実感できる発掘調査の醍醐味を、改めて肌で感じたひとときでした。

SI03 竪穴住居跡

富士山

SI03 竪穴住居跡断面図


横手市八木遺跡出土の磨製石斧の石材(第112回)

 最近、秋田県内では東成瀬村上掵遺跡出土の磨製石斧の石材について新たな評価が加わり、縄文時代の石材の流通が明らかになりつつある。本センターでも石材鑑定が行われていなかった石器があり、ここで紹介したいと思う。
 今回、紹介するのは1988(昭和63)年に発掘された八木遺跡出土の磨製石斧3点である。八木遺跡は横手市増田町、JR奥羽本線十文字駅から南へ約1.9㎞に位置する。縄文時代後期を中心とする集落と500基あまりの墓地から成り立つ遺跡である。出土遺物は土器が整理用コンテナで約800箱、石器は約5,700点、その他に土偶や土製品なども見つかっている。そのうち、磨製石斧は253点と1つの遺跡で出土する量としては非常に多い。磨製石斧の多くは破損しており、刃の部分に使用した痕跡もあることから木材の伐採や加工に使われたと考えられる。

八木遺跡 磨製石斧
 このうち、3点の磨製石斧の石材鑑定を行った。石材を知るためには、石材を構成する鉱物の量や種類を調べる必要がある。方法は、顕微鏡で石材中の鉱物などを調べる顕微鏡観察と比重の重い鉱物の量を調べるために水中に石器を糸でつるして、あふれる水の量から石器の体積を求めて比重を測る比重測定法、岩石中の磁力をもつ鉱物を磁石に引きつけられる強さで計測する磁気鑑定法の3つの方法で鑑定を行った。
 顕微鏡観察を行ったところ、まず①の石斧には長野・新潟県に産地をもつ蛇紋岩(じゃもんがん)に特徴的な蛇紋石と磁鉄鉱が含まれていることがわかった。それに対して②・③の石斧には透閃石岩(とうせんせきがん)(蛇紋岩が熱によって変化した石材)に特徴的なネフライト(軟玉岩)と言われる岩石が含まれ、結晶の透明感が強いという特徴が見られた。

蛇紋岩 顕微鏡写真(①の石斧)

透閃石岩 顕微鏡写真(②の石斧)
 次に、比重測定を行ったところ①の石斧については比重が1.67、②の石斧は3.11、③の石斧は2.74と非常に①と②・③の比重に大きな差があることが分かった。特に、透閃石岩は一般的に比重が2.7以上の重いものが多いため、②・③は透閃石岩に特徴的な比重と見られた。

比重測定

磁石測定
 最後に石材中の磁力をもつ鉱物の有無を見分けるために、磁石を吊して磁気鑑定法を行ったところ、①の石斧は強い磁力をもち、磁石から手を離しても外せないほどの磁力があることが分かった。それに対し、②・③の石斧は磁石を近づけても引き寄せられなかった。また、①の石斧を顕微鏡観察した時の磁鉄鉱が石材全体に含まれていることも分かった。
 今回の石材鑑定の結果、①の磨製石斧は蛇紋岩、②と③の磨製石斧は透閃石岩という石材であることが明らかとなった。これらの石材は現在のところ長野県と新潟県の県境の青海・蓮華地域に限定して見つかっているため、この地域で得られた石材を用いて現地で磨製石斧が作られ、完成品が秋田へと持ち運ばれたと考えられる。これらの石斧は、青海・蓮華地域から秋田までおよそ300km以上の距離を越えてどれだけの人たちの手を渡り歩いてきたのだろうか。今後、秋田県内で同様の石材がどれだけあるのかが楽しみである。
 

三脚石器(さんきゃくせっき)とは何か(第111回)

 三脚石器とは、三つの脚部を作り出し、三角形状に加工した縄文時代の石器である。
 平成19年5月、柏木岱Ⅱ遺跡(秋田県三種町上岩川)の発掘調査が行われ、700㎡の狭小な調査範囲から縄文時代後期(今から約4,000年前)の石器が、18リットルの遺物収納箱で約80箱見つかった。頁岩の原石、石核、石鏃や石槍などの製品、大量の残核や剥片、調査区内の礫は殆ど石器という出土密度が極めて高い状況だった。きわだって多く出土したことで注目される石器に、三脚石器56点がある(①)。このうち天然アスファルトが付着するもの(②)、三つの脚の一つを欠くもの、自然面に線刻を施すもの、さらに魚の脊髄(せきずい)が化石として残る石を素材としているものがあった。石質は頁岩が最も多く、剥離面のキメが粗くざらついた比較的軟質な石材を利用している。柏木岱Ⅱ遺跡は、縄文時代に石器製作に適した頁岩の原石を大量に採取した鹿渡渉Ⅱ遺跡や樋向Ⅰ遺跡などの上岩川遺跡群と隣接しており、周辺遺跡と密接な関わりを持ちながら集落内で石器製作が行われていた可能性が高いと考えられる。(註1)

① 三脚石器(柏木岱Ⅱ遺跡)
 

② 天然アスファルト付着三脚石器(柏木岱Ⅱ遺跡

 三脚石器は、東日本の日本海側を中心に出土している。分布図を見ると遺跡間で出土数の差が大きく地域の偏在性が認められ、秋田県米代川流域及び八郎潟周辺、山形県米沢盆地、新潟県信濃川流域の3地域に集中している(③)。(註2)出土数の多い遺跡は米代川流域の史跡伊勢堂岱遺跡184点、(註3)米沢盆地の台ノ上遺跡252点、(註4)信濃川流域の清水上遺跡68点(註5)である。また、米沢市の成島遺跡は857㎡の狭小な調査範囲から58点(平成25年度調査)と出土密度が高く、数多くの破損・製作を断念したとみられる三脚石器があることから、石器製作が行われたと考えられている。(註6)
 三脚石器の出現期は約6,000年前の縄文時代前期初頭で、米沢盆地の成島遺跡や窪平遺跡では大型住居跡から出土している。(註7)高畠町押出遺跡では大木4式土器と共伴し、1点が国の重要文化財に指定されている。
(註8)約5,000年前の中期前半になると米沢盆地や信濃川流域で隆盛を迎える。米代川流域や八郎潟周辺ではそのピークが約4,000年前の後期前葉で、出現期に地域差が見られる。(註9)
 三脚石器の用途については、利器としての実用品か祭祀儀礼用の両論がある。三脚石器を利器として考察したものには、清水上遺跡報告書で示された「植物から繊維を採るのに用いた刃物の可能性」がある。16点に摩耗痕や擦痕が認められ軟質な石材が多いことや刃部が鈍いことを根拠としているが、使用痕については再利用の可能性も指摘されている。また、清水上遺跡では狩猟具より採取・加工具が圧倒的に多く(石鏃38点に対し、打製石斧594点、磨製石斧642点、石皿74点)、使用痕に加え実用品とする根拠に、植物食料に大きく依存した地域環境をあげている。(註10)
 
③ 東日本の三脚石器分布図
(金子拓男「三角形土版・三角形岩版」縄文文化の研究9 縄文人の精神文化 1995より 一部改変)
  一方、祭祀儀礼用と考察したものには、「三脚という形態に意義をもつ呪術具」がある。(註11)台ノ上遺跡では三脚石器に文様を刻む製品があり、縄文時代中期中葉の大型住居跡内から土偶や研磨された三角形土製品と共伴している。脚部の2本が丸みを帯び、残る1本が尖状あるいは方形状を呈し、『人形』を表現したのではないかという説もある。(註12)また、翡翠(ひすい)等の飾玉類や蛇紋岩(じやもんがん)製の磨製石斧の生産で知られる富山県朝日町の境A遺跡の三脚石器は丁寧に研磨し、脚先端部に沈線を巡らせて亀頭状に整形している(④)。(註13)4つの環状列石がある伊勢堂岱遺跡では縄文時代中期末~後期初頭の共同墓地として使われたと考えられる土坑墓から出土しており、死者祭祀に伴い送られる道具に三脚石器が含まれる(註14)  
④ 脚先端部を亀頭状に加工した三脚石器
(富山県教育委員会「境A遺跡石器編」北陸自動車道遺跡調査報告-朝日町編5- 1990より)

 一万年以上続いた縄文時代。縄文人は自然との共存共栄、共感共鳴を図り、自然を持続的に活用してきたといえる。「七・五・三」という奇数は今日特別な意味をもっているが、縄文人が敢えて分割困難で不均衡な三脚石器を作ったのは、「三」という数に何か特別な意味をこめているのではないか。

【引用・参考文献】

註1 秋田県教育委員会「柏木岱Ⅱ遺跡-高速交通関連道路整備事業県道琴丘上小阿仁線に係る埋蔵文化財発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第442集 2008
    秋田県教育委員会「鹿渡渉Ⅱ遺跡・樋向Ⅰ遺跡・樋向Ⅱ遺跡・樋向Ⅲ遺跡・大沢Ⅰ遺跡・大沢Ⅱ遺跡-高速交通関連道路整備事業県道能代五城目線に係る埋蔵文化財発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第436集 2008
    吉川耕太郎「北の縄文鉱山・上岩川遺跡群」シリーズ『遺跡を学ぶ』083 新泉社 2012
註2 東日本の三脚石器分布図は、次の文献を参照した。また、秋田県教育庁生涯学習課文化財保護室がインターネット上で公開している秋田県遺跡地図情報に基づいて一部改変した。
    金子拓男「三角形土版・三角形岩版」『縄文文化の研究9 縄文人の精神文化』雄山閣 1995
註3 秋田県教育委員会「伊勢堂岱遺跡-県道木戸石鷹巣線建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第293集 1999
註4 米沢市教育委員会「台ノ上遺跡発掘調査報告書」米沢市埋蔵文化財調査報告書第55・88集 1997・2006
註5 新潟県教育委員会「清水上遺跡-関越自動車道堀ノ内インターチェンジ関連発掘調査報告書」新潟県埋蔵文化財調査報告書第55・72集 1990・1996
註6 米沢市教育委員会「成島遺跡発掘調査報告書」米沢市埋蔵文化財調査報告書第103集 2014
    石倉惣吉「成島の珍石器考」『羽陽文化』第7号 山形県文化財保護協会 1950
註7 米沢市教育委員会「窪平遺跡第Ⅰ次・第Ⅱ次発掘調査報告書」米沢市埋蔵文化財調査報告書第46集 1994
    註6文献。
註8 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館「押出遺跡」 2007
註9 秋田県教育委員会「塚の下遺跡発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第61集 1979
    秋田県教育委員会「萩峠遺跡発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第84集 1981
    秋田県教育委員会「藤株遺跡発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第85集 1981
    秋田県教育委員会「真壁地遺跡・蟻ノ台遺跡発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第102集 1983
    秋田県教育委員会「萱刈沢Ⅰ遺跡・萱刈沢Ⅱ遺跡発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第231集 1993
    秋田県教育委員会「萩ノ台遺跡発掘調査報告書」秋田県埋蔵文化財調査報告書第236集 1993
    高橋忠彦「米代川流域の三脚石器」『よねしろ考古』第8号 よねしろ考古学研究会 1993
    註1・3文献。
註10 註5文献。
註11 註2文献。
註12 註4文献。
註13 富山県教育委員会「境A遺跡石器編」北陸自動車道遺跡調査報告-朝日町編5- 1990
註14 註3文献。
  

移植ゴテの持ち方 -包み込むように持つ- (第110回)


 土を掘る・削る・切る。使い方いろいろの移植ゴテは、発掘調査には欠かせない道具です。ガーデニングで使われる方も多いのではないでしょうか(本来の用途はこちらですね)。
この移植ゴテの持ち方は、人それぞれかと思いますが、通常の持ち方で使用した場合、どうしても手首に負担がかかり腱鞘炎のリスクが高まります。これを避けるために、私達は移植ゴテを包み込むように持って使います。なるべく手首を固定し、腕や肩の動きで移植ゴテを使いこなします。この持ち方で注意が必要なのは、移植ゴテの縁で手のひらを切らないようにすることです。そのためには、移植ゴテの刃の末端分をペンチなどで内側に曲げて手のひらにやさしくタッチ、フィットするような加工が必要です。当センターの移植ゴテも、このような加工をしていますが、完全に二つ折りにしているものを多く見かけます。これだと、手のひらに当たった時、痛みや圧迫感を伴う場合があります。完全に二つ折りにするのではなく、カーブを残した状態に曲げを留めておく方が手にやさしくフィットし、痛くありません。まめを作ることもなくなります。
「移植ゴテを包み込むようにして持つ」。最初は慣れないかもしれませんが、慣れるとこの持ち方が一番です。特に手首が弱い女性にお勧めします。
移植ゴテを使う場合に心がけたいのは、力任せに一気に掘ろうとしないことです。こつこつ掘り上げていくことが丁寧な作業につながるとともに、手首への負担軽減にもなります。
   
 
手袋は必ず着用 
気になる遺物(第109回)

 長年遺跡の調査に携わってきたが、どうしても気になる遺物がある。それは、秋田市の戸平川遺跡と北秋田市の小勝田館跡から出土している土製品である。おおよそ円形で中央部が膨らみをもつ、まるで小さな鏡餅のような形をしている。最初にこの遺物に気づいたのが戸平川遺跡の遺物を整理作業中のことで、以来気にはなっていたが、最近再びこの遺物と出会うことになった。平成25年の小勝田館跡の調査で見つかった土製品がまさに戸平川遺跡で見つかっていたそれと同種のものと判断できたのである。戸平川遺跡では10点が縄文時代晩期の捨て場から、小勝田館跡では2点が同時代後期の包含層から見つかっているが、いずれも特徴的な状況で見つかっているわけではない。
 外形は直径3.5~7.6㎝、厚さ1.7~3.5㎝で、表面は僅かに膨らんで円みがあり、表面の調整は粗い削り以外は行わず、手捏ねのままであるが、実はこの土製品の大きな特徴は裏面にある。2の裏面には、丸い外縁に沿うように一~二重の円形の沈線があり、中央部は低い円筒状となっている。また、3・4のように沈線の内側が盛り上るもの、1・8・9のように外縁に沿う沈線のみのものなどがある。
 外縁に沿う円形の沈線は正円に近く、描くというよりはむしろ円い筒状の縁に押し付けることによって付けられたと思われる。中央の盛り上がりも同様にしてできたものであろう。円形の沈線や盛り上がりがこの土製品を焼成する以前か、焼成段階に付いたものかは判然としない。焼成以前とすれば、容器の液体が溢れないように細い口に粘土塊を押し付け、表面を粗く整形して栓のように使用したものか。しかしこの土製品を焼成した後で栓として使用するとすれば、容器と栓の直径が一致していなければならない。つまり、現代のように容器と栓が規格的なものである必要がある。粘土塊の状態で栓をして栓だけを焼成することも考えられない。まして、栓をした状態で、火に掛けると結果的には容器ごと破裂する結果になってしまうであろう。つまり、この土製品については、ほぼ栓のような目的があるらしいとの判断はできるが、では実際にどのようして使われたかは全く解らないのである。しかし、一般にいわれる縄文時代の土製品の多くがその用途が不確実で、実用品ではないとされるのに比べて、今回紹介した土製品は実用品に近いといえるのかもしれない。
 類例、用途などにお気づきの方は是非御一報をお願いしたい。

 戸平川遺跡

 
小勝田館跡


ふるさと考古学セミナーと出張展示について(第108回)


 第1回ふるさと考古学セミナー『大仙・横手の縄文文化』を当センターを会場に実施しました。講師は当センターの榮一郎・主任文化財専門員が務め、大仙市・横手市・美郷町の縄文遺跡を対象に住居や集落を中心とした紹介とその特徴について発表しました。
 あわせて、同所特別展示室で開催中の企画展『横手盆地の三万年』、第Ⅱ期「雄物川中・上流域の景観を復元する」もギャラリートークを交え見ていただきました。
 
第1回ふるさと考古学セミナーの様子

企画展第Ⅱ期のギャラリートーク 
 第2回ふるさと考古学セミナー『横手盆地の須恵器生産』を秋田県立近代美術館(横手市)で実施しました。講師は当センターの利部修・主任文化財専門員が務め、秋田ふるさと村の建設に先立って発掘された富ヶ沢A・富ヶ沢B・富ヶ沢Cの各窯跡と田久保下遺跡で出土した須恵器とその生産窯の様相について発表しました。
 あわせて、同館で開催中の第2回出張展示『ふるさと村の地下から現れた古代』で展示している、上記4つの遺跡から出土した須恵器などの遺物や写真展「秋田ふるさと村今昔物語」も見ていただきました。
   
第2回ふるさと考古学セミナーの様子  ブロックで囲っている部分が
富ヶ沢B遺跡の須恵器窯跡
(写真右側が近代美術館)
 第3回ふるさと考古学セミナー『湯沢・雄勝の縄文文化』を、湯沢市湯沢生涯学習センターで実施しました。講師は当センターの小林克・所長と加藤朋夏・文化財主査が務め、加藤が「湯沢市堀ノ内遺跡の調査」を発表し、次いで小林によるコメントや質疑応答を行いました。
 あわせて、同所で開催中の第3回出張展示『湯沢・雄勝の縄文文化』で展示している、堀ノ内遺跡から出土した土器や石器などの遺物を、加藤がギャラリートークの形で案内をしながら見ていただきました。
 
 
第3回ふるさと考古学セミナーの様子
 
第3回出張展示展示品
 来年度も考古学セミナー・出張展示を開催する予定で計画を進めています。ご期待ください。
 
なぞのχ ~漆下遺跡の「χ」字状配石と深渡・深渡A遺跡の「環状列石」~(第107回)

 平成24年に米代川支流の小又川に完成した森吉山ダム(北秋田市)は、新たにダム湖、「森吉四季美湖(もりよししきみこ)」を生み出しました。この森吉四季美湖の湖底やその周囲には50を越える遺跡が存在していて、その多くはダム建設に先立って地元の北秋田市教育員会(旧森吉町教育委員会)と秋田県埋蔵文化財センターが分担して発掘調査を行いました。発掘調査された遺跡の時代は、今から1万数千年以上前の岩宿時代(旧石器時代)から、縄文時代、弥生時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、さらには江戸時代に及びます。そのうち、小又川の中流左岸に立地していた漆下(うるしした)遺跡は、主に縄文時代前期から後期にかけての遺跡でした。中でも縄文時代後期(今からおよそ4,400年から3,400年ほど前)では、パンケースで数千箱分もの縄文土器・石器などの大量の出土品や住居跡などのほかに、表面に河原石の組石や列石、集石などがある特徴的な遺構がいくつかまとまって見つかっています(写真1)。調査では当時の地面に直接石を据えたり集めたりしたものを配石遺構、土坑(どこう;埋まった穴)の表面に石を据えたりしたものを配石土坑と呼んでいます。
 漆下遺跡の配石の形は様々ですが、ここでは特に変わった形をしたSQ225配石遺構を紹介します(写真2)。この遺構の配石は、背中合わせの弧状、小文字の「χ」字のように人の頭ほどの大きさの河原石を立てて並べた列石の両側に横向きの台形状の組石が付いたものです。組石は握り拳大ほどの小石で作られていて、組石の内側は「十」字形に小石を並べて仕切られています。また、組石の台形上辺の両端には逆「ハ」字形に小石を並べています。周辺では良く似た配石遺構は見当たらず、「なぞのχ」と呼ばれたこともあるほどの不思議な形をしています。何らかのマツリの施設、あるいは記念碑のような施設だったのかもしれません。
 ところで、漆下遺跡から小又川を4㎞ほど遡った川沿いにある深渡(ふかわたり)遺跡と深渡A遺跡からは、見方によっては、このSQ225配石遺構のモデルであったかもしれない縄文時代中期の終わり頃(今からおよそ4,600年から4,400年ほど前)の竪穴住居跡がそれぞれ1軒見つかっています(SI2001竪穴住居跡とSI29竪穴住居跡)。両遺跡の竪穴住居跡は、最初に見つかった時は、深渡遺跡では、地面に環状に河原石を立てて巡らした小形の環状列石のように(写真3)、深渡A遺跡では、地面に環状に巡らした列石のうち多くの河原石が抜けていて、環状列石の外側にはさらに弧状の列石を巡らしているように見えました(写真4)。ところが、これらの環状列石の内側を掘ってみると、ここには半地下式の住居、竪穴住居が埋まっていることが分かったのです。竪穴住居の壁際に先端が地上に出るように石を列状に並べていて、さらにこの列石には、台形の組石を複数の区画に区切った「複式炉」と呼ばれる炉跡が取り付いていました(写真5・6)。これらの炉と列石は何らかの理由で竪穴住居を解体する時に新たに作った、おそらく住居を廃絶する時に行う住居に対するマツリ、もしくはそこに住んだ家族のためのマツリを行う施設だったと考えられます。そして、マツリの後に竪穴は埋め立てられて、環状~弧状の列石が地上に露出した状態となったようです。この時点では、家があったことを示す記念碑のようなものとなっていたのかもしれません。
 両遺跡の竪穴壁際の環状列石及び弧状の列石と台形の複式炉との組み合わせは、漆下遺跡のSQ225配石遺構の半分、弧状の列石に台形の組石が取り付く形と共通しているとも思えます。SQ225配石遺構は、弧状列石と複式炉をモデルとした台形組石との組み合わせを基本とする配石を線対称に二つ結合したものと見ると、このような変わった形がどのように作りだされたかが理解しやすいのではないでしょうか。SQ225配石遺構は、縄文時代中期終わり頃の竪穴住居廃絶に関わる、環状~弧状列石と複式炉が組み合わさったマツリの施設から変化した施設であった可能性があるのではと思います。
 ただし、漆下遺跡の発掘調査報告書では、SQ225配石遺構は埋まっている土の特徴や周囲の遺構の時期などから縄文時代後期の中頃(今からおよそ3,700年ほど前)以降のものと推定しています。深渡・深渡A遺跡の竪穴住居跡例とは、「形態は類似するものの、両者(SQ225配石遺構と深渡・深渡A遺跡の竪穴住居跡)は時期的に連続するものとは言いがたい」と述べられているのです。
 実は、発掘調査で遺構の時期を決定することは、条件に恵まれないとなかなか難しい場合が多いのです。かなり乱暴に言うと、縄文時代の遺構の時期を決めるのは、遺構から見つかった縄文土器の時期を根拠とするか、同じく遺構から見つかった炭などを年代測定して行うことが現在のところ一般的です。いずれの場合も、それらの資料がただ単に遺構から見つかっただけでは必ずしも充分ではありません。まず、遺構よりもはるかに古かったり新しかったりする縄文土器や炭が、何らかの理由で偶然混入したものではないことが確認される必要があります。偶然の混入が考えにくい場合でも、細かく言うとその遺構が作られた時期、使われた時期、あるいは廃絶された時期のものなどかどうかをきちんと判断できる状況で見つかったかも重要です。これらの見極めは、やはりなかなか難しいのです。SQ225配石遺構でも縄文土器が見つかっていて、出土した炭の年代測定も行っていますが、それらの時期は縄文時代後期の中頃以降という遺構の推定時期と必ずしもぴったり合うわけではありません。報告書での時期の推定は、現状では謂わば状況証拠によるものと言えるかもしれません。ところで、SQ225配石遺構の近くには、弧状に河原石が巡り、内側に焚き火跡があるSQ223配石遺構があります(写真7)。ここでは焚き火跡で見つかった、燃料の薪であったと推測される炭が年代測定されています。その測定結果は縄文時代後期初めころの年代(今からおよそ4,350年から4,150年ほど前)となっています。これらのことからは、漆下遺跡の配石遺構には、SQ223・SQ225配石遺構も含め、縄文時代後期初め頃に属し、深渡・深渡A遺跡の竪穴住居跡例の直後に続くものも存在すると考える余地があるかもしれません。
 もし、深渡遺跡・深渡A遺跡例と漆下遺跡例とがほぼ連続して変遷したとするならば、それらを作って使った人たちについては、どのようなことが考えられるでしょうか。まず、深渡遺跡と深渡A遺跡の竪穴住居跡はいずれも4畳から5畳程度の広さでした。その大きさからは、住居にはおそらく両親とその子供程度の1家族が住んだものでしょう。それぞれの住居の周囲には同時期の住居は見当たらず、普段は基本的に1家族だけで独立して生活していたようです。住居と生計を共にしていたと見るならば、1世帯と呼んでも良いでしょう。両遺跡の住居跡は500mほど離れているだけです。炉に使われた縄文土器の時期などからは深渡A遺跡の住居の方が少し新しい時期のようです。これらのことからは、深渡遺跡に住んでいた一家が深渡A遺跡に移住したとするのもそれほど突飛な考えとは思えません。その後の時期の住居は両遺跡周辺には見つからず、もっと別の場所に移動した可能性が想定できます。
 一方、漆下遺跡では、SQ225配石遺構の近辺で縄文時代中期終わり頃の竪穴住居跡が4軒見つかっています。いずれも複式炉がありますが、環状や弧状の列石は見当たりません。4軒の住居には時期差があって、一時期には1軒程度しかなかった可能性があります。その直後の縄文時代後期初め頃の住居跡は13軒見つかり、この頃には、一時期の正確な軒数は分かりませんが、複数の住居がまとまるムラができたと言えるでしょう。住居には複式炉ではなく、「土器埋設炉」と呼ばれる違った形の炉が作られるようになっています。また、SQ225配石遺構周辺では、住居はSQ223配石遺構なども含めた配石遺構群を取り囲むように作られていたように見えます。言い換えれば、配石遺構群は住居のない広場のような場所に作られたと言えそうです。
 これらのことをまとめると、深渡遺跡から深渡A遺跡に移住していた家族の末裔が縄文時代後期初めに漆下遺跡にさらに移住し、そこで別の家族の人たちと合流して新たなにムラを作り、ムラの広場に家族のマツリのための施設としてSQ225配石遺構を作ったと想像できるかもしれません。SQ225配石遺構は二つの配石が結合されたものとすると、例えば兄弟の分家もしくは若い子世代のような別家族の施設も統合し、従来の一家族単位のマツリではなく、複数の家族あるいは世帯がまとまった新たなマツリを行ったと考えることもできそうです。また、深渡・深渡A遺跡では、炉で火を焚いて行われたマツリであったと想像されますが、漆下遺跡のSQ225配石遺構では火を焚いた痕跡は見つかっていません。マツリの実際のやり方も変わってきているのでしょう。想像を逞しくすれば、SQ225配石遺構は、共同の広場の中に作る、家族だけでなく近い祖先のシンボルと言ったような、ある種の記念碑的な施設へと変化しつつあったのかもしれません。

 
写真1:上空から見た漆下遺跡(東側)

写真中央付近に特徴的な形をした配石遺構が群をなしています。



写真2:漆下遺跡のSQ225配石遺構

 中央の「χ」字状の列石部分は縦横2mほどで、全体では横幅約5mです。奥は別の配石土坑です。 



写真3:深渡遺跡のSI2001竪穴住居跡を確認した様子

 列石は縦3m、横4mほどです。少しいびつですが、元々は楕円形の列石だったようです。



写真4:深渡A遺跡のSI29竪穴住居跡を確認した様

 内側の列石の左側には石が抜けた跡が巡ります。推定で直径約3mです。外側の弧状列石は長さ2.5mほどです。



写真5:深渡遺跡のSI2001竪穴住居跡を掘り上げた様子

 列石には複式炉が取り付きます。炉の左側の区画には土器が埋め込まれていました。



写真6:深渡A遺跡のSI29竪穴住居跡を掘り上げた様子

 内側の列石にはやはり複式炉が取り付きます。列石を挟んで炉の反対側にある大きな石は、もともと地面に入っていたものです。住居や炉を作る場所の基準としたようです。

 


写真7:漆下遺跡のSQ223配石遺構

 中央の赤い部分は焚き火跡です。焚き火跡を中心とすると、全体は直径5m程度になります。弧状列石の中央部分は石が二重になっています。深渡・深渡A遺跡の環状列石を伴う竪穴住居跡が祖型となって、それらから変化したものかもしれません。


古代発見!バスツアー(第106回)

 埋蔵文化財センターでは、毎年「古代発見!バスツアー」を実施しています。これは、遺跡や史跡をバスで見学し、郷土の歴史や文化財について理解を深めてもらうとともに、埋蔵文化財センターの活動を広く知ってもらおうという催しです。今年度は9月に「県北の遺跡探訪コース」を2回、10月に「県南の文化財探訪コース」を2回、それぞれ秋田市発着で実施しました。
 「県北の遺跡探訪コース」では、北秋田市伊勢堂岱遺跡と発掘調査中の大館市片貝遺跡を見学しました。縄文時代後期の環状列石が4基発見されている国指定史跡伊勢堂岱遺跡は、史跡整備中で現在見学はできないのですが、北秋田市教育委員会のご好意で、職員の方に整備の様子も含めてご案内いただきました。
 片貝遺跡発掘現場では縄文時代の落とし穴や平安時代の竪穴住居跡を見ることができましたが、それにもまして、1万5千年前の十和田湖噴火の火砕流でもたらされた埋もれ木が参加者の目を引いていました。
 「県南の文化財探訪コース」では、大仙市の旧池田氏庭園や荒川鉱山跡を見学しました。いずれも近代以降の文化財ですが、旧池田氏庭園は国指定名勝として保存・整備・活用が推進されており、当日も池田家顕彰会のボランティアガイドの皆さんに米倉や庭園、洋館などをご案内いただきました。
 荒川鉱山跡は旧協和町時代に一時活用されていましたが、現在内部は公開されていません。当日は地元在住で日本鉱業史研究会会委員の進藤孝一氏に外部のご案内をいただき、また近くにある資料館の大盛館で荒川鉱山関係の資料についてご解説をいただきました。
   
第1回 伊勢堂岱遺跡の見学  第2回 片貝遺跡の見学 
   
第3回 旧池田氏庭園の見学  第4回 荒川鉱山跡の見学 

土器に描かれた三目と一眼(第105回)

 今年4月の新聞に、「土器の目」と題した墨書土器(平安時代)の記事が取り上げられていた。秋田城跡の沼地跡からは、丸い目と眉の目だけを強調して書いた小形甕が出土しており(1)、他の「人面墨書土器」(2)や人形等と共に秋田市の文化財に指定されている。これらは陰陽道に基づく祭祀に用いられ、穢れを土器に封じ込めて水に流したと考えられている。秋田城跡では、他に三つの目と一眼だけを書いた平安時代の杯(3・4)が見つかっている(秋田市教委2000)。
 三目の土器は、杯の体部に両眼(目)の外側が極端に下がった状態で、間隔をおいて横に配列した三目を描く。本当に目だろうか?の疑問に対しては、先の人面墨書土器に水平だが同じ切れ長で瞳を入れた目があること(2)、何よりも多賀城跡から両眼の垂れ下がった人面墨書土器が出土しており(5)、納得がいく。垂れた目は何を意味するか。想像になるが、左右の眼が八の文字を意識して眼を捩(もじ)りながら表現し、それを3つ並べたものではないか。八の字には、末広がりの字形の他に、八咫鏡(やたのかがみ)、八重垣(やえがき)、八尋(やひろ)等の吉祥の意味がある。秋田城跡の人面墨書土器を観察すると、眉や髭等にも八の字状に描いた表現があり、同様の意味を込めたものではないだろうか。
 三目の三は、陰陽道と関連すると思われる。数字の偶数は陰、奇数は陽を表す。一月一日や三月三日等の暦は重陽として尊ばれ、それを意識したと考えられる。三に関する眼の事例に、三つの眼を持つ仏像が想起される。願い事を叶えてくれる、温厚な表情の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)や憤怒の形相で悪心を懲らしめる馬頭観音像等があり、仏顔の白毫の位置に縦長の第三眼を持つ。これも奇数を意識したもので、希な事例に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の五眼がある。
 秋田城跡の一眼の墨書土器は、杯の体部に眼を大きく書いたもので、眼の上下輪郭が弧を描き中央に瞳を置く。輪郭から離れた瞳が、威嚇を表しているように感じる。大阪府陵南赤山古墳出土の円筒埴輪には、三本の突帯中、第1と第2突帯の空間に丸い透かしがあり、それを中心に杏仁(きょうにん)形に線刻した眼がある(6)。透かしが瞳であり、上下の弧線は交差して両端がはみ出す。
 上下の弧線が両端ではみ出す線刻は、他に大阪府弁天山D2号墳や京都府塚本古墳の円筒埴輪最上部空間にも配置されている。これらの眼は、古墳時代の希有な資料であり、辰巳和弘は「辟邪視文」と呼び「辟邪の呪力ある眼」としている(辰巳1992)。一眼で想起されるのが、エジプトのウジャト眼(護符)やギリシアの戦士が持つ盾(魔除けの印)に描かれた眼である。これらは目の片側にある一眼だけを表現しており、日本の一眼とは異なる。中国では一眼が認められないようであるが、饕餮(とうてつ)文や鬼面等の両眼が多用されたことによる要因があるのかもしれない。
秋田城跡の人面墨書土器が秋田市の文化財に指定されたことは前述した。本文で述べてきた三目の杯や一眼の杯は、それらに劣らない価値がある。前者では陰陽道の関連を指摘したが、後者ではその影響は即断できない。しかし杯にある一眼は、古墳時代資料の系譜を引き近世絵画の一つ眼の妖怪に繋がるかもしれないし、両眼の眼を一眼で表現する手法が日本独自の可能性も秘めているのである。
 
【引用】 1~4:秋田市教育委員会2000  5:柳澤和明2011  6:辰巳和弘1992 

古代のオーダーメイド品?~富ヶ沢B窯跡の「杯蓋硯」(第104回)

 現在、横手市の秋田ふるさと村が建っている場所には、平安時代、大規模な須恵器の窯跡がありました。
ふるさと村の建設に伴い、平成2年に秋田県埋蔵文化財センターにより発掘調査が行われ、たくさんの須恵器の窯跡が発掘されました。(→現在、出張展示「ふるさと村の地下から現れた古代」を秋田県立近代美術館5階ふれんどりーギャラリーで開催中です!会期:平成27年8月29日(土)~10月12日(月)入場無料、ぜひお立ち寄りください。)
 そのうちの1か所、富ヶ沢B窯跡(とみがさわびーかまあと)から、ちょっと不思議な製品が出土しています。その製品とは、一見底の浅い茶碗のような形をした須恵器です。同様の製品が2点出土しており、それぞれ「建万呂硑」、「智光硑」という文字が刻まれています。発掘調査の報告書では、形状からこの製品を壺のフタとして報告しましたが、刻まれた文字の内容については「建万呂」(たけまろ)と「智光」(ちこう/ともみつ)が人名を示していること以外、よく分からないままでした。
 今回、改めて文字を解読したところ、「硑」という字は「研」の異体字であることが分かりました。異体字とは、意味は同じでも字体の異なる字のことで、よく見かけるものとして「高」に対する「髙」(はしごだか)などが挙げられます。では、刻まれた文字が「建万呂研」・「智光研」であるとして、どんな意味を示しているのでしょうか。
 さらに調査を進めたところ、古代の古文書の用例から、「研」の字は、古代において「硯」(すずり)の字と同義で使われるケースがあることが分かりました。つまり、「建万呂研」・「智光研」はそれぞれ、「建万呂の硯」・「智光の硯」と読むことができます。この読み方が正しければ、問題の製品は、壺のフタではなく硯であったことになります。ただし、同製品の形状は、普通の硯の形状からかけ離れており、硯とするにはまだ問題が残ります。
 改めて製品の形状を見てみると、確かに形は壺のフタに近いのですが、通常、フタであれば存在するはずのツマミがこの製品にはありません。さらに、本来ツマミがあるべき部分には、窯で焼く前に工具で削って平らに調整した様子が見てとれます。普通こうした調整は、土器の底の部分などに多く見られるもので、本来この製品は、壺のフタと解釈して描かれた実測図(①)の向きとは上下逆さまで使用するものであった可能性が高いです。
 壺のフタでないとすれば一体この製品は何なのでしょうか。
 この問題を解くヒントは、奈良時代の古文書の中で見つかりました。古代の古文書を広く調査してみたところ、奈良の東大寺正倉院に残る「正倉院文書」の中に、「杯蓋研(硯)」(つきぶたすずり)という記述を見つけたのです。杯(つき)とは、古代の一般的な器の一種で、ちょうど皿と椀の中間の形をした器です。この「杯蓋研(硯)」がどのような製品であったのかについては、資料がないため分かりません。ただ、字の通りに解釈すると、「杯のフタの形をした硯」ということになります。
 さて、問題の製品は、壺のフタによく似た形で「研(硯)」と刻まれています。
壺のフタと杯のフタ、ちょっと違うような感じがしますが、実は杯のフタの中には壺のフタによく似た形をしたものもあるのです。とすると、この製品は古文書中に見える「杯蓋研(硯)」の実物なのではないでしょうか!?
 製品に残る「建万呂硑」・「智光硑」の文字は、製品を窯で焼く前の段階で刻まれたものです。完成した後で誰かが書き足したわけではなく、製品を作る過程で須恵器の職人が書き入れたものと考えられます。ですので、もしこの製品が硯であるとすれば、建万呂さん・智光さんのために作られたオーダーメイドの硯と考えられます。
 一般的に須恵器は一括大量生産で作られていたと考えられています。富ヶ沢B窯跡で、こうしたオーダーメイド品の受注生産も行っていたとすると、全国的にも非常に珍しい例と言えそうです。
   
①問題の製品 
   
②通常の壺のフタ   
 

現代のおしゃれ・縄文のおしゃれ(第103回)

 現代に生きる我々は、服装に気を配り、髪の毛を整え化粧をし、アクセサリーを身に付けたり身だしなみに気を遣ったりしています。では、縄文時代に生きた人々はどのような姿だったのでしょうか。今からずっと昔に生きていた縄文人に直接会うことは出来ませんが、縄文人が残した遺物からその姿を想像することが出来ます。
 縄文人のおしゃれを知る遺物としてまず土偶が挙げられます。土偶は女性を表現したものと言われています。イヤリングを装着したり、髪飾りのような突起をつけたりした土偶の頭部が出土しています(写真1)。
 実際に髪飾りと考えられる遺物には、五城目町の中山遺跡や青森県八戸市是川遺跡から出土した(くし)があります(写真2)。これらの櫛には漆が塗られていました。さらに出土した櫛をX線撮影すると、櫛の歯が紐などで固定されていたことがわかりました。髪の毛を束ねた紐などは見つかっていませんが、植物の繊維などで工夫していたと考えられます。また、骨製のヘアピンなどが見つかっています。
 耳飾りの種類は時期によって異なりますが、石を穿孔し溝を刻んだ(けつ)(じょう)耳飾(みみかざ)りや現在のピアスに近い()栓形(せんがた)耳飾(みみかざ)りと呼ばれる耳飾り、滑車(かっしゃ)(じょう)耳飾(みみかざ)りなどが全国各地から見つかっています(写真3−1~3)。これらの耳飾りは石や粘土から作られ、イヤリングのように耳たぶに挟むのではなく、ピアスのように耳たぶに穴を開けはめるタイプです。大きな耳飾りを装着するためには耳たぶの穴を少しずつ拡げていったと考えられます。
 首飾りは、現代でもネックレスとして多くの人が身につけていますが、縄文時代にもありました。小玉や勾玉や斧状土製品などを紐に通して身につけていたのです。実際に発掘調査で見つかる場合には、玉同士をつないだ紐は無くなってしまいます。首飾りの材料は石や粘土、骨などです。
 腕飾りも現代ではブレスレットとして、多くの人が身につけています。縄文時代の腕飾りは“ベンケイガイ”などの貝を加工した貝輪を腕輪として使っていたようです。
 このように縄文時代では、木や石、粘土、貝、骨などを使って自分たちを飾る装飾品を作っていました。なかには、破損した破片同士に穴をあけ、紐でつないだものもあり大切に使われていたことが窺えます。
それでは服や靴はどうだったのだろうか。縄文時代の衣服は発掘調査では、見つかっていないため、具体的にはわかりません。しかし、遺跡から出土する土偶が縄文時代の服装のヒントになると考えられています。土偶の胴体を観察してみると上半身には上着、下半身ではズボンのような文様が描いていることがあります(写真4)。また、土偶の足下を観察すると、靴のような突起や文様が描かれていることがあります。秋田市河辺の松木台Ⅲ遺跡では靴を連想させる靴形土器が出土しています(写真5)
 こうして見ると、縄文人も現代の我々と同じように服装や装飾品を使ったおしゃれに気を使っていたことが窺えます。皆さんは縄文時代の人々が残した遺物を見て、どんな縄文人の姿を想像しますか?
   
写真1 土偶頭部(横手市虫内Ⅰ遺跡)  写真2 漆塗櫛(五城目町教育委員会
1984中山遺跡発掘調査報告書)
  
写真3−1 玦状耳飾り(大仙市上ノ山Ⅱ遺跡)
   
写真3−2 耳栓形耳飾り(湯沢市堀ノ内遺跡)  写真3−3 滑車状耳飾り(横手市虫内Ⅰ遺跡)
   
写真4 土偶(北秋田市向様田D遺跡) 写真5 靴形土器(秋田市松木台Ⅲ遺跡)

今年度前半の機関連携事業から(第102回)

 今年度も埋蔵文化財センターでは遺跡の発掘調査とともに、センター主催による事業や機関連携事業という形でさまざまな資料の公開・活用事業も行っています。センター主催事業には、企画展や講演会、考古学セミナー、出張展示、バスツアーなどがあり、多くの方に参加、見学いただいております。もう一つの機関連携事業は、県及び市町村、大学等の教育機関の事業に協力団体として参加するもので、教育機関どうしが連携し、相互に特徴をいかすことができるとともに、出土資料をとおした秋田県の歴史や埋蔵文化財センターの事業内容を知っていただくよい機会となっています。
 これまでの連携事業として、4月に大仙市大曲図書館の企画展(「本はともだち!~子ども読書の日事業~」)の中で、木簡や墨書土器など、遺跡からの出土品を展示しながら、現代の書籍にいたるまでの変遷を紹介しました。
 7月には「農業科学館まつりに」参加し、「縄文時代の遊びと生活体験」と題したブースを設けて、各種体験メニュー(石器づくりや弓矢、縄文文様染め)を親子連れの参加者に楽しんでいただきました。特に子どもたちに人気のあったのは弓矢体験で、狩りの獲物となる動物の絵が描かれた的に向かって何度も矢を放つ姿が見られました。何度も失敗を重ねても挑戦する子やすぐにコツをつかんで上手に的に当てる子、2度、3度とやってきて体験する子などさまざまでしたが、みんな楽しんで体験していました。石器づくり体験も材料となる黒曜石を鹿の角で削りながら、がんばって思い思いの形に仕上げていました。また、文様染め体験にも親子でたくさん参加していただきました。天候にも恵まれて、多くの皆様に体験していただくことができました。
 このあと、連携事業は大館郷土博物館での出張展示や遺跡発掘体験(「ふるさと発掘 in 大館」)、国際教養大学での出張展示(「国際教養大学をとりまく考古世界2015」)、県立農業科学館での展示(「土器に生ける秋の草花展」)、県生涯学習センターでの「発掘考古ゼミ」(全4回)などまだまだ計画していますので、ぜひ見学、参加していただきたいと思います。なお、事前申し込みが必要なものもありますので、詳しくは各施設等にお問い合わせください。
   
 木簡の展示
(大曲図書館)
 墨書土器の展示
(大曲図書館)
   
 縄文文様染め体験
(農業科学館まつり)
 弓矢体験
(農業科学館まつり)
石器づくり体験
(農業科学館まつり)


ケガレを祓う心理についての雑感(第101回)

 昔の暮らしのうち、物理的な側面は発掘によって明らかにすることができます。
 しかし、精神的な側面…すなわち「ものの見方」は時代によって変化するものでありながら、これを紐解くのは非常に困難です。
 例えば、「人形」と書いて「ヒトガタ」と読む遺物があります。
 木の板を人の形に加工したもので、墨で顔や人体が描かれている場合もあります。
 木製品というのは、基本的には腐朽して土に返ってしまうためなかなか見つかりませんが、湿地帯で湿った土にパックされ空気がさえぎられることによって、腐食が止まって発見されることがあります。
 しかし、人形はそれ以外の理由もあってなかなか見つからず、秋田県内では秋田市秋田城跡や、大仙市・美郷町払田柵跡、五城目町中谷地遺跡、能代市樋口(とよぐち)遺跡などの出土例しかありません。
 人形の起源は不明ですが、日本では7世紀末から8世紀初頭に、律令的祭祀、つまり律令支配下での行事の道具として作られ使われるようになりました。秋田城跡で出土した人形が9世紀中葉のものですから、8世紀に秋田城が築城された際に、律令政治とともに祭祀が持ち込まれたのでしょう。
 その用途は、自分の身のケガレを祓うための身代わりです。一般にひとなでひと吹きと言われており、人形を用意し、なでて息を吹きかけることでケガレを移し、馬形や舟形といった乗り物の形代(かたしろ)を添えて根の国(あの世)へと送っていたのです。
 しかし、政治的に祭祀を執り行ってまで祓っていた「ケガレ」とは何なのでしょう?
 ケガレという言葉自体は聞いたことがある人は多いと思います。そして何となく「汚れたもの」という印象を持っているかもしれませんが、ケガレ=汚れではありません。ケガレの例として死・疫病・犯罪・血・出産などが挙げられますが、泥や食べこぼしを汚れとは言ってもケガレとは言いません。
 ケガレという観念は仏教の一部として日本に流入し、律令祭祀の中に取り入れられ、現在の神道と日本の民俗に色濃く影響していると言われています。そして先人たちはケガレについて、神道と民俗、双方の面から定義づけようとしてきました。特に民俗の面からは、柳田國男がハレとケという概念に着目した後に、後続の研究者たちの間でケガレも加えて検討すべきではないかという議論が発生しましたが、ハレとケとケガレに対して研究者の間では統一された見解を見ることなく現代に至っています。あるいはケガレ単独の定義として「時間・空間・物体・身体・行為などが、理想ではない状態・性質になっていること」「主観的な不浄感」などの見解が存在するようですが、出産を「理想ではない状態」とすることには疑問を感じます。また、「主観的な不浄感」という定義には、ケガレの例として挙げたものに対する理屈や体系では表現しきれない嫌悪感を的確に表現しているようにも思えますが、「主観的」とあるとおり、個人的な感性や時代背景による変化を免れないようにも思われます。
 そもそも現代のケガレの観念は、人形でケガレを祓っていた時代とはすでに変化してしまっているのです。現に私たちは、延喜式などの文献から人形を使った祓いの儀式の方法を知ることができますが、それを再現しケガレを祓おうとは思いません。それくらい、儀式を行うのが当たり前だった時代の人々とはかけ離れてしまっているのです。
 私たちは現代人です。先人たちが思い描いてきた世界観から変化を遂げた後の、現代の世界観で生きています。
 だからこそ、先人たちの物質文化に触れるとき、それらの用途を安易に現代の世界観に当てはめてしまうことなく、物質文化を必要とした精神文化があったことを意識するべきでしょう。

秋田城跡出土ヒトガタ


仏具コンビナート~極楽浄土へ響け鐘の音~(第100回)

 堤沢山遺跡(写真1)は、秋田県立大学本荘キャンパス西隣に位置し、日本海沿岸東北自動車道の建設に先立ち、2003~04年にかけて発掘調査が行われました。調査の結果、遺構では梵鐘鋳造遺構・溶解炉・鍛冶炉・炭窯などが、遺物では大量の鉄滓や羽口・溶解炉壁、鋳型が見つかっています。10世紀~13世紀の平安時代から鎌倉時代半ば頃の遺跡で、特に13世紀前半には、梵鐘を始めとした仏具を生産していたことがわかりました。梵鐘を鋳造していた遺跡は、東北地方では①宮城県仙台市薬師堂東遺跡(8~9世紀)、②福島県新地町向田A遺跡(9世紀)、③岩手県平泉町白山社遺跡(13世紀後半)、④岩手県金ヶ崎町永徳寺雄遺跡(18世紀初頭)にしか、見つかっていません。
 写真2は梵鐘鋳造遺構で、県内では初の発見です。底には弧状に粘土が残っていました。これは鋳型を外側から被せて固めるために使用され、製品の梵鐘や鋳型を取り外したときに残ったものと考えられます。また、床面には掛木痕と思われる溝跡が見つかりました。木製の定盤に組み合わせた梵鐘鋳型をのせて上と下に渡した掛け木を縛って固定する方法が行われたと考えられます。
 さて鋳造された梵鐘の大きさはどのくらいだったのでしょうか?出土した鋳型(写真3)から、推定すると、おおよそ高さ約80㎝幅約50㎝、大きさとしては半鐘の部類に入るものです。現在でもこの大きさのものを鋳造すると500万円位はかかります。現在とは貨幣価値が当然違いますから、今で考えれば数千万~億円単位のものかもしれません?となると半鐘は誰が造らせどこへ運ばれたのかという疑問がわきます。資金もですが、技術者を招聘するだけでも大変な事です。権力のある人物が関わっているのは一目瞭然です。
 この堤沢山遺跡を含む由利地域は、奥州藤原氏が勢力を持っていた頃は、由利氏が支配者として君臨しています。鎌倉時代になり、由利氏は御家人に加えられますが、和田合戦(1213年)のとばっちりを受け所領を没収されます。その後、将軍源頼家・実朝の乳母である大弐局(だいにのつぼね)が新領主となり、以降は彼女の実家である大井氏(信濃小笠原一族)が支配していくこととなります。では、この大弐局=大井氏がこの仏具生産のプロジェクトを開始したのでしょうか?この堤沢山遺跡からは、磬(けい、写真4)・風鐸以外にも密教法具の金パイ(石+卑)・護摩杓の鋳型も出土しています。密教法具が出土していることから、天台宗や真言宗などの仏具を主に生産していたのではと想定されます。しかし、大弐局及び大井氏は幕府とのつながりから臨済宗に帰依していたと思われます。よって考えられることは、由利氏が仏具生産を開始し、鎌倉仏教以前の密教に帰依した由利氏滅亡後(在地領主としては存在していたようだ)もそのまましばらくの間、生産が継続されたと考えるのが妥当ではないでしょうか。とすれば、平泉の仏教による浄土思想が、その支配圏である由利地域にも浸透していた様子がうかがわれます。
 ここで生産された梵鐘は、出土した鋳型からおおよその特徴をつかむことができました。しかし残念ながら現存するものはなく、どこへ流通したのかも不明です。そして、鎌倉時代の半ばには生産が終わり、技術者はこの地を去っていったのです。

〔用語解説〕
定盤・掛木(じょうばん・かけぎ) を鋳型に流して、梵鐘を鋳造する際に、鋳型の下に、鋳型を固定するために置いた数本の平らな床板のような台を定盤という。掛木は、鋳型及び定盤を固定するため、定盤の下に置いた。また鋳型の上にも鋳型を押さえつけるように掛木を掛け、上と下の掛木をロープで渡ししっかり固定することで、鋳型や定盤が動かないようにした。梵鐘鋳造遺構で見つかった掛木痕は、掛木を入れるために掘られた痕跡である。
(けい) 一般的には、禅宗以外の宗派で使用。元来は中国の古い楽器で、法会など仏教様式でのとき唱える声明の合図として打ち鳴らされる。
風鐸(ふうたく) 寺院の堂塔の軒下につるす舌(ぜつ)をもった音の出る鐘型の鈴。風を受けて、舌が本体にぶつかり、音を発する。
金パイ(石+卑)(こんぱい) 金箆(こんぺい)とも。密教法具の一つで、衆生の無知の眼膜を取り去り、仏心眼を開かせる意味を持たせ、仏像の開眼供養や受者の両眼を加持する儀式に用いられる。
護摩勺(ごましゃく) 密教法具の一つで、護摩の修法の時に五穀・蘇油・飲食などの供物類をすくって護摩炉の中に投ずるためのもの。

写真1 堤沢山遺跡全景(上が北) 写真2 梵鐘鋳造遺構
   
写真3 出土した梵鐘の鋳型  写真4 磬(けい)の鋳型 
 

総務班の業務について-発掘調査編-(第99回)

 今回は秋田県埋蔵文化財センター総務班業務の中から、発掘調査に関連した業務についてご紹介します。
 はじめに発掘調査前の業務ですが、発掘作業員の公募・採用手続き、発掘関係消耗品の購入、機材運搬契約、測量業務委託契約、給水業務委託契約、コンテナハウス等の物品やバックホー等重機機材の賃貸借契約などがあげられます。なお秋田県では、調査面積及び調査期間、上記契約(一部除く)に係る合計積算金額がすべて一定の基準を満たしていると判断される場合は、掘削管理業務委託として一括した契約を行うことが可能です。
 上記業務は文章にすると数行になってしまいますが、実際、各業務の仕様書内容の確認とそれに基づいた積算には多くの時間を必要とします。調査に係る予算はみなさんの税金であるということを意識し、必要以上の仕様になっていないか確認・修正を行ってから、経費の積算をします。これが完了してようやく見積依頼や一般競争入札等を行う準備に取りかかることができます。
 しかし、多くの時間を必要とするからと言って、無駄な時間をかけることはできません。秋田県は降雪地帯ですので基本的に冬場の発掘調査は行わない(行えない)ため、遅くても5月上旬には各契約を完了させ、5月下旬から6月上旬にかけて発掘調査を開始させる必要があります。そのため仕様書確定後の見積合わせや入札までの日程を計画・調整することも重要な業務になってきます。
 次に契約を締結し発掘調査が開始されると、賃貸借物品等の確認を行いに現地へ向かいます。写真は今年度のトクラ遺跡発掘調査現場のコンテナハウス等の確認写真です。総務班としては数少ない発掘現場での業務となりますが、発掘現場を確認する機会はなかなかないため、いつも楽しみにしています。なおトクラ遺跡は、秋田県の基準を満たしているため、先に記載した掘削管理業務委託契約を締結し発掘調査を行っています。この場合、発掘作業員の採用者人数及び賃金支払い状況、社会保険等加入状況、健康診断受診状況などを契約業者から確認する業務があります。
 発掘調査が終了すると整理作業が始まりますが、これに関連する業務はまた機会がありましたらご紹介したいと思います。
 最後に、総務班は埋蔵文化財センター玄関のセクションにあります。日頃から来館者には笑顔で応対することを心がけておりますが、専門的なご質問にはお答えできないことが多々あります。その場合は担当の職員に確認することになりますので、どうかご容赦願います。
 また、特別展示室では企画展の第Ⅱ期も始まっております。見学は無料、ご希望があれば担当職員が展示解説も行いますので、是非、秋田県埋蔵文化財センターへお越しください。お待ちしております。
排土搬出用ベルトコンベア   発掘調査用コンテナハウス  


資料管理活用班の仕事(第98回)

 昭和56年に開設された秋田県埋蔵文化財センターは、県内の遺跡発掘調査を行っている機関です。しかしながら、発掘調査だけを専門としているわけではありません。当センターの設置条例には、「第一条 埋蔵文化財の調査研究及び出土品の収蔵を行うとともに、埋蔵文化財調査研究関係職員その他の関係者の研修を行い、もって県民の文化の向上に資する」とあります。県民の文化向上にいくらかでも貢献できるように、「調査研究」は、“調査班”と“中央調査班”が、「出土品の収蔵」と「関係者の研修」は、主に“資料管理活用班”が担当しています。詳しくはホームページ内の〔要覧PDF〕を参照ください。
 今回は、資料管理活用班(以下、活用班)の行っている業務について紹介します。
 「出土品の収蔵」は、〔収蔵資料管理〕として位置づけています。発掘調査され報告書が刊行された遺跡の出土遺物は、調査担当から活用班に委ねられます。遺物は体育館のような“収蔵庫”(第1・2収蔵庫の2棟あります)に収納しますが、全てプラスチックの箱(コンテナ)単位にID番号を付した上で納めています。台帳上の数値では、コンテナで約27,000箱に達しています。番号があることで、資料見学や遺物の貸出にも速やかに対応することができます。収蔵資料には土器・石器などの遺物以外にも、発掘調査で撮影した写真や図面類もあり、“資料室”等に保管してあります。全国各地から送られてくる調査報告書等の図書整理・収蔵も行っています。
 「関係者の研修」は、考古学・博物館学の関係者を対象とした〔博物館実習〕や教職員等を対象とした〔教員研修〕も行っていますが、最も多く利用されているのは〔セカンドスクール〕です。これは小・中学校、高校生を対象とした体験学習・授業サポートで、当センター内で実施する場合と、学校に出向いて行う“出前授業”があります。高校生等を対象とし、職場体験を行う〔インターンシップ〕もあります。
 また、〔遺跡見学会〕〔埋蔵文化財発掘調査報告会〕〔講演会〕〔企画展〕〔ふるさと考古学セミナー〕〔出張展示〕〔古代発見!バスツアー〕等も「関係者の研修」に位置づけられる事業として開催します。詳しくはホームページでご確認ください。
 さらに、近年は他機関との連携も重視しています。県生涯学習センター(秋田市)との「発掘!考古ゼミ」、県農業科学館(大仙市)との「農業科学館まつり」や「土器に生ける秋の草花展」を共催・参加の形で実施予定です。さらに、本年度から新規に連携を図るものとしては、国際教養大学(秋田市雄和)と大館市教育委員会があります。前者は大学の図書館を会場としたミニ出張展示「国際教養大学をとりまく考古世界」を、後者では「ふるさと発掘in大館」として大館郷土博物館での共同展示や片貝遺跡(大館市比内町)を利用しての体験発掘も予定しています。
 多くの活用事業関係メニューを用意しておりますので、是非とも埋蔵文化財センターをご利用下さい。お待ちしております。

第1収蔵庫の様子(灰色の箱がコンテナ) 資料室に保管の写真類(スライドアルバム)


米代川流域の遺跡数増加と災害からの復興(第97回)

 現代では5年おきに行われる国勢調査によって、どこにどれだけの人が住んでいるか、どの地域では人口が増えたかなどの人口動態を知ることができます。ここでは平安時代の米代川流域を対象に、地域ごとに見つかった遺跡や住居跡の数の増減を調べ、人口の推移を考えてみました。平安時代中頃から後半にあたる、9世紀半ばから11世紀半ばまでのおおよそ200年間を取り上げます。平安京では、藤原道長や紫式部、清少納言といった有名人が活躍していました。
 この頃の秋田県では、日本史上重要な事件が2つ起こります。878年の元慶の乱という大きな戦争と、915年の十和田火山噴火です。十和田火山の噴火で、一番大きな被害を受けたのが、米代川流域の村々です。北秋田市の胡桃(くるみ)(だて)遺跡や大館市道目木(どめき)遺跡で見つかった埋没家屋のように、火砕流堆積物に飲み込まれた当時の建物が数多く埋もれたままになっています。
 このような戦争や火山噴火といった災害が起きると、遺跡と住居跡の数はどのように変化するでしょうか。これまでの研究で、秋田県内では9世紀前半には横手周辺、9世紀半ばには秋田市周辺、そして9世紀末から10世紀前半には能代から鹿角に至る米代川流域で、遺跡数が大きく増えることがわかっています。遺跡の数だけでなく、住居数も激増します。つまり100年間で人が県南から県北へ移動したと考えられるのです(同じ時期に青森県津軽地域でも急激に遺跡数・住居数が増えたことがわかってます)。米代川流域に人が入ってくるのはちょうど、元慶の乱から十和田火山の噴火が起きた頃と重なります。
 災害がおきたら、人はそこを捨てて逃げるのが普通ではないでしょうか?米代川流域内の地域ごとに遺跡の増減を詳しく調べると、878年の元慶の乱以後に、米代川河口域の能代から中流域の大館にかけて遺跡が増え始めます。北秋田市・大館市・鹿角市といった中上流域の遺跡は、915年の十和田火山噴火で一時期途絶するのですが、すぐに以前をしのぐ勢いで遺跡数が増えてきます。能代近辺では遺跡数の増加は認められませんので、米代川河口域に住んでいた人たちが、中上流域に移動したと理解することができます。
 米代川流域では、戦争と災害の後に遺跡数が増大しています。これは、人災・天災を問わず、被害の復旧が急ピッチで進められたことを意味しています。遺跡の数を単純に数えたデータであっても、「復興」を旗印に集まった人々の熱気やしたたかさを感じることができるのです。

 縄文人と天然アスファルト(第96回)
 縄文人が接着剤を使っていたことをご存じでしょうか。発掘調査で出土した土器や石器をみると、壊れてしまった土器や石器の割れ口、石鏃の根元や石匙のつまみにべったりと色の黒い塗料のようなものがくっついているのを見つけることができます。これが縄文時代の接着剤である「天然アスファルト」です。
 アスファルトは原油由来の物質で、日本海沿岸の油田地帯に産地があることが知られています。特に有名なのは潟上市の豊川油田で、明治38年にはアスファルト採掘時に縄文土器が見つかったと報告されています。この他、能代市二ツ井の駒形地区(写真1)、新潟県の新津油田などが知られており、これらの限られた地域で採取された天然アスファルトが、北海道や関東地方、遠くは奈良まで広く流通していたと考えられていました。そして、縄文人は地層の間などから自然に滲みだしてきたアスファルトを集め、ほとんどそのまま使っていたのだろうと想像していたのです。
 ところが近年、こういった考え方にも見直しが必要となってきています。そのきっかけの一つとなったのが能代市烏野上岱遺跡の発掘調査成果でした。2004年に秋田県埋蔵文化財センターが行った発掘調査で、1棟の竪穴建物跡の炉の中や床面から、内部にアスファルトが残された深鉢形土器が4個まとまって見つかったのです(写真2・3)。二ツ井駒形のアスファルト産地からは約2.5kmしか離れていないこの場所で、縄文人は採取したアスファルトを土器に入れて加熱し、不純物を取り除く作業を行っていたようです。この建物跡はアスファルト工房跡ということもできるでしょう。また、新潟県の新津油田の端に位置する大沢谷内遺跡で2006年から2009年にかけて行われた調査でも、天然アスファルトから不純物を取り除いたり小分けにしたりという作業を行った跡が確認されています。
 これらの例を踏まえて過去の調査例を見直すと、北海道八雲町の野田生Ⅰ遺跡や同浜松2遺跡は産地の近くに作られたアスファルト工房だった可能性が出てきました。まだ発見されていないだけで、北海道にも縄文人が利用したアスファルトの産地が存在したのかもしれません。他にも、青森県の津軽地域や山形県鳥海山西麓の庄内油田などにも産地があったのではないかと考えられるようになってきました。
 もしかすると、私たちが思っていたよりもたくさん、アスファルトの産地はあったのかもしれません。それに、縄文人は意外と複雑な作業を、組織だって行っていたのかもしれません。果たしてどこで採取されたアスファルトが、どのような状態で、どこまで運ばれていたのでしょうか?豊川油田の近くにも、縄文人がアスファルト加工を行うための場所が残されてはいないでしょうか?縄文時代のアスファルト利用が初めて論じられてから118年。まだまだ調べなければならないことは山積みのようです。


 
 写真1
能代市二ツ井駒形の
天然アスファルト
写真2
能代市烏野上岱遺跡の
アスファルト工房跡 
写真3 工房跡から出土した土器
内側に黒く見えるのが天然アスファルトの塊。
埋蔵文化財センター特別展示室で展示中です。 
 
土偶はなぜ腕を下ろしたか?(その1)(第95回) 
 大阪吹田市にある「太陽の塔」は1970年に開催された万国博覧会会場に立てられた巨大な建造物ですが、ご存じのとおり製作にあたった岡本太郎は、縄文時代の土偶をモデルにしデザインしたといわれます。丸い顔面にやや裾の広がった胴体、そして胴体中央にももう一つの顔面があり、そこから両腕を伸ばした姿はたしかに縄文土偶に通じる造型です。
 ところで「太陽の塔」の両腕はいくぶん上に向けて造られています。そして、中部地方の中期後半(約4,500年前)には、実際にこの「太陽の塔」に良く似た両腕を上に伸ばした土偶があるのです。腕を上に向けた「バンザイ土偶」の愛称で知られる土偶です(写真1)。この土偶の場合はかなり極端ですが、中期までの土偶は腕を上げるか、水平に短く伸ばすかが特徴です。有名な三内丸山遺跡の大形板状土偶も腕を水平に伸ばした十字形に作られています。ところが、約4,000年前の後期になると土偶の腕は下りるようになります。秋田県でも大館市塚ノ下遺跡の土偶は腕を大きく垂らすのですが(写真2)、後期以降、晩期に至るまでこの腕を下ろす特徴は続きます。一万年続く土偶の変遷のなか、この変化をとらえそこに人体造型の系譜の断絶を認める説があります(三上徹也2014『縄文土偶ガイドブック』p38)。優れた視点です。
 土偶の腕はなぜ下りたのか?その理由を直接に知ることはできませんが、関連する事実を指摘することはできます。縄文時代の人体造型は土偶ばかりではありません。土器の表面に人体に似た浮き彫りの像が表現されることがあります。有名なのはやはり中部地方の中期の例で、太鼓や酒造器説のある「有孔鍔付土器」と呼ばれる特殊な土器の胴体に、腕を上げて脚を大きく開いた人体の文様が施されます(写真3)。ところが、東北地方の中期終わりから後期始めの頃の、同じく人体文を施した土器では腕は大きく下に下りるのです(写真4)。同じ東北地方後期初めの、弓矢文を描くいわゆる「狩猟文土器」にも人体が表現されることがありますが、その腕も同じように下に垂らしています。
 長い縄文時代の一時期に、土偶は上ないし横に伸ばしていた腕を、下に垂らすようになりました。その変化は土偶だけでなく、土器の表面に描いた人体の文様にも共通していたのです。縄文時代の観念には人体造型について、腕を伸ばす方向の異なる二つのモデルがあり、それが上から下に交替したと考えられるのではないか。岡本太郎の「太陽の塔」はその意味で、より早い段階のモデルに従って造られたといえるでしょう。
写真1:長野県坂上遺跡出土土偶
(富士見市教育委員会1988『唐渡宮』より)
写真2:大館市塚ノ下遺跡出土土偶
(大館市教育委員会提供
写真3:長野県藤内遺跡人体文付き「有孔鍔付土器」(武藤雄六1963「蛇身装飾のついた土偶と土器」『考古学雑誌』49-3より) 写真4:人体文貼付土器
(滝沢村教育委員会1995『けやきの平団地遺跡』)
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