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ミニ・コラム
(平成29年度掲載分)

【縄文時代のお墓】(第124回) 
   縄文時代の遺跡である鹿角市玉内遺跡の調査で、写真の様な石が並べられた遺構が発見されました。
 
上写真1:玉内墓壙(スキャン)SQ14 真上から
上が南東
上写真2:玉内墓壙(スキャンSQ14 南→東) 
 写真をよく見ると、太く長い石を中心に立てて、その周りを囲むように細長い石が放射状に並べられていることがわかります。この石の下を少しずつ掘りながら調査したところ、楕円形に掘られた穴が見つかりました。そして、その穴の中には数百個の河原石がびっしりと敷き並べられていました。この不思議な遺構は、いったい何なのでしょうか。
 ヒントは、同じく鹿角市の大湯環状列石にあります。
 大湯環状列石では、玉内遺跡と同じ遺構が見つかっています。穴の中の土を分析〔ここでは「燐分析(りんぶんせき)」という方法を試みました。〕したところ、その穴の中には人が埋められていたということがわかりました。つまり、写真で示した玉内遺跡の遺構も、下の図のように死者を埋めたお墓であったのではないかと考えられています。
 こうした石が並べられたお墓は「配石墓(はいせきぼ)」と呼ばれ、東北地方では縄文時代の後期ごろ(およそ4000~3000年前)にみられるお墓の形態の一種です。
 何故、石をこのように並べたのか、並べられた石にはどのような意味があったのか等、確かなことはいまだにわかっていません。研究者の中には、墓標(ぼひょう)であると考える人もいます。
 皆さんは縄文人が何を想って穴を掘り、石を並べたと考えますか。 
上写真3:配石墓内部想像図 (秋田県教育委員会 1988「玉内遺跡発掘調査報告書」より) 
 

 【総務班の業務について(その②)-整理作業編-】(第123回)  
  平成27年度第99回のミニ・コラムにおいて、「総務班の業務について-発掘調査編-」と題し、発掘調査における総務班の業務について紹介しました。遺跡の発掘調査は、結果を記録に残して(報告書の刊行で)終了となります。今回はその記録保存までの【整理作業】に係わる総務班の業務について、順を追って紹介します。
 発掘調査開始日まで調査に必要な契約を締結し、滞りなく調査初日を迎えると、程なくして整理作業に係わる業務に取りかかります。とは言え、報告書をまとめるのは専門である調査担当の仕事になるので、発掘調査同様、それに必要な下準備をしていきます。まず初めに、原稿作成に使用するパソコン等の賃貸借契約をします。次に、整理作業員の募集・採用についての手続きをし、必要な人材を確保します。そして発掘調査が終了し、整理作業に入ると、今度は必要な物品を購入したり、発掘した遺物の保存・分析に係る各種業務委託契約を順次締結していきます。それぞれの遺物情報が揃わなければ報告書にまとめることができないため、どの契約も報告書の刊行時期を見越し、条例・規則に沿って適時契約していきます。必要なものすべてを整えたら、あとは原稿が出来上がるのを待つのみです。そして、出来上がった原稿を電子入札に登録し、印刷業者を決定します。その後、校正を重ね、ようやく報告書が完成します。完成した報告書を各箇所に送付したところで整理作業の主だった業務は終了ですが、総務班は最後の最後に関係各所への決算報告をし、全てが終了となります。
 常に予算書とにらめっこをしている総務班員の姿が想像できたでしょうか?
このようにほとんどが裏方業務ですが、秋田県埋蔵文化財センターにお越しいただくと総務班が一番最初に来館者をお迎えします。センター見学は無料で、担当職員が展示解説も行いますので、ご希望の方はお気軽にお申し付けください。皆さまのお越しをお待ちしております。
 
上写真1:整理作業員の業務の様子
 
上写真2:玄関正面の総務室
 

 【縄文時代の石器の材料を見つけよう!】(第122回)  
  行楽の季節、みなさんも河原や海岸へ行く機会があるのではないでしょうか。
私たちも縄文人たちが作った石器の材料を探すために、いろいろな河原を歩いています。ここでは、東成瀬村から横手市へと流れる成瀬川の河原で見つけた頁岩(けつがん)について紹介します。
 
上写真1:成瀬川流域の様子
 
上写真2:採集した石器の材料(珪質頁岩の原石)
  他県では火山ガラスの一種である黒曜石(こくようせき)を主に石器の材料として利用しますが、秋田県では頁岩の産地が県内一帯に存在するため、頁岩を主に石器の材料として使います。その中でも、より硬く質の良い「珪質頁岩(けいしつけつがん)」を縄文人は好んで石器の材料にしています。
 例えば、弓矢の先端につける「石鏃(せきぞく)」や槍先につける「石槍(いしやり)」、動物の皮をはぎ、肉を切り取るナイフとして使用した「スクレイパー」と呼ばれる石器も珪質頁岩を利用して作られています。秋田県内の縄文時代の遺跡において、珪質頁岩(けいしつけつがん)は最もポピュラーな石器の材料であり、縄文人にとっては生活に欠かせない必需品であったのでしょう。
 皆さんのお近くの河原でも、こうした石器の材料となる石を見つけることができるかもしれません。ただし最近は、石を採集できる場所にはクマも近くまで来ていますのでご注意を!くれぐれも1人で行かないでください。
 
 
上写真3:東成瀬村トクラ遺跡から出土した珪質頁岩製の石器
 
上写真4:採集地周辺で見つけた動物(クマ?)の足跡
 

 【所蔵資料の貸し出し】(第121回) 
  埋蔵文化財センターの仕事の一つに所蔵資料の貸し出し業務というのがあります。資料とは、具体的には土器や石器などの遺跡出土品と発掘調査や出土品などの写真及び写真データのことです。センターでは、博物館での展示や書籍等への掲載などで借用の申請があれば、実物や写真等のデータを貸し出しています。下の表は過去12年間の貸し出しの実績をまとめたものです。
 
  年度によって貸し出しの件数や利用数の内訳に増減があることが分かります。長年この仕事を行っていると面白いことに気づきます。平成17~19年度までは毎年40件前後の利用がありましたが、20年度以降26年度までは20件台が多くなり、年度によっては20件を割り込むこともありました。その理由として利用内訳の書籍等掲載の件数が19年度までの20件台から10件台に減少したことが上げられます。
 これを世の中の動きと照らし合わせてみると、平成19年あたりまでは、アメリカのサブプライムローン景気を背景に世界的に好況を呈していましたが、20年のリーマンショックにより株価が暴落し、日本経済もデフレスパイラルに陥ってしまいます。その後、24年に経済再生政策がスタートし、その期待感もあって、25~26年には日経平均株価がリーマンショック以前の水準に回復します。
 平成26年には消費増税8%が導入されたせいか、貸出件数は40件台になり、内訳の展示公開が20件台、書籍等掲載は30件と増加します。考古学関係の書籍等の出版は、景気の動向と関係があるのでしょうか。28年度の貸し出し件数が20件台、書籍等掲載利用が10件台と再び減少したのが気になるところですが。
 
 
上写真1:ナイフ型石器(旧石器時代)能代市鴨子台遺跡出土 
 
上写真2:縄文土器(縄文時代前期)大館市池内遺跡出土 
 

 【一駅で二遺跡堪能しよう】(第120回)
-鉄道で行く遺跡巡り 縄文と古代のロマンに浸れる地-
  本当に突然ですが、秋田県内で二つの重要な遺跡を楽しめるお得な駅はどこでしょうか?

ヒント1 その駅は県北部にあり、両遺跡とも駅から歩いて5分足らずのところにあります。
ヒント2 駅の南西側と北東側に遺跡があります。
ヒント3 駅の北東側にある遺跡は、菅江真・・・おっと!言い過ぎてしまったか?

 遺跡通の方ならもうどこかご存知でしょう。そうです。正解は秋田内陸縦貫鉄道小ヶ田駅(北秋田市)です。そして二つの遺跡は伊勢堂岱遺跡(縄文時代後期)と小ヶ田(小勝田)埋没家屋の発見地点(平安時代)、3,000年の年代差があります。

 国指定史跡である伊勢堂岱遺跡は、日本で唯一環状列石が4基も見つかっている縄文後期の聖地です(写真1)。祭祀や祈りが継続的に行われた場所で、掘立柱建物跡やお墓が見つかっています。遺跡からは世界遺産白神山地がよく見え、きれいに整備されていますので気持ちよく散策できます。春・夏・秋(冬は非公開)季節の移ろいとともに変化する遺跡の表情に癒されます。現在は熊の出没により遺跡の公開が中止されており、非常に残念で胸が痛みます。多くの人が安心して遺跡の魅力を堪能できる日が早く来ることを願うのみです(頑張れ!伊勢堂岱遺跡)。なお、遺跡見学は無理でもガイダンス施設である「伊勢堂岱縄文館」で遺跡の魅力を堪能することが可能です。
 
 上写真1:伊勢堂岱遺跡 
  小ヶ田埋没家屋は知る人ぞ知る遺跡かもしれません。小ヶ田駅から北に歩いていくと、菅江真澄の絵図で有名な埋没家屋発見地点があります。内陸線より西側にありますが、東側という説もあります。遺跡として登録されている西側は、シラス段丘の崖となっています(写真2)。真澄の絵図(写真3)の背景に似ていると思いませんか?シラスは、今から1,100年前の十和田火山(現在の十和田湖)の大噴火で発生した火山泥流による土砂です。この時の火山泥流は未曾有の規模で、鷹巣盆地はシラスで埋め尽くされました。やがて長い年月を経てシラスは侵食され、残った部分が段丘になっているのです。シラス段丘の高さは4mほどです。段丘の下が1,100年前の地面になります。当時の地面に建てられていた建物は、火山泥流(シラス)により完全に埋まってしまいました。それから約900年後の1,817年、大雨によりシラス段丘の崖が大きく崩れ、平安時代の建物が突如姿を現したのです。これが、真澄が強い関心を抱き記録した「小ヶ田埋没家屋」です。埋没家屋は日本で米代川流域にしか見られない非常に貴重なもので、考古学のみならず建築史的にも非常に大きな価値をもっています。ちなみに米代川対岸には、埋没家屋の調査で大きな成果を得た有名な胡桃館遺跡があります(遺材等出土品は国指定重要文化財)。
 伊勢堂岱遺跡と小ヶ田埋没家屋。考古学会でも注目される2つの遺跡。鉄道に乗って訪れてみてはどうでしょうか?車窓から眺める遺跡の景観も素敵な思い出として記憶されることでしょう。  
 
 上写真2:シラス段丘の崖
 上写真3:小勝田埋没家屋の絵図(菅江真澄翁画)★大館市立栗盛記念図書館所蔵★
 上地図:秋田県遺跡地図情報より 
 上写真4:小ケ田駅
 

【トクラ遺跡から出土した土器の復元と補修】(第119 
  トクラ遺跡は、栗駒山麓(くりこまさんろく)を源流とする成瀬川(なるせがわ)の支流、北ノ俣沢(きたのまたさわ)に面する標高482mの南向きの段丘上に位置します。現在のところ成瀬川流域で最も上流部に立地する遺跡の1つです。昨年度は4,550㎡を対象に発掘調査を行いました。
 遺跡からは縄文時代早期~晩期、弥生時代、奈良時代の土器が見つかりました。今回はトクラ遺跡から出土した土器の整理作業の一部を紹介したいと思います。
 遺跡から出てくる土器は割れていることがほとんどで、整理作業の中で破片同士をくっつけていくと、どうしても足りない部分が出てきます。そうした欠損した部分に補填材を入れて、土器を本来の形に戻すことを復元と言います。完全な形に復元せずに部分的に補填材を入れて、補修・補強するだけの場合もあります。補填材は固まるまで時間がかかるため、何もしないでいると流れ落ちてしまいます。そのため何らかの材料で型づくりしたり、裏打ちすることが必要です(あきた埋文では医療用のネットを使用しています)。型ができたら、スプーンやヘラなどを使って補填材を入れていきます。この時点で形を整えますが、後に削って整形することもあります。場合によっては文様も一緒に復元します。  
欠損部分をネットで補強し、型づくりします 
補填材(モルタルやガラスの粉をエポキシ系接着剤で練り込んだもの) 
補填材で埋めていきます 
欠損部分の補填完了 
今回は文様も復元します 
復元完了 
絶賛復元作業中! 

【古館堤頭Ⅱ遺跡の「環状集落」?を営んだ人々】(第118後編
  ところで、これらの南群に対し、北群には同時期の住居が8軒あります(古館堤頭Ⅱ遺跡の遺構配置図 (PDF版))。直径4m足らずの小型の住居の他に、直径8mを越える大型の住居が各段階に1軒もしくは2軒存在したようです。住居の主軸の向きは、一部を除き南群新段階の北西側住居群と同じ南東方向に揃っています。ただし、北端にある古段階の大型住居は建て替えて拡張する前の主軸が正反対の北西方向でした。言い換えると、当初北西の壁際にあった炉が建て替え時に南東の壁際に移されているのです。このことからは、住居の炉の向きは、風向きなどの実用的なことと直接関係するのではなかったようです。ある方向について何らかの観念のようなものが形成されたのかもしれません。

上写真:建て替えて拡張された大型の竪穴住居跡 
 また、北群の大型住居では、バラバラに壊して破片となった石棒や石皿が出土した特異な例があります。住居を廃絶し埋め立てる時などに、住んでいた人達が行ったマツリに使われたものでしょう。石棒と石皿はそれぞれ男性と女性のマツリの道具だったとする考えもあります。南群の住居ではこのようなバラバラに壊された例は認められませんので、大型住居に住んでいた人達のためだけではなく、集落全体のマツリの際に使われたのかもしれません。いずれにせよ、北群の大型住居に住んだ人達は、南群の人達とは少し異なった立場だったのでしょう。古館堤頭Ⅱ遺跡では、大きくは二つあるいは三つ程度のグループが場所を分けて住居を営んだようですが、時期によってグループが増減し、また必ずしも対等な関係ではなかったようです。広場に墓地がないことなども考えると、関東地方で典型的とされる環状集落を営んだ人達、双分制集団とは、おそらく少し性格が異なっていたように思えます。
 
上写真:「バラバラで見つかった石棒と石皿」
  これらの違いの重要な原因の一つに人口の差があったことが考えられます。双分制集団がそれぞれある種の血統で結びついているとすると、それなりの規模の集団人口がなければ何代にもわたって集団を維持していくことは難しかったでしょう。関東地方の縄文時代中期は遺跡数や住居数がピークに達し、これらと比例して人口も最大となると推定されています。この人口増が社会的な要因となって双分制集団や環状集落が成立したのでしょう。これに対して、東北地方の縄文時代中期は、見つかった遺跡数や住居数から見て、関東地方よりも人口はかなり少なかったと考えられます。そのため、双分制集団は形成されたとしても長く続くことはあまりなかったようです。ここでは詳しく触れませんが、双分制集団が安定して形成された縄文時代後期前半の特定地域で、環状集落ではなく環状列石(ストーンサークル)が形成されたように思えます。もしかすると、環状列石は環状集落の仲間だったのかもしれません。
 このような考えは、もちろん今後様々な観点から検証していく必要があります。また、まったく別の見方もたくさんあるでしょう。皆さんもぜひ企画展に足をお運びいただき、実際の出土品や発掘調査の写真を御覧になりながら縄文集落の変遷やその背景について思いを巡らせていただきたいと思います。
 

【古館堤頭Ⅱ遺跡の「環状集落」?を営んだ人々】(第118
前編

~平成29年度企画展第Ⅰ期から~ 

上写真:H29企画展 第Ⅰ期の様子
 現在、秋田県埋蔵文化財センターでは、平成29年度企画展第Ⅰ期「米代川流域の縄文文化 ~縄文集落の変遷とストーンサークルの出現~」を平成29年9月10日(日)まで開催中です。この企画展の準備を通じて気になったことの中から、古館堤頭(ふるだてつつみがしら)Ⅱ遺跡の「環状集落」について少しお話をしてみたいと思います。
 環状集落は、広場の周りに住居群が環状に巡ることが特徴の縄文集落です。典型的な例では広場に多数の墓が集まる墓地が営まれており、これも大きな特徴です。累積で300軒以上の住居があったり、住居群の広がりが直径150mを越えるような大規模なものもあります。環状集落は関東地方の縄文時代中期に特に発達します。東北地方中部でも縄文時代中期の環状集落がいくつか認められますが、米代川流域など東北地方北部にはほとんど見当たりません。
 さて、今回の企画展で紹介している三種町(みたねちょう)の古館堤頭Ⅱ遺跡は縄文時代中期終わり頃(今から約4,500年前)の集落です。
 秋田県埋蔵文化財センターが平成12年に行った発掘調査は道路建設予定地の狭い範囲が対象でした。そのため、集落全体を調査したわけではありませんが、現状の遺構配置からでも興味深い特徴が見てとれます。まず見つかった遺構(住居などの施設の痕跡)は、半地下式の竪穴住居跡34軒、掘立柱建物跡1棟、貯蔵穴3基などが主なものでした。墓地は見つからず、住居中心に構成されているのが一つの特徴です。そして、住居群は中央の浅い沢を挟んで南群と北群に大きく分かれます。南群の住居群は中央の直径20mほどの小さな広場の周りに環状に巡るように見えます。広場に墓地はありませんが、環状集落の一種と言えるかもしれません。ただし、住居群を新古の2段階に大きく分けて見ると、古段階では西側に弧状に並んでいて必ずしも環状にはなりません。また、竪穴の中心から住居の炉(ほとんどが埋めた土器や石囲いなど複数の施設から構成され、壁際にある「複式炉」です)の中心を通る線を主軸(図の青矢印)とすると、その方向はバラバラで統一性がありません。一方、新段階では住居群は北西側の一群と南東側の一群に分かれそうです。主軸方向もこれに対応して、それぞれ南東方向と北西方向に向かい合うようにまとまります。実は、環状集落はこのような大きく二つに分かれる住居群が広場を挟んで向かい合って立地することによって形成されており、そのことからは場所を別にして住居群を営む、おそらくそれぞれが血統で結びついた、対等でお互いが補完し合う二つのグループ(ここでは「双分制集団」と呼ぶことにします)が存在することが想定できるという有力な考えがあるのです。 

上図:古館堤頭Ⅱ遺跡の遺構配置図 (PDF版)
 

【堂の下の鋳型(いがた)】(第117回)   
 日本海沿岸東北自動車道の五城目ICと琴丘ICの間に八郎湖PAがあります。
 上り側のPAは、眼下に八郎潟、その先に寒風山、真山、本山などの男鹿半島を眺望することが出来る景勝ポイントとなっています。
 この場所は、PAになる前は、八郎潟に向かって低くなっていく杉が植林された丘陵地でした。PAが建設されることになって調査が行われ、地表面に鉄のカス等が落ちていることを確認したことから、製鉄に関係する遺跡であることが分かり、堂の下遺跡(三種町)と命名されました。
 下の写真は、堂の下遺跡の発掘調査で出土した鋳型(いがた)です。
 堂の下で使用された鋳型は、鉄製品を鋳造(ちゅうぞう)するために12世紀頃に使われたものであり、作られていた製品は主に鉄鍋(てつなべ)であったことが分かりました。
 鋳型の役割は、溶けた鉄を流し込んで製品の形に固めることです。
 堂の下の鋳型は、外側ほど粗い砂を使う多重造り(たじゅうづくり)で、鉄との接触部には真土(まね)と呼ばれる大変細かい粒子(りゅうし)の砂を使ったり、製品を剥がし(はがし)やすくするために墨を塗ったりする複雑な構造です。このような造作(ぞうさ)は、溶けた高温の鉄が冷却して固まっていく過程を考えた上での対策であり、一朝一夕で覚えられるような簡単なものではなく、熟練した職人の存在に裏打ちされたものです。鋳型は、製品を取り出すために壊されますので、一つの製品のために手間をかけて一つの鋳型が作られるのです。
 堂の下遺跡では、鋳型は大量に出土したのですが、鉄鍋はほとんど見つかりませんでした。堂の下で作られた鉄鍋の多くは、消費地に運搬され流通したものと考えられます。
 堂の下遺跡の調査後、由利本荘市の堤沢山遺跡でも鋳型が出土しています。
 堂の下で鉄鍋製作に携わった熟練した職人がどこから来たかは分かりませんが、鋳造という特殊な技能をもった職人の動向を探るのに、堂の下と堤沢山の比較検討がヒントになるのではないでしょうか。さらに、東北地方の中世職人の動きを知る足がかりにもなりそうでもあります。
 
堂の下遺跡Ⅱ  鋳型1(外型)  堂の下遺跡Ⅱ  鋳型2(外型) 

【一つ目小僧の正体は!?】(第116回) 
 みなさんは一つ目小僧を知っていますか?目が一つしかなく、下駄を履いた子供姿の妖怪です。彼の正体はいったい何なのでしょうか。
 そのヒントは「鉄」にあります。包丁や車、鉄筋コンクリートなど現代のわたしたちの身の回りには鉄製品があふれています。日本では弥生時代から鉄製品を利用するようになりますが、最初は大陸から鉄を輸入していました。日本で鉄が作られるようになったのは古墳時代に入ってからです。鉄は自然界に単独では存在しないため、砂鉄や鉄鉱石などの原料に熱を加えて金属に変化させる必要があります。そのため、わたしたちの先祖たちは粘土で製鉄炉を作り、その中で砂鉄などの原料と一緒に燃料の木炭を燃やして鉄に変化させていました。鉄にも性質が異なるいくつかの種類がありますが、いずれも1100℃以上の高温に熱さなければならず、何日間も木炭を燃やし続けていました。今と違って温度計もない時代ですから、温度が上がったかどうかは炎の色を、鉄ができたかどうかは製鉄炉の中を覗いて判断していたことでしょう。1100℃以上の炎を何度も覗いていたら熱によって目を痛めてしまう人も多かったと考えられます。このような苦労の末、完成した鉄は鋳造(ちゅうぞう)によって鍋や梵鐘(ぼんしょう)へ、鍛冶(かじ)によって鎌や包丁へと形を変え、何度も修理され大切に使われていました。一つ目小僧はこのように鉄を作っていて片目を痛めてしまった人々の姿であるという説があるのです。
 製鉄遺跡では製鉄炉の残骸、不純物の混ざった鉄滓(てっさい)、製鉄炉への送風管である羽口(はぐち)、鋳型(いがた)などが大量に出土します。その中には鋳込(いこ)みが失敗してしまった鋳型(いがた)や、そもそもうまく鉄が作れなかった製鉄炉の破片もみられます。先人がたくさんの苦労と試行錯誤を重ねたおかげで、現代のわたしたちは身近に鉄製品を使えるようになりました。みなさんも次に鉄製品を使う時、一つ目小僧たちの存在を思い出してみてください。
 
 図1 一つ目小僧 写真1 立子山たたら1号炉の操業のようす①  写真2 立子山たたら1号炉の操業のようす② 
                                    ☆写真(日本古代銑生産研究会in福島2013より)

ミニコラムが復活しました!(第115回)
 こんにちは、お久しぶりです。
 “あきた埋文”のホームページを日ごろからご愛顧くださっている皆さんの中
には、昨年来「もうミニコラムは終わったの?」「でも過去の記事はそのままだし・・・」と、様々疑問を感じていた方がいらっしゃったのでは?本当に何の音沙汰もなく申し訳ありませんでした。今日からミニコラムが復活しました。よろしくお願いします。
 実は、昨年度“あきた埋文”では情報提供のあり方について議論を重ねておりました。ホームページの構成やデザインの変更、また新しくフェイスブックを開設するなど情報提供の方法を変えていくことについてなどです。その議論に紛れて、ミニコラムが一時的に(結果的には1年間)ストップしてしまいました。
しかし、この3月、平成28年度の業務振り返りの会議でのことでした。「ミニコラムはもうやめるのですか。私が“あきた埋文”に入って仕事がしたいと思ったのはミニコラムの記事のお陰でもあるんです。」。発言したのは、他県出身で新しく採用になったばかりの職員でした。それは、秋田県民の方々や全国の考古ファンの声でもあるのではないか、決して少なくない数の職員がそう思ったはずです。
 平成19年に始まり、埋蔵文化財に関するわかりやすい用語解説や遺跡・遺物の解釈、最前線の発掘成果報告などの専門的なものから、発掘現場での思いや職員の興味関心、ロマンを語る随想のようなものまで、様々な情報提供をしてきたミニコラム。過去114回を改めて見てみると、“あきた埋文”にとって誠に大きな財産と言えるものです。
 この4月から新しくスタートしたフェイスブックと1年ぶりに復活したミニコラム。
“あきた埋文”はこの空間を是非多くの方々と共有し続けて行きたいと思います。
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