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ミニ・コラム
(平成29年度掲載分)

【トクラ遺跡から出土した土器の復元と補修】(第119 
  トクラ遺跡は、栗駒山麓(くりこまさんろく)を源流とする成瀬川(なるせがわ)の支流、北ノ俣沢(きたのまたさわ)に面する標高482mの南向きの段丘上に位置します。現在のところ成瀬川流域で最も上流部に立地する遺跡の1つです。昨年度は4,550㎡を対象に発掘調査を行いました。
 遺跡からは縄文時代早期~晩期、弥生時代、奈良時代の土器が見つかりました。今回はトクラ遺跡から出土した土器の整理作業の一部を紹介したいと思います。
 遺跡から出てくる土器は割れていることがほとんどで、整理作業の中で破片同士をくっつけていくと、どうしても足りない部分が出てきます。そうした欠損した部分に補填材を入れて、土器を本来の形に戻すことを復元と言います。完全な形に復元せずに部分的に補填材を入れて、補修・補強するだけの場合もあります。補填材は固まるまで時間がかかるため、何もしないでいると流れ落ちてしまいます。そのため何らかの材料で型づくりしたり、裏打ちすることが必要です(あきた埋文では医療用のネットを使用しています)。型ができたら、スプーンやヘラなどを使って補填材を入れていきます。この時点で形を整えますが、後に削って整形することもあります。場合によっては文様も一緒に復元します。  
欠損部分をネットで補強し、型づくりします 
補填材(モルタルやガラスの粉をエポキシ系接着剤で練り込んだもの) 
補填材で埋めていきます 
欠損部分の補填完了 
今回は文様も復元します 
復元完了 
絶賛復元作業中! 

【古館堤頭Ⅱ遺跡の「環状集落」?を営んだ人々】(第118後編
  ところで、これらの南群に対し、北群には同時期の住居が8軒あります(古館堤頭Ⅱ遺跡の遺構配置図 (PDF版))。直径4m足らずの小型の住居の他に、直径8mを越える大型の住居が各段階に1軒もしくは2軒存在したようです。住居の主軸の向きは、一部を除き南群新段階の北西側住居群と同じ南東方向に揃っています。ただし、北端にある古段階の大型住居は建て替えて拡張する前の主軸が正反対の北西方向でした。言い換えると、当初北西の壁際にあった炉が建て替え時に南東の壁際に移されているのです。このことからは、住居の炉の向きは、風向きなどの実用的なことと直接関係するのではなかったようです。ある方向について何らかの観念のようなものが形成されたのかもしれません。

上写真:建て替えて拡張された大型の竪穴住居跡 
 また、北群の大型住居では、バラバラに壊して破片となった石棒や石皿が出土した特異な例があります。住居を廃絶し埋め立てる時などに、住んでいた人達が行ったマツリに使われたものでしょう。石棒と石皿はそれぞれ男性と女性のマツリの道具だったとする考えもあります。南群の住居ではこのようなバラバラに壊された例は認められませんので、大型住居に住んでいた人達のためだけではなく、集落全体のマツリの際に使われたのかもしれません。いずれにせよ、北群の大型住居に住んだ人達は、南群の人達とは少し異なった立場だったのでしょう。古館堤頭Ⅱ遺跡では、大きくは二つあるいは三つ程度のグループが場所を分けて住居を営んだようですが、時期によってグループが増減し、また必ずしも対等な関係ではなかったようです。広場に墓地がないことなども考えると、関東地方で典型的とされる環状集落を営んだ人達、双分制集団とは、おそらく少し性格が異なっていたように思えます。
 
上写真:「バラバラで見つかった石棒と石皿」
  これらの違いの重要な原因の一つに人口の差があったことが考えられます。双分制集団がそれぞれある種の血統で結びついているとすると、それなりの規模の集団人口がなければ何代にもわたって集団を維持していくことは難しかったでしょう。関東地方の縄文時代中期は遺跡数や住居数がピークに達し、これらと比例して人口も最大となると推定されています。この人口増が社会的な要因となって双分制集団や環状集落が成立したのでしょう。これに対して、東北地方の縄文時代中期は、見つかった遺跡数や住居数から見て、関東地方よりも人口はかなり少なかったと考えられます。そのため、双分制集団は形成されたとしても長く続くことはあまりなかったようです。ここでは詳しく触れませんが、双分制集団が安定して形成された縄文時代後期前半の特定地域で、環状集落ではなく環状列石(ストーンサークル)が形成されたように思えます。もしかすると、環状列石は環状集落の仲間だったのかもしれません。
 このような考えは、もちろん今後様々な観点から検証していく必要があります。また、まったく別の見方もたくさんあるでしょう。皆さんもぜひ企画展に足をお運びいただき、実際の出土品や発掘調査の写真を御覧になりながら縄文集落の変遷やその背景について思いを巡らせていただきたいと思います。
 

【古館堤頭Ⅱ遺跡の「環状集落」?を営んだ人々】(第118
前編

~平成29年度企画展第Ⅰ期から~ 

上写真:H29企画展 第Ⅰ期の様子
 現在、秋田県埋蔵文化財センターでは、平成29年度企画展第Ⅰ期「米代川流域の縄文文化 ~縄文集落の変遷とストーンサークルの出現~」を平成29年9月10日(日)まで開催中です。この企画展の準備を通じて気になったことの中から、古館堤頭(ふるだてつつみがしら)Ⅱ遺跡の「環状集落」について少しお話をしてみたいと思います。
 環状集落は、広場の周りに住居群が環状に巡ることが特徴の縄文集落です。典型的な例では広場に多数の墓が集まる墓地が営まれており、これも大きな特徴です。累積で300軒以上の住居があったり、住居群の広がりが直径150mを越えるような大規模なものもあります。環状集落は関東地方の縄文時代中期に特に発達します。東北地方中部でも縄文時代中期の環状集落がいくつか認められますが、米代川流域など東北地方北部にはほとんど見当たりません。
 さて、今回の企画展で紹介している三種町(みたねちょう)の古館堤頭Ⅱ遺跡は縄文時代中期終わり頃(今から約4,500年前)の集落です。
 秋田県埋蔵文化財センターが平成12年に行った発掘調査は道路建設予定地の狭い範囲が対象でした。そのため、集落全体を調査したわけではありませんが、現状の遺構配置からでも興味深い特徴が見てとれます。まず見つかった遺構(住居などの施設の痕跡)は、半地下式の竪穴住居跡34軒、掘立柱建物跡1棟、貯蔵穴3基などが主なものでした。墓地は見つからず、住居中心に構成されているのが一つの特徴です。そして、住居群は中央の浅い沢を挟んで南群と北群に大きく分かれます。南群の住居群は中央の直径20mほどの小さな広場の周りに環状に巡るように見えます。広場に墓地はありませんが、環状集落の一種と言えるかもしれません。ただし、住居群を新古の2段階に大きく分けて見ると、古段階では西側に弧状に並んでいて必ずしも環状にはなりません。また、竪穴の中心から住居の炉(ほとんどが埋めた土器や石囲いなど複数の施設から構成され、壁際にある「複式炉」です)の中心を通る線を主軸(図の青矢印)とすると、その方向はバラバラで統一性がありません。一方、新段階では住居群は北西側の一群と南東側の一群に分かれそうです。主軸方向もこれに対応して、それぞれ南東方向と北西方向に向かい合うようにまとまります。実は、環状集落はこのような大きく二つに分かれる住居群が広場を挟んで向かい合って立地することによって形成されており、そのことからは場所を別にして住居群を営む、おそらくそれぞれが血統で結びついた、対等でお互いが補完し合う二つのグループ(ここでは「双分制集団」と呼ぶことにします)が存在することが想定できるという有力な考えがあるのです。 

上図:古館堤頭Ⅱ遺跡の遺構配置図 (PDF版)
 

【堂の下の鋳型(いがた)】(第117回)   
 日本海沿岸東北自動車道の五城目ICと琴丘ICの間に八郎湖PAがあります。
 上り側のPAは、眼下に八郎潟、その先に寒風山、真山、本山などの男鹿半島を眺望することが出来る景勝ポイントとなっています。
 この場所は、PAになる前は、八郎潟に向かって低くなっていく杉が植林された丘陵地でした。PAが建設されることになって調査が行われ、地表面に鉄のカス等が落ちていることを確認したことから、製鉄に関係する遺跡であることが分かり、堂の下遺跡(三種町)と命名されました。
 下の写真は、堂の下遺跡の発掘調査で出土した鋳型(いがた)です。
 堂の下で使用された鋳型は、鉄製品を鋳造(ちゅうぞう)するために12世紀頃に使われたものであり、作られていた製品は主に鉄鍋(てつなべ)であったことが分かりました。
 鋳型の役割は、溶けた鉄を流し込んで製品の形に固めることです。
 堂の下の鋳型は、外側ほど粗い砂を使う多重造り(たじゅうづくり)で、鉄との接触部には真土(まね)と呼ばれる大変細かい粒子(りゅうし)の砂を使ったり、製品を剥がし(はがし)やすくするために墨を塗ったりする複雑な構造です。このような造作(ぞうさ)は、溶けた高温の鉄が冷却して固まっていく過程を考えた上での対策であり、一朝一夕で覚えられるような簡単なものではなく、熟練した職人の存在に裏打ちされたものです。鋳型は、製品を取り出すために壊されますので、一つの製品のために手間をかけて一つの鋳型が作られるのです。
 堂の下遺跡では、鋳型は大量に出土したのですが、鉄鍋はほとんど見つかりませんでした。堂の下で作られた鉄鍋の多くは、消費地に運搬され流通したものと考えられます。
 堂の下遺跡の調査後、由利本荘市の堤沢山遺跡でも鋳型が出土しています。
 堂の下で鉄鍋製作に携わった熟練した職人がどこから来たかは分かりませんが、鋳造という特殊な技能をもった職人の動向を探るのに、堂の下と堤沢山の比較検討がヒントになるのではないでしょうか。さらに、東北地方の中世職人の動きを知る足がかりにもなりそうでもあります。
 
堂の下遺跡Ⅱ  鋳型1(外型)  堂の下遺跡Ⅱ  鋳型2(外型) 

【一つ目小僧の正体は!?】(第116回) 
 みなさんは一つ目小僧を知っていますか?目が一つしかなく、下駄を履いた子供姿の妖怪です。彼の正体はいったい何なのでしょうか。
 そのヒントは「鉄」にあります。包丁や車、鉄筋コンクリートなど現代のわたしたちの身の回りには鉄製品があふれています。日本では弥生時代から鉄製品を利用するようになりますが、最初は大陸から鉄を輸入していました。日本で鉄が作られるようになったのは古墳時代に入ってからです。鉄は自然界に単独では存在しないため、砂鉄や鉄鉱石などの原料に熱を加えて金属に変化させる必要があります。そのため、わたしたちの先祖たちは粘土で製鉄炉を作り、その中で砂鉄などの原料と一緒に燃料の木炭を燃やして鉄に変化させていました。鉄にも性質が異なるいくつかの種類がありますが、いずれも1100℃以上の高温に熱さなければならず、何日間も木炭を燃やし続けていました。今と違って温度計もない時代ですから、温度が上がったかどうかは炎の色を、鉄ができたかどうかは製鉄炉の中を覗いて判断していたことでしょう。1100℃以上の炎を何度も覗いていたら熱によって目を痛めてしまう人も多かったと考えられます。このような苦労の末、完成した鉄は鋳造(ちゅうぞう)によって鍋や梵鐘(ぼんしょう)へ、鍛冶(かじ)によって鎌や包丁へと形を変え、何度も修理され大切に使われていました。一つ目小僧はこのように鉄を作っていて片目を痛めてしまった人々の姿であるという説があるのです。
 製鉄遺跡では製鉄炉の残骸、不純物の混ざった鉄滓(てっさい)、製鉄炉への送風管である羽口(はぐち)、鋳型(いがた)などが大量に出土します。その中には鋳込(いこ)みが失敗してしまった鋳型(いがた)や、そもそもうまく鉄が作れなかった製鉄炉の破片もみられます。先人がたくさんの苦労と試行錯誤を重ねたおかげで、現代のわたしたちは身近に鉄製品を使えるようになりました。みなさんも次に鉄製品を使う時、一つ目小僧たちの存在を思い出してみてください。
 
 図1 一つ目小僧 写真1 立子山たたら1号炉の操業のようす①  写真2 立子山たたら1号炉の操業のようす② 
                                    ☆写真(日本古代銑生産研究会in福島2013より)

ミニコラムが復活しました!(第115回)
 こんにちは、お久しぶりです。
 “あきた埋文”のホームページを日ごろからご愛顧くださっている皆さんの中
には、昨年来「もうミニコラムは終わったの?」「でも過去の記事はそのままだし・・・」と、様々疑問を感じていた方がいらっしゃったのでは?本当に何の音沙汰もなく申し訳ありませんでした。今日からミニコラムが復活しました。よろしくお願いします。
 実は、昨年度“あきた埋文”では情報提供のあり方について議論を重ねておりました。ホームページの構成やデザインの変更、また新しくフェイスブックを開設するなど情報提供の方法を変えていくことについてなどです。その議論に紛れて、ミニコラムが一時的に(結果的には1年間)ストップしてしまいました。
しかし、この3月、平成28年度の業務振り返りの会議でのことでした。「ミニコラムはもうやめるのですか。私が“あきた埋文”に入って仕事がしたいと思ったのはミニコラムの記事のお陰でもあるんです。」。発言したのは、他県出身で新しく採用になったばかりの職員でした。それは、秋田県民の方々や全国の考古ファンの声でもあるのではないか、決して少なくない数の職員がそう思ったはずです。
 平成19年に始まり、埋蔵文化財に関するわかりやすい用語解説や遺跡・遺物の解釈、最前線の発掘成果報告などの専門的なものから、発掘現場での思いや職員の興味関心、ロマンを語る随想のようなものまで、様々な情報提供をしてきたミニコラム。過去114回を改めて見てみると、“あきた埋文”にとって誠に大きな財産と言えるものです。
 この4月から新しくスタートしたフェイスブックと1年ぶりに復活したミニコラム。
“あきた埋文”はこの空間を是非多くの方々と共有し続けて行きたいと思います。
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